第78話 編入初日②

「お前たちいい加減に静かにしろ!さっさと授業始めるぞ。……アリアネル、ノートや筆記具は持ってきているな?」

「は、はい!」


 事前通達されていた持ち物はしっかりと屋敷を出る前に何度も確認したから、間違いない。

 こくこく、とアリアネルが緊張しながら頷くと、教師は満足そうにうなずいてから指示を出す。


「教本は、今朝渡した物を見てくれ。直近で配った資料教材の印刷物は――あぁ、予備がないな。近くの奴に見せてもらって、適宜写させてもらえ」

「はっ、はいっ」


 今まで、アリアネルにとって座学とは、ゼルカヴィアやミュルソスといった魔族らを相手に、面と向かって一対一で教えてもらうものだった。

 こんなにも広い教室で、同世代の子供たちと一緒に授業を聞くなど初めてで、未知の体験を前にワクワクと心が躍り出す。


「あの……し、シグルト。見せてもらってもいいかな」

「勿論!……あ、でも、俺、全部は持ってないかも。荷物が重くなるのが嫌で、頭の中に入ってるやつは寮に置いてきてるんだよな……」

「あ、そうなんだ。手元にある資料だけでいいよ」


(シグルトは、記憶力が良さそう……っと。座学も得意ってことだよね、きっと。覚えておこう)


 申し訳なさそうに謝るシグルトに笑顔で答えていると、ドン、と反対側の席に誰かの荷物が乱暴に置かれる気配がした。


「せんせ~。シグルトの馬鹿が、資料全部持ってきてないみたいなんで、あたし、席移ってもいいですか?」

「お?おぉ、いいぞ」

「はぁい。……ってことでよろしくね、天使ちゃん」


 隣にやってきたのは、栗色の長い髪をした、勝ち気そうな笑みを浮かべる美少女だった。


(わ……美人さんだぁ……!)


 同世代の美少女と言えば、つい最近魔王が造ってくれたミヴァくらいしか知らないアリアネルは、ドキドキと胸を高鳴らせる。


「……天使ちゃん……?」

「アンタのことよ。シグルトなんか、アンタが来る前からそうやって噂して――」

「ちょ――おぉおおいマナリーア!!?余計な事言うな!!?」


 反対側から焦った声が飛ぶ。どうやら、二人はそれなりに仲が良い気安い関係のようだ。


「えっと……初めまして。アリアネルです」

「マナリーアよ。第一位階の天使様の加護をもらう者同士、よろしくね」

「えっ――」


 ふふん、と自慢げに鼻を鳴らした少女の言葉に面喰い、ぱちりと眼を瞬く。


「あぁ。そいつ、治天使様の加護がついてるんだ。まぁでも、本人は癒しと慈悲を司る天使様に気に入られるとは思えない性格なんだけどな」

「シグルト?喧嘩を売りたいなら五割増しで買い取るわよ?」


 ぐぐっと拳を握り締めながら、青筋の浮かんだ笑顔で凄みを利かせる姿は、確かに慈悲を司る天使の寵愛を得ているとは思えない。


(すごい……初日で、すぐに治天使の加護をもった女の子とも話せちゃった……!)


 ゼルカヴィアは、シグルトの情報は昔から色々と仕入れているようだったが、治天使の加護を持つ存在に関しては、あまり情報がないと普段からぼやいていた。男か女かすら不明瞭だと言われていたのに、あっという間にその情報を仕入れられたことになる。


「シグルトは左利きだから、その並びじゃ資料一つ見るにも、見にくいでしょ。あたしが見せてあげるから」

「あ、ありがとう……!」


 優しい心遣いに感動して礼を言う。――勇者の利き手まで教えてくれありがとう、という意味も裏側には滲んでいたが。

 心から嬉しそうに、邪気の入り込む余地などない蕩ける笑顔で礼を言われて、マナリーアは心なしかたじろいだようだった。

 

「べ、別にっ……これくらい、普通でしょっ」

「ハハ、慣れない反応されて照れてやんの」

「うるさい馬鹿シグルト!」


(す、すごい……これが、”友達”って関係なのかな……)


 やいやいと自分を挟んで下らないやり取りをする二人に、アリアネルはドキドキとせわしない胸を落ち着かせる。

 魔王やゼルカヴィアを相手に、自分はこんな会話は出来ない。オゥゾやルミィ、ロォヌやミュルソスを相手にしても無理だろう。

 彼らは皆、アリアネルを『脆弱な人間の娘』と理解して接してくる。更に、『魔王様のお気に入り』というレッテルがついて回るのも厄介だ。

 オゥゾやルミィ、ミュルソスといった力のある上級魔族であっても、せいぜいが『愛玩動物』くらいの認識だろう。

 いつだって周囲の魔族の方が大人で余裕をもって相対してくれるせいで、彼らと対等に喧嘩をしたり、気安い軽口を言い合ったりすることは出来ない。


「この授業は天使学だけど……一応、独学では学んできたんでしょ?」

「う、うん。図鑑とかを使って――でも、私が持っていた図鑑に全部が載ってるとは限らないから、知識は完全じゃないかも……」

「そう。じゃ、この資料を手元に置いておくといいわ。今判明している最新の天使たちの位と名前を記したものよ」

「えっ!?そ、そんな一覧表があるの……!?」


 魔王から、天使や魔族の名前は基本的にみだりに他者に教えるものではないと言われ、魔法を教えてもらう時でさえ、魔王本人から天使の名前を教えてもらうことはなかった。魔族についても、アリアネルが出逢ったことがない魔族に関しては、決して名前を教えてくれなかったくらい、徹底していたのに――こんなにもあっさりと、その情報を入手してしまって良いのだろうか。

 いけないことをしているような気持ちで、ドキドキしながらマナリーアに尋ねるが、マナリーアは呆れたように嘆息した。


「天使様の名前がわからないと、魔法が使えないじゃない」

「ぅ……そ、そうだけど……でも、位の高いと命令しても拒否されるだけなんじゃ――」

「そりゃ、そういう天使様も多いわよ。でも、人間に友好的な天使様もたくさんいるから。……ほら。この資料の中で、青字になっているのが、人間に友好的な天使様。赤字になっているのは、過去、王都の神官たちが何度挑戦しても決して”命令”には応えてくれなかった天使様。黒字の天使様は、気まぐれ――っていうか、場合によって、力を貸してくれたり貸してくれなかったりする、って感じかな」

「そ、そうなんだ……」

「勿論、特待クラスと王都の神殿以外には流出させられないトップシークレットよ。一般クラスの生徒や、街の人――家族であっても、見せちゃだめだからね」

「う、うん……」


 念を押されて、アリアネルはぎこちなく頷きながら、資料を覗き込む。

 そこには、一位から十位までの天使が、伝承として伝わっている外見特徴を捉えたイラストとともにずらりと並び、名前と、司る能力が明記されている。

 ざっと目を通して、自分の知識との齟齬を把握しようと――して。


「ぇ……?」

「?……何よ」


 呆然とした声を出して固まったアリアネルに、マナリーアは怪訝な声を出す。


(嘘……なんで……)


 ドクン、ドクン、と胸が不穏な音を立てて脈打つ。掌に、じっとりと嫌な汗が滲むのが分かった。


「アリアネル……?」

「ぁ――う、ううん、なんでもない。大丈夫、だよ」


 シグルトもまた、心配そうに覗きこんできたので、急いで笑顔を浮かべてごまかす。長い髪を耳に掛けながら、何でもなかった風を装い、気づかれないようにゆっくりと深呼吸をした。


(きっと、聞いちゃダメ、だよね……これが最新、って言ってたんだもの。人間界では――魔法を使う人間たちの間では、この資料こそが、この世界のアタリマエなんだ……)


 ぎゅっと膝の上で拳を握って、もう一度深く呼吸を繰り返す。

 マナリーアに差し出された資料の中――最上段に描かれている、天使たち。


 第一位階の天使を表記するその欄に――”命天使”の存在は、どこにも見当たらなかった。

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