第158話 神殿⑩

 ぴくり……と小さくゼルカヴィアの肩が小さく跳ねるのに、少女は気づいただろうか。

 魔王も、ゆっくりと瞼を押し開き、感情の読めぬ瞳で少女の方を向いた。


「すごく、すごく高い塔でね。重力を操る魔族は人間界に知られていないから、人間たちは皆、一段一段真面目に階段を上るしかないんだけど……最上階の乙女がいた部屋は、すごく小さくて、薄暗くて、寒くて、最低限の物しか置かれてなくて――なんだか、高い塔の上に閉じ込められてるみたいって思ったの」

「乙女……?」


 魔王は口の中で呟いて、その形の整った美しい金の眉を微かに寄せる。


「あ、えっと、『聖なる乙女』っていうのは人間界の通称だよ。本当の名前は――」

「アリアネル」


 ひやりっ……とした声が、部屋に響く。

 思わず少女は口を閉ざして、固い声音で囁いた男の方を振り返った。

 いつも不敵な笑みを湛えていることが多い眼鏡の奥の瞳は、真冬の湖を思わせるほどに冷たく、静かだ。


(ぁ……そっか。そういえば、パパにとっては乙女の話はどうしても親友の正天使を処刑することになったきっかけとして結びついちゃう辛い記憶だから、パパの前では話さないようにしようって約束したんだった)


 数年前、馬車の中でゼルカヴィアに絵本を見せた日の会話を思い出して、ハッと口に手を当てる。


「何だ。言いたいことがあるならはっきりと言え」

「ぇ、えっと、あの……」


 うまく誤魔化そうと視線を泳がせるが、あいにくアリアネルは致命的に嘘を吐くことが下手くそだ。

 するとゼルカヴィアがすっと間に入ってきた。


「人間界の下らないおとぎ話があり、それにちなんだ建物が神殿の中にあるらしいのです。わざわざ魔王様のお耳を汚すような報告ではありませんよ」


 いつもの調子で笑みさえ浮かべながら、スラスラと口にするのは、さすが筆頭魔族というところか。

 

「魔王様もお疲れでしょう。最も重要な盲目の天使の報告は終わりました。残りの些事は私が代わりに聞いておきますから、どうぞお休みになってください」


 あからさまに話題を切り上げようとする右腕に、魔王はぎゅっと眉根を寄せた。


「何か、俺に知られては不都合な事でもあると言うのか」

「滅相もございません。ですが、魔王様がお疲れなのも事実――少しでもお身体を休めていただきたいというのが、貴方の側近としての素直な気持ちなのですよ」

「ゼルカヴィア」


 有無を言わさぬ強い声が、その名を呼ぶ。

 ゼルカヴィアは、浮かべていた胡散臭い笑みを消して、苦い顔つきで口を閉ざした。


「お前ごときに心配をされる謂れはない。何やら下らぬ気を回しているようだが、裏切りの嫌疑をかけられたくなくば、嘘偽りなく正直な報告を上げろ」

「魔王様……」

「忘れるな。……俺は、俺以外の誰も信用しない。付き合いの長いお前もまた、例外ではない。不必要に情報を隠匿し、影で怪しい動きをしているとみなせば――それがお前に与えた『役割』にない行為ならば、処罰をする。……そういう約束で、お前をこの城に迎えたはずだ。記憶を司る魔族の癖に、たかだか一万年程度昔の出来事を、忘れたか」

「いいえ。勿論覚えておりますよ。当時の会話も、空気も、何もかも」


 冷ややかな視線を投げる魔王と、ぐっと拳を握るゼルカヴィアの、予断を許さぬ会話の応酬に、アリアネルは二人に交互に見やりながらハラハラと視線を動かす。

 自分のうっかりによる失言で、世界で一番大好きな二人の間に、ひりつく空気が流れてしまっているのだ。

 何かフォローの言葉を発せねばと思うが、魔王が放つ尖った空気も、ゼルカヴィアの重い沈黙も、部外者のアリアネルが容易に声を発することをはっきりと拒絶している。


「ぁ、あのっ……!」

「アリアネル」


 なけなしの勇気を振り絞って声を上げた少女を、ゼルカヴィアが軽く手を上げて制す。


「どうやら、私はこれから、魔王様と腹を割って話をせねばならぬようです。貴女は先に部屋に帰りなさい」

「で、でも……」

「大丈夫ですよ。……誓って、私にやましいところなどありません。魔王様を裏切るなど、あり得ない。魔王様は、公平で、公正な御方です。きちんとこの身の潔白を証明できれば、私を有益な駒として扱ってくださいます」


 ズキリ、と少女の胸が痛む。

 アリアネルの眼から見ても、魔王とゼルカヴィアの間には、他の魔族らとは異なる特別な絆があるように思えていた。

 魔王の力をもってしても名前で行動を縛ることが出来ぬというイレギュラーな存在であるにもかかわらず、彼を処断することなく、ずっと右腕として登用し続けていることからも明らかだ。

 それは確かに『信頼関係』と呼ばれるものだったはずなのに――ゼルカヴィアは、自嘲の笑みすら浮かべて、己を”駒”だと言い切る。

 そんな単語が口をつくのは、己など所詮、魔王が世界を円滑に回していく上で必要な『役割』を果たすためだけに存在しているちっぽけな命なのだと、ゼルカヴィア自身が考えているからだろう。

 

 それが、どうしようもなく、哀しくて、寂しい。


「さぁ、アリアネル。これは、私と魔王様の問題です。独りで帰れますね?貴女はもう、絵本を読んでもらえないと眠れない子供ではないでしょう?」


 いつものように厭味ったらしく揶揄する言葉も、切れ味は鈍い。

 その言葉の裏には、アリアネルが『部外者』であると思い知らせる意図があることくらい、わかっていた。


 二人の間に横たわる、一万年の長い時間とき

 その中で育まれた絆も、ルールも、たかが十年と少しを共に過ごしただけの魔族ですらない人間ごときには、口を出すことなど許されない。


 アリアネルが、どれほど二人のことを大好きな家族だと認識していても、その重みは、決して共有されることはないのだ。


「わかった。……あの、ごめんなさい」

「構いませんよ。愚かな人間が何をしでかそうと、驚きもしませんし、まして責任を取れなどと狭量なことを言うつもりはありません」


 頭を下げるアリアネルに掛けられる言葉は、優しく穏やかな声音なのに、どこまでも鋭い。

 これ以上、ほんの少したりともこの部屋にいることを許してはくれないということが、はっきりとわかる物言いだった。


「あのね、パパ。……ゼルも」


 アリアネルは顔を上げると、ぎゅっと拳を握り締めて、どうしても伝えたい言葉を、たった一つだけ、紡いだ。


「あのね。……二人とも、世界で一番、大好きだよ」


 ゼルカヴィアは、横顔で振り返り、苦笑だけを返す。

 魔王は、ゼルカヴィアを逃がさないと言わんばかりに厳しい瞳で見据えるだけで、無反応だ。人間の娘が口にする戯言に付き合うつもりはない、という意思表示だろう。


「喧嘩、しないでね。二人とも、ずっと、ずっと、大好きだよ。……おやすみなさい」


 本当は、いつものように、抱き付いて、頬に口付けを落として、笑顔で伝えたい言葉を、不安で情けないくらいに震える声で告げる。

 ぎゅっと下唇を噛みしめてから、アリアネルはそっと踵を返して魔王の私室を後にした。

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