第157話 神殿⑨
「――って訳なんだけど。鎖でつながれてた盲目の天使に、心当たり、ある……?」
約束通り、寝る前に魔王の部屋を訪れたアリアネルは、昼間の神殿で見た光景を余すことなく報告して、父へと問いかける。
失礼が無いように、と心配したのか、魔王の私室にはゼルカヴィアも同席して、ロォヌの代わりに花茶を給仕していた。
ソファに優雅に腰掛けたまま聞いていた魔王は、ゼルカヴィアに淹れさせた花茶を啜った後、あっさりと口を開く。
「知らん」
「ぅ……やっぱり……?」
「おそらく、俺が天界を追われた後に起きた出来事だろう。最後に神殿に行ったのは、俺が天使だったころ――つまり、最低でも一万年以上前のことだ。そのころ、そんな事態になっていればさすがに気が付く」
「だよねぇ……」
「第一、本当に正天使が、特定の天使にそのようなことを強いたとすれば、さすがに行き過ぎた行為だ。例え第一位階の天使だとしても、許されることではない。直ぐに造物主に進言し、奴を処罰する許可を得ることだろう。……俺ならば、例え正天使を処罰をしたところで、同じ役割を持った新しい天使をすぐに造れる」
だからこそ、かつて命天使と呼ばれた彼は、唯一、同胞をその手で処刑する役割を与えられていたのだ。
「そっかぁ……パパでもわかんないんだね。もしもあの盲目の天使が、パパがいなくなった後に眷属として天界に迎えられた天使だったら、なおさらどんな天使かなんてわかんないよね……」
「いや、それはないだろう」
「えっ?」
「眷属ならば、その行動を厳しく支配する絶対服従の天使がいるはずだ。仮に、眷属が怪しい動きをしたとあれば、監督不行き届きとして、寵愛を与えた天使と共に罰が与えられる。……お前が見た天使は、一体しかいなかったのだろう?」
「う、うん」
頷くと、魔王は呆れたような疲れたような、なんとも言えない重苦しい息を吐き出した。
「あの神殿は、昔から、胸糞が悪くなる瘴気が渦巻いていた。人のエゴが渦巻く魔境だ。そこに、身動きがとれぬよう魔法で拘束されるなど、天界にいた当時の俺であっても、考えるだけで気が滅入る。その上、刃によって視界を物理的に奪われ、治天使の治癒を受けることも許されないのだろう?私刑にしては、明らかに行き過ぎている」
「うん……私も、ちょっと、可哀想って思っちゃった。全然、その天使が悪いことしたようには見えなくて……ううん、むしろ、優しそうな感じだったよ。最後まで、敵意は感じなかったし」
コポポ……とアリアネルのカップにも茶を注いで、ゼルカヴィアは黙って給仕する。二人の会話に口を挟む気はないようだ。
魔王はカップに口を付けながら、瞼を伏せて何かを考えているようだった。
「パパ……?」
「鎖の色は、何色だった」
「ぇ……?」
「色だ。……封天使の魔法には、種類がある。魔法を封じるもの、思考を封じるもの、物理的に動きを制限するもの、言葉を封じるもの……他にも、色々ある。それらは一つ一つ、現れる鎖の色が異なる」
「そ、そうなんだ。えっと……なんか、光ってた」
「それは封天使の魔法であれば全てに共通する特徴だ。……何色の光だったのか、と聞いている」
眉間に皺が寄る。無駄な会話の応酬を好まぬ魔王は、疲労も相まって、愚かな人間の会話に付き合う徒労を感じているのだろう。
「ぅ、ごめんなさい。えっと、確か……ほんのり、橙色?っぽかった気がする」
「橙……それならば、その天使は物理的な動きを拘束されているだけだろう。魔法や思考を封じられているわけではない。特定の言葉を封じられてもいないはずだ」
「そうなんだ……」
「鎖は、長かったか?」
「う、うん。体中に、こう……ぐるぐるぐるっと、何重にも巻き付いてて、ぎっちぎちにされてたよ」
「そうか。……拘束力の強さは、そのまま鎖の長さに現れる。人間ごときならいざ知らず、己より下位とはいえ天使を拘束するとなれば、それくらいの強さは必要だろう。そして、そのレベルの魔法を行使できるとなれば、封天使本人か、封天使以上の天使で、その名前を知っている者だけだろう」
「……正天使、とか?」
恐る恐る尋ねると、こくりと魔王は頷く。
「十分に可能性は高いな」
「そっか……そ、っかぁ……」
しゅん、とアリアネルは眉を下げて俯く。
ギッ……とソファのスプリングが軋む音がして、魔王が背もたれに沈んだ。
「今の正天使は、善悪の判断がつかぬくらいだ、と治天使が言っていた。それくらいのことをしでかしたとて、驚かん。……その捕らわれていた天使が、本当に造物主以外の者を愛したのかどうかすら、真偽が怪しい所だ」
「そんな……」
「仮に、冤罪で捕らわれているのだとしたら、許しがたい行為だ。……せめて、その天使が何者かわかれば、手の打ちようもあるが」
「えっ!?」
アリアネルは思わず顔を上げる。
晴れた蒼空のような瞳を瞼の裏に隠して、魔王は静かに考えを口にした。
「仮説通り、眷属ではなく生粋の天使なのだとしたら、かつて俺が造った天使だろう。名前で命令することが出来る。……魔法も言葉も封じられていないならば、俺からの命令という形で、魔法を行使させることが出来る」
「つまり……?」
「天使たちは、直接手を下して人間を殺すことはご法度だが、逆に言えばそれ以外なら、人間界で何をしても大抵は許される。神殿にあるというその部屋の天井を吹っ飛ばしたとて、文句を言われる筋合いはないだろう」
「――!」
「石造りの部屋なら、地天使の魔法で天井の石を割るなり砂に変えるなりすればいい。花天使の魔法で石の天井を突き破るほど固い木の根を急成長させ、天井を穿たせてもいいだろう。仮に最下位に近い天使だったとしても、それぞれの位階と司る対象がわかれば、工夫次第で何とでもなる」
魔王は、うっすらと瞳を開いて、言葉を声に乗せた。
「瞳の色がわからんのが致命的だな。いくつかの天使は、特徴的な色にしているから、瞳の色で特定することも出来るのだが」
「ぁ……ち、治癒の魔法をかけてあげればよかったかな……?すごく、痛そうな傷だったし……完全にふさがってる傷に、どれだけ効果があるかはわからないけど……」
己の後悔を口にするアリアネルに、ふるふると魔王は首を振る。
「余計なことを考えるな。高位の天使の魔法は、お前の存在を認知させるきっかけになると教えたはずだ。首飾りの目眩ましが無意味になる」
「ぅ……はい……」
しょんぼりと頷きながら胸元の水晶を手のひらに乗せる。
今日、囚われの天使にアリアネルの素性がバレなかったのは、きっと魔王が魔法を施してくれたこの水晶の効果だろう。
天使の目前に行くまで、アリアネルの聖気の輝きを認知出来ないような魔法がかけられているらしい。
光を直接見ることが出来ない盲目の天使は、その強さを感じるだけだと言っていた。
「ちゃんと反省しているのですか?アリアネルに付けられている加護が正天使のものだと露見はしなかったのは、不幸中の幸いです。ただ、ラッキーだっただけですよ。全く……万が一、赤子の頃に加護を付けた存在が生きていたと正天使に知られれば、悪用される未来しか描けません。魔界にとって、決して愉快なことにはならないでしょう」
「ぅぅ……わかってる。ごめんなさい」
今まで口を閉ざしていたゼルカヴィアの小言に、アリアネルはしゅんと頭を下げた。
もし、今日出逢った天使が正天使と懇意にしていたら――そして、アリアネルに掛けられた魔法の目くらましを見破っていたとしたら――その場で正天使に報告が行き、敵の手に落ちていた可能性もあったのだ。
いくら瘴気が漂う空間だったと言っても、魔界ほどの濃密な瘴気があるわけではない。正天使クラであれば、顕現することも容易だろう。
目に見えて肩を落とす少女に、十分な反省の色を見て、ゼルカヴィアは小さく吐息を漏らす。
「それで?確かに、その盲目の天使は気になるところではありますが、他に何か収穫はあったのですか?」
「うん。『聖なる乙女』が閉じ込められてたっていう塔を見たよ」
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