第231話 主との語らい②

 じんわりと背中が温かみを帯びて、ゆっくりと痛みが引いていく気配があった。


「魔王様、失血死しない程度の最低限の治癒で構いません。アリアネルに言った通り、朝になれば、自然治癒に任せても無理が利く身体になります」

「致命的な傷はないが、数が多すぎる。人間の身体は、お前が思うより脆い。……大人しくしていろ」

「は、はい……申し訳ございません」


 どうやら、青年の申し出は却下されたようだ。居心地の悪さを感じながら、きっぱりと言い切る主の言葉に、仕方なく頷く。

 ひゅぅ――と冷たい風が吹いて、今が地上でも太陽が出ていない夜の時間帯であることを思い出す。

 手足が冷えていく感覚と、背中だけがじわりと心地よい熱を発する感覚に、戦闘の興奮が冷めたことと相まって、頭がぼんやりとしてきた。


「……魔王様」

「なんだ。先ほどから、五月蠅い奴だ」

「いえ……意識を、失いそうなので……朝まで、口を開いていても、よろしいでしょうか」

「何……?」

「治癒の邪魔はしません。聞き流して頂いて、構わないので……」


 はぁ、と吐息を突けば、予期せず熱い吐息が漏れた。負傷のせいで、熱が出ているのかもしれない。

 人間の身体は脆弱だ、と思いながら、青年はぼんやりと口を開く。


「……封天使と、出逢いました」

「知っている」


 五月蠅いと退けたはずの青年の言葉に、律儀に――そのくせ、とても下手くそに――相槌を打つ魔王に、苦笑する。


「仕事の報告は、魔族のゼルカヴィアからします。……魔王様が出発前におっしゃっていたことがよくわかる、天使でした」

「そうか」

「盲目的に、貴方を慕って……天界にいたころの名称で貴方を呼び……声を聴いただけで歓喜に震え、涙を流して膝をつく様は、異常に思えました。……これは、今の私が、魔族の感覚ではなく、人間の感覚だからかもしれませんが」

「いや。もしもアレが、天界にいた当時と変わらない態度だったとすれば、十分常軌を逸した行動に見えたことだろう。序列を意識させる魔族でも、アレほど露骨な態度を示す個体は造っていない」

「ふふ……確かに、見覚えはありませんね」


 封天使のあの態度は、決して意図して造られたわけではないだろう。魔王は、他者からの評価や賞賛を集めることになど、何の興味も示さない。己の小さな自尊心を満たして悦に入るような性格ではないのだ。


「貴方は、封天使が自分に失望したのではないかと危惧していましたが、そんな心配は皆無でしたよ」

「そうか」

「はい。常軌を逸した、背筋が寒くなるような”愛”を感じましたが――優秀な、天使ですね」

「……そうか」


 苦い顔で相槌を打ち、魔王は一つ息を吐く。

 珍しく額に浮かんだ汗を軽く拭うような仕草をしてから、次の治癒へと移るようだ。

 別の個所が温かくなるのを感じながら、ぼんやりと瞬きを繰り返し、意識を保つために脳裏に浮かんで来る言葉をそのまま音に乗せる。


「アリィが魔法で”門”の部屋の鍵を開けたのを察知して、”念のため”に見に来たらしいです。こちらの正体を訝しんで、目的と素性が明らかになるまでは、防御主体の戦闘を繰り広げていました。小さな違和感を見逃すことなく、軽率に判断を下すこともなく――その慎重な性格のおかげで、こちらは時間を稼ぐことが出来たので、結果として今回は助かりましたが、普通に考えれば、非常に優秀な天使と言えるでしょう」

「あぁ。アレは重宝する天使だ。今の正天使も、傍に置いて上手く使っていることだろう。……やや、性格に難はあるが」

「ふふ……どうやら相当、苦手なようですね。あれほど露骨に、造物主に似た狂愛をぶつけられれば、貴方が避けたいと思うのも無理はありませんが」


 喉の奥で静かに笑うと、背中の傷に響く。

 軽く痛みに顔をしかめて、はぁ、と熱い息を吐いてから、青年はゆっくりと瞳を閉じて、封天使とのやり取りを回想する。


「いつか、再戦をするかもしれません」

「……」

「魔族ゼルカヴィアとして相対すれば、負けることはないでしょう。ですが――どうやら私は、相当恨まれているらしい」

「何……?」


 魔王は微かに眉を顰める。それは、意外な言葉だった。

 青年は、ゆるゆると瞼を押し開き、再び閉じてを繰り返す。熱が高くなってきたのか、意識に靄がかかってきたようだった。


「あの天使は……貴方に……天界に戻ってきてほしいようです。正天使の横暴を止め……再び天界に、秩序を取り戻して、欲しいと……」

「……なるほど。それで、それを阻むお前を恨んだ、と?」

「そうですね……どうやら、封天使の中では、私がいるせいで、魔王様が魔界に縛られている……と……」

「……?どういうことだ?」


 魔王が怪訝な声を出す。

 白んできた意識の中で、思わず笑いを噛み殺した。


「私、が……ゼルカヴィアが、いる、せいで……貴方は、天界に帰れない、と……」

「意味が分からん。……第一、今のお前の姿を見て、お前がゼルカヴィアだと、認識したのか?いや……そもそも、今までに、ゼルカヴィアとして封天使と相対したことがあったのか」

「あぁ……えぇ……私に、記憶はないのですが……一万年、前の、あの、ときに……」


 慈悲も司る天使の魔法は、驚くほどに心地よい。

 真綿で包まれるような温かさに、重い瞼をとろん、とさせながら、青年は怪しい呂律で口を開く。


「滑稽な勘違いも甚だしい……ですが……天使たちは、全くこちらの状況を把握していないことの、証明でもあり……」

「……ゼルカヴィア?」


 そっと魔王は青年に、右腕の名前で呼びかける。

 意識が混濁しているらしい青年は、熱に浮かされるように譫言を続けた。


「魔族の私なら、なんとも思わなかったはずです……魔界を第一に考えるゼルカヴィアなら、その勘違いを利用することすら考えたでしょう。ですが……今の、私は……」

「意識が朦朧としているな。最低限の治癒は済んだ。もう危険な状態にはならん。少し休め」

「いえ……私は……」


 魔王の呆れたような言葉に、ふるっと緩く頭を振る。

 視界の端に、金色が揺れた。

 月に一度しか視界に現れることの無い己の髪色は、ずいぶんと見慣れない。


「なぜ……」

「ゼルカヴィア?」

「なぜ、私を……助けたの、ですか……?」


 ゆっくりと視線を動かし、魔王を見上げる。

 黄色がかった緑色の瞳が、魔界の王の姿を捉えた。


「言ったはずだ。普段のゼルカヴィアならともかく、今のお前は序列の外にいる存在だ。それを、魔界の事情に巻き込み、失う訳にはいかない」

「ですが、私はゼルカヴィアです」


 ふ、と自嘲するように青年が嗤う。

 ――瞳に、ほんの少しの哀愁を漂わせて。


「どれだけこの姿を忌み嫌おうと、切り離すことは出来ない。ゼルカヴィアと同じ頭脳を持ちながら、時に人間らしく情に流され判断を鈍らせる……脆弱で、何の役にも立たない、無価値な存在です」

「……」

「生かしておいたところで、魔界の――魔王様のお役には、立てない」


 二度、三度、魔王の瞳が瞬きを繰り返す。

 美しい長い睫毛が風を送り、苦痛に歪む青年の顔を眺めた。


「今のお前の能力がどうであろうと、関係はない。少なくとも、魔族としてのゼルカヴィアは有能だ。現状、アレの代替が出来る個体はいない。――お前が死ねば、魔族としのゼルカヴィアも死ぬ。それだけで、お前を助ける理由としては十分だろう」

「……は……はは……そう、ですか……光栄、です」


 青年は、笑いながら答える。

 泣きそうにも思える複雑な笑みに、魔王は呆れたようにため息をついた。

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