第159話 【断章】そのままで①

 コツ、コツ、と等間隔で響く足音が近づいてきて、ハッと顔を上げる。

 廊下の先に、見慣れた長身の黒ずくめが現れた。


「ゼル!」

「アリアネル……?どうしたというのですか。こんな夜更けに……」


 眼鏡の位置を直しながら、怪訝な声でアリアネルの背後を見れば、そこはどう見てもゼルカヴィアの私室に違いなかった。

 扉の前で蹲るようにしていた少女は、どうやらずっとゼルカヴィアを待っていたらしい。


「パパとのお話、どうなった……!?ずっと、ずっと、気になって眠れなくて――!」

「あぁ……そんなことを気にしていたのですか。貴女は本当に、嫌になるくらいのお人よしですねぇ……」


 さすが、赤子の時点で正天使に加護を付けられるほどの子供だ、と呆れたようにゼルカヴィアはため息を漏らす。


「喧嘩してない?パパ、怒ってない?許してくれた?ごめんなさいっ……私が約束忘れて、余計な事言っちゃったせいで――」

「別に、貴女のせいというわけではないですよ。下らないことを気にしていないで、さっさと部屋に帰って眠りなさい」


 しっしっと追い払うような手の動きで素っ気なくあしらうゼルカヴィアからは、いつもの大胆不敵な余裕が感じられない。

 よく見れば、ほんの少し顔色が悪い。げっそりと疲れているのだろうということは、容易に想像がついた。


「今までずっとパパとお話ししてたのっ?わ、私もパパに、ゼルは悪くないって言いに行く!ゼルがパパを裏切るなんて、そんなことありえないって――」

「待ちなさい。もう魔王様はお休みになられました。激務に追われるあの方の睡眠を阻害するなど、私が許すはずがないでしょう」

「で、でも――!」


 今にも駆け出しそうなアリアネルの肩を掴んで引き留めるゼルカヴィアに、アリアネルは泣きそうな顔で長身を見上げる。

 

「大丈夫ですよ。言葉を尽くして、何とか魔王様にもご理解を頂きました。次に怪しい動きをしたら、問答無用で罰する、と言われましたがね。まぁ、今の魔界の状況を鑑みれば、それも致し方ないことでしょう」

「っ……!」


 確かに、いつ、だれが暴走するかわからないこの状況では、魔王が疑心暗鬼になるのも当然だ。

 それも、ゼルカヴィアは魔王が行動を縛ることが出来ないイレギュラーな存在なのだから、なおのことだろう。


「改めて、己の襟を正すまでですよ。さぁ、子供は寝る時間です。くだらないことを心配していないで、早く――」

「っ……私は!」


 くるりと無理矢理回れ右をさせられた体を必死に捻り、アリアネルは声を張り上げる。


「私は、どんなことがあっても、ゼルの味方だよ!」


 予想以上に強い語気で発せられた声に、ぱちり、と眼鏡の奥の瞳が驚いたように瞬いた。


「もしまたパパが怒ったら、今度は私も一緒に説得するからね!」

「説得、ですか……?」

「うん!だって、ゼルがパパを裏切るなんて、あるわけないもん!」


 ぐっと拳を握って力強く宣言する割に、その言葉には大した根拠はないらしい。

 その癖、竜胆の瞳は全く揺らぐことなく真っ直ぐな光を宿していて、己の言葉を心から信じていることが火を見るよりも明らかだ。


「アリアネル……貴女という人は……」


 何かを言いかけてから、ゼルカヴィアは肺の中の吐息を全て吐き出す。


「お人好しもいい加減にしておきなさい。貴女まで魔王様の不興を買ったらどうするのですか」

「大丈夫だよ!パパならきっとわかってくれるよ!」


 キラキラした瞳は、ゼルカヴィアだけではなく、あの恐ろしい魔王すらも、心から信じているのだという少女の胸の内を雄弁に語っていた。


「魔族でもないくせに、貴女の清々しいまでの魔王様信仰はどこからやってくるのですか」


 呆れ果ててげんなりと尋ねると、アリアネルはきょとんと目を数度瞬いた。


「どこから――って……だって、パパは、優しいでしょう?」

「――……」

「パパは、優しいよっ!ゼルも知ってるでしょう?ちゃんと説明したら、きっとわかってくれるよっ!」


 相変わらず、何の根拠もない発言を繰り返す少女の笑顔に、完全に消えていたと思っていたいつかの日の記憶が重なる。


『まぁ、ゼル。今日はまたどうしてそんな顔をしているの?』


 あれはもう、随分と昔――氷のような冷たい瞳を見せる魔王が恐ろしくて、彼が何を考えているのかわからなくて、思わず隠れるようにしてあの美丈夫を避けてしまった日だった。

 誰にも気づかれないように、こっそりと姿を消したつもりだったのに、かつて人間界で『聖なる乙女』と呼ばれた飴色の髪をした美女は、あっさりとゼルカヴィアを見つけ出して、顔を覗き込む。

 昔から彼女に嘘をつくことは出来なかったから、素直に話した。

 天使みたいな美貌を持つ女は、可笑しそうに笑う。


『貴方はまだ、あの人のことをよく知らないだけよ。確かに、あまり笑わないし、難しい顔をしてることが多い人だから、誤解されることも多いけれど――』


 ふわり、と笑んだ顔は、まるで大輪の花が綻ぶようだった。

 竜胆の瞳を持つ誰かのように。


『ただ、ちょっと不器用なだけよ。本当は、とっても優しい人なの。――ゼルは、それを、よく知っているでしょう?』

 

 それは、随分と懐かしい記憶。

 一度心の奥底に仕舞い込んでからは、もう二度と、その記憶の蓋を開けることはないと思っていた。

 するすると、アリアネルの言葉が呼び水になったかのように、忘れていたはずの記憶が溢れ出す。


「……ゼル?」


 黙ったまま固まった青年を訝しんだのだろう。アリアネルは首を傾げて尋ねる。


(――違う)


 見上げてくる竜胆の瞳も、艷やかなアイボリーの髪も、外見特徴は何一つ似たところはないというのに――目を眇めたくなるくらいの眩しい笑顔は、嫌になるくらいの既視感を伴う。


「全く……貴女は時々、驚くほどによく似ている……さすがは愚かな人間。たかが一万年ごときでは、大した進化を遂げられぬということでしょうか……?」

「へ……?」


 何かの影を振り払うように頭を振りながら顔を覆って呟く声はよく聞き取れず、アリアネルは不思議そうに聞き返す。

 ふーっとゼルカヴィアは大きなため息を吐いて顔を上げた。

 

「貴女の脳天気な笑顔の前では、なんだかこの世の全てが馬鹿らしくなりますね」

「どういうこと!?」

「いいのです。私も良い加減に力が抜けました」


 我知らず、肩に力が入っていたらしい。

 少女にそれを気付かされるなど、なんとも情けない気持ちだったが、仕方ない。

 さすがは、あの冷酷な魔王が、『魔界の太陽』と称するだけのことはある少女だ。


「さぁ、明日も学園でしょう。今日は敵陣のど真ん中で、大冒険をしたのですから、きっと自分で思うより疲れているはずです。ゆっくりと眠りなさい」


 優しく頭を撫でて、柔らかい笑みを浮かべて少女を送り出す。

 剣呑な顔つきが幾分和らいだことにホッとしてから、アリアネルはゼルカヴィアをそっと伺う。


「本当に大丈夫?無理、してない?」

「たかが十五年も生きていないような人間の子供に心配されるほどやわではないですよ」


 クス、と呆れたように笑う顔は、いつもの余裕が戻っているようだった。

 

「それよりも、アリアネル。約束してください」

「ぅん?」

「もう二度と、危険なことはしないと。……今日とて、一つ何かが間違っていたら、正天使に貴女の存在が露見してしまう危険性だってあったのですから」

「うん……ごめんなさい」

「聖気が濃い場所では、大人しくすると約束してください。それから、人気がない場所でも、です。……我々魔族は、瘴気が無ければ魔法が使えません。貴女は魔王様曰く、常時尋常ではない量の聖気を放っているそうですから、山奥などの人が生息しない地域で戦闘になった時、貴女から溢れる聖気を利用して天使は魔法を使えるでしょうが、私たちは攻撃どころか、転移門ゲート一つ開くことが出来ませんから、逃げることも出来ず、圧倒的に不利です」

「ぅ……気を付ける」


 こくん、と素直に頷くのは、少女が純粋な心根を持っているためだろう。人間界の常識では思春期だとか反抗期だとか言われるような年齢だと言うのに、アリアネルは『家族』に迷惑をかけるようなことは絶対にしない。


「それから、もう一つ」

「まだあるの!?」


 いつもの調子を取り戻したせいか、お小言モードになったゼルカヴィアに顔を上げると、青年は優しく少女の身体を引き寄せた。


「ゼル……?」


 トン、と抵抗することもなく広い胸に頭を抱き寄せられ、アリアネルは疑問符を上げる。


「どうか、お願いです。――貴女はずっと、そのままでいてください」

「え……?」


 頭の上から降ってくる声が、いつもの揶揄など入り込む隙も無いほどに真剣で、ドキリ、と胸が鳴る。


「私は、魔族ですから。……目的のためなら、どこまでも狡猾で、卑劣になることが出来ます」

「ゼル……」

「この世に存在する魔族の中で、最も魔族らしくあること――それが、私が魔王様に立てた誓いです。それを破った途端に命を奪ってくれて構わないと言う私の我儘を聞いてくださったあの日があるから、私は今、ここにいられます」

「――……」


 それは、かつて魔王からも聞いた話だった。

 アリアネルはごくり、と唾を飲んで青年の言葉の続きを待つ。


「だから、私は貴女のように誠実に生きることは出来ない。『家族の愛』などという目には見えぬものを信じ、あの冷酷な魔王様すら『優しい』と称して、盲目的に愛を説き続けることなど、出来ません」

「それは……」

「ですが、それを変えようとは思いません。私には、私の『役割』があります。……身命を賭して、魔王様に忠実な第一の僕として、この命尽きるまでお供すること。あの方を脅かすこの世の全てからあの方をお守りし、魔王様がかつて造物主から与えられたと言う尊い『役割』――世界のバランスを保ち、正常に回すという役割を遂行するお手伝いをすること。……もしそれを脅かす存在があるとすれば、私は必ずそれを排除するため立ち向かうでしょう。それが、たとえどんな存在であっても」


 真剣な声に潜む、凄絶な覚悟を感じ取り、アリアネルは震える声で尋ねる。


「それが……第一位階の、正天使だったとしても……?」

「えぇ。勿論です」


 きっぱりと答える声に、迷いはない。

 第二位階相当の力しかない、とされているゼルカヴィアには、第一位階の正天使と戦ったとて勝算などないだろう。

 それでも、この青年は、有事の際は怯むことなく立ち向かうはずだ。

 

 それが、彼が、自分で自分に課した『役割』だから。


「狡猾で卑怯な振る舞いを常とする私が、魔王様に疑われやすいことなど、重々承知しています。私は、誰かを裏切ったとて、それに胸を痛めるような殊勝な心を持ち得ていません。笑いながら相手を裏切り、素知らぬ顔で日常を過ごせる、そんな存在です。私には、成し遂げねばならぬことがあるからです。故に私は己の在り方を未来永劫変えるつもりはありません。……だから、アリアネル」


 さらり……と大きな手が、優しく象牙色の髪を梳いた。


「貴女だけは、そのままでいてください。……何の根拠もなくても、ただひたすらに、魔王様への信頼と愛を紡げるその心根のまま、どうか、あの寂しい御方の傍に、居続けてください」

「ゼル……」

「私のように、常に疑惑が付きまとう存在ではなく――嘘の一つも吐けないその心根で、偽りも打算も入り込む余地がないほど眩しい笑顔で『大好き』を伝えられる貴女が、魔王様には、必要なのです」


 魔王が、アリアネルの『大好き』を邪険に扱わない理由は、それだろう。

 眩しすぎる魂の輝きを持つ少女は、嘘も、偽りも、打算も、澱みを生む存在を何一つ含まない、澄み切った心を持っている。

 その純粋無垢な魂から発せられる、眩しい笑顔の『大好き』は、少女の心のままに発せられる気持ちだと、何の疑いもなく思えるのだ。

 ただ、少女が伝えたいから伝える『大好き』の気持ち。

 見返りなど、一切求めない、ただひた向きに相手を想う、心からの『無償の愛』――


 天界でも魔界でも、常に頂点にあり続け、その厳しさゆえに恐怖に似た畏怖を集め続けた魔王にとって、それは、決して同胞から向けられたことのない、異質な感情だったろう。


「約束ですよ、アリィ。貴女が生涯、魔王様にそれをずっと伝え続けると約束してくれるなら――私は、貴女を命を賭して全力で、守って差し上げます」


 ちゅ……とアイボリーの髪に優しく唇が落とされる。

 それは、誓いのキスのようであり――偽りのない『大好き』を伝えるキスのようでも、あった。


「よく、わからないけれど……私は、パパも、ゼルも、大好きだよ。ずっと、ずっと、世界で一番、大好きだよ。パパが許してくれるなら、これからもずっと、ずーっと、皆と一緒にいたいよ」


 おずおずと手を伸ばし、アリアネルは青年の背中に手を回す。

 広い背中を抱きしめて、偽りのない気持ちを繰り返し伝えた。


「……はい。それで、いいのです。約束ですよ」


 もう一度だけ少女の髪に唇を落として、ゼルカヴィアは穏やかな声で、静かに告げるのだった。

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