第169話 【断章】虫の知らせ

 最初にアリアネルからイアスの暴走の話を聞いたとき、ゼルカヴィアは実のところ、あまり焦ってはいなかった。

 つい数年前に魔王から褒章を与えられたばかりのイアスは、それなりに優秀な部類に入るだろうが、所詮、生み出されてから五百年程度の中級魔族にすぎない。数千年を優に生きる古参の上級魔族の暴走となれば、すわ、魔界における一大事か、とこの魔王城も上を下への大騒ぎになるだろうが、そこまでの緊急事態ではない。二年ほど前に、ヴァイゼルの暴走の知らせが入ったときのことを思えば、穏やかなものだった。


 気になったことと言えば、彼女の直属の上司にあたる上級魔族ルイスが正気なのか否か、ということと、アリアネルが現地へ向かうというイレギュラーな事態にどう対処すべきか、ということ。


 ルイスに関しては伝言メッセージを飛ばしてすぐに応答があった。部下の不始末のけじめをつけるためにも、自ら処罰に行くという彼を抑え込んで、オゥゾを向かわせるということでアリアネルの人間界での活動にも支障をきたさないよう差配した。


 アリアネルを幼児期から溺愛しているオゥゾは、彼女のためとあれば、珍しい単独行動の指令も素直に頷いた。

 相変わらず少女が絡むと人格が変わるようだが、今は面倒がなくていい。

 一昔前ならばきっと、相棒ルミィなしの単独任務は、露骨に不服そうな顔を見せていたことだろう。


 すぐに準備を終えて、転移門ゲートを開き、人間界へと向かって行ったオゥゾを見送った瞬間から、ゼルカヴィアにとってこの件の優先度は最下位まで落ちた。

 そのままさっさと日常の生活に戻り、仕事の完了報告を優雅に待つだけだと思った。

 どれだけ手こずったとしても、アリアネルが現場に到着すると言う明け方までには終わるだろう。中級魔族が濃密な瘴気にハイになっていたとしても、影響を与えられる範囲など所詮限られている。

 最悪、イアスが被害を広げた地域を大雑把に焼き払ったとしても、オゥゾであれば、一晩でそれを完了できるはずだった。


「ゼルカヴィア様。……オゥゾから、何か連絡はありましたか?」


 だから、少し不安そうな顔でルミィがわざわざゼルカヴィアの執務室を訪ねてきたときも、何の疑問も持たなかった。


「いいえ。確かに、少し遅いかもしれませんが、心配することはないでしょう。アリアネルが関係していると知って、あまり迷惑をかけないようにと、慣れないくせに、不必要な被害を出さぬよう丁寧な仕事を心掛けているのかもしれません」


 軽口を叩くような余裕すらあった。

 しかし、水の魔族の表情は晴れなかった。


「それなら……良いのですが」

「ルミィ……?何か、あったのですか?」


 アリアネルの前以外では、ツンとして冷ややかな態度を崩さないルミィが、長い薄青の睫毛を伏せて、物憂げな顔を見せるなど珍しい。

 その点だけは引っかかりを覚えて、ゼルカヴィアは美女を問いただすが、ルミィはふるふると緩く頭を振った。


「いえ。何か、明確に懸念や不安があるわけではないのですが……何となく……何となく、不安が拭えなくて……」


 胸のあたりをそっと抑えて、沈痛な面持ちで俯く美女に、掛けるべき言葉に一瞬迷う。

 

「大丈夫ですよ。貴女たちは、いつも一緒に行動しているので、久しぶりの単独任務が落ち着かないだけです。オゥゾもあれで、数千年を生きる立派な上級魔族。大味な仕事ぶりではありますが、魔王様からの命令の遂行という観点で見れば、失敗した実績がない優秀な魔族でもあります。……それは、一番近いところで彼を見てきた貴女が、誰より一番知っているでしょう?」

「えぇ……それは、そうなのですが」


 ゼルカヴィアの宥めるような言葉にも、ルミィの美しい面差しから憂いの色が消えることはない。

 

「明日の朝にはケロっと帰ってきて、ロォヌに好物の肉料理をねだるくらいの元気さを見せてくれますよ。……さぁ、今日は貴女も寝てしまいなさい」

「はい。……あの、何かあったら、必ず私にも教えてください」


 胸のあたりに置いた手をぎゅっと握り締めて、冬の湖面を思わせる美しい瞳が不安げにゼルカヴィアに懇願する。

 にこり、と眼を細めて笑顔を作ってなおも不安そうなルミィを部屋から追い返してから、ゼルカヴィアは嘆息した。


「全く……互いへの依存を高めるように造られているとはいえ、聊か過保護すぎやしませんかね」


 全ての魔族の父なる魔王へのぼやきを口の中で噛み砕きながら肩を竦める。

 オゥゾとヴァイゼルは、魔界軍の要と言える主要な戦闘員だ。

 確かにヴァイゼル亡き今、オゥゾまで失う訳にはいかないのは事実だが、ルミィの心配はそんな冷静なものではなく、単独行動を強いられたが故の不安に近いと思われた。


(そもそもの話をすれば、火も水も、天使の管轄でしたからね。魔界創造の折、魔王様が天界でそれらが欠員だったのを良いことに魔族として生み出した、とのことですから……魔王様を失って、自力で天使の数を増やせない天界勢力にとって、火を司る存在は、確かに喉から手が出るほど欲しいことでしょう。天使は本来、争いを避けるために生み出される存在ですから、戦闘に特化した個体は生まれにくいものですし)


 天使も魔族も、司る対象はその個体特有の能力となる。

 他の存在がその対象の魔法を使おうと思えば、例え人外の存在の頂点にいる魔王でさえも、その存在の名前を把握して命令するか、助力を乞う形でしか行使できない。


 本来、天使の存在意義は、本質的には人間界で聖気を多く生み出すことだ。魔族が瘴気を生むために存在しているのと同様に。

 天使が生きるためには、人間に聖気を生み出させることを目的とした活動をせねばならないため、効率的に聖気を集めることが出来ない力を司る存在を生んだとしても、天使としてのランクは下位になる。

 故に、疫病や色欲といった、聖気を生ませるのとは真逆の力を司る存在は、天使にする意味がない。ヴァイゼルが司っていた鋼も、味方にすれば勢力の戦闘力を大幅に向上させるだろうが、天使として聖気を生ませるには効率が悪い能力だ。無理に天使にしたとしても、ランクは下位に留まることだろう。

 だが、太古の時代――まだ魔王が命天使だったころには、火と水が天使の能力として生み出されていた時代があった。


「そういう意味では、オゥゾを魔界から出すことに危機が無くはないですが――ルミィのあれは、そんな理性的な心配ではないでしょうねぇ。単純に、感情の問題でしょう。全く、度し難い……」


 まだ、人間の文明が全く発達していなかった、原初の時代――火の扱いは、慎重を極めた。

 それは簡単に森を焼き、集落を焼き、人を焼いた。愚かな人間が扱うには、大きすぎる力だった。

 だが半面、火は調理を可能にし、暖を取り、獣と夜の闇から身を守った。

 使い方次第で、毒にも薬にもなる――そんな特殊なものを、愚かな人間に管理を任せきりにすることは危険だと、当時、命天使は考えた。

 故に、火を司る天使を造った。


 水も同じだ。多すぎれば時に洪水となり、集落を押し流す濁流を生むこともある雨の水は、日照りが続けば恵みと讃えられた。

 まだ水を溜めて管理する術を持たない頃の人間たちは、簡単にその数を減らしていった。

 愚かな彼らがその扱いを学ぶまで自然の流れに任せていては、人間が滅亡する方が早いのではないかとすら思えた。

 だから、水を司る天使を生んだ。


 そうして、天使の管理の下で、文明の発展とともに火と水の扱いを学んだ人間たちは、天使の魔法が無くても己でそれらを活用し、生きる術を見出した。

 そんな最中――とある事件が起きて、火と水の天使はそれぞれ命を落とすことになる。

 その後、魔界に堕とされた魔王は、勿論必要に迫られてという側面はあれど、天界に火と水の天使がいないのをいいことに、まず最初にそれらを司る魔族を造ったと言う。

 原初の魔族は、火と水を司る魔族だったのだ。


「確か、初代の火と水の魔族は、オゥゾとルミィと違って、男女が逆だったはず……まぁ、初代の彼らは、天界にその力を横取りされぬためにと、魔王様が命の創造を急がれたせいか、せいぜい中級魔族程度の存在だったと記憶していますが」


 魔界が出来たばかりの頃――数えれば、今から一万年近く前の出来事だ。さすがに遠くぼんやりとした記憶を辿って、ゼルカヴィアは目を閉じる。

 初代の彼らには、魔族としても、生み出されたばかりの命としても未熟極まりないあの頃、随分と世話になった覚えがあるが、記憶と言うのは残酷だ。


 覚えていたい記憶は簡単に薄れていくのに、忘れたい記憶ばかり、いつまでも脳裏に留まって消えてくれない。


「今のオゥゾほど戦闘における火力も高くなく、今のルミィほど防御力に優れてもいない二人でしたね。まぁ、天使がわざわざ魔界を滅ぼそうと画策することなど想定すらしていない時代ですから、それでも良いとお考えだったのでしょうが……」


 ふと、窓の外を見る。

 太陽の出ない魔界は、一層の闇を濃くしている。どうやら、人間界では夜になっているらしい。


 記憶の闇にまで捕らわれそうになっていることに気付き、頭を振ってすぐに残った仕事を手早く終えてしまうと、ゼルカヴィアはその日、早めに就寝した。

 どうせ、オゥゾが帰ってくるとしたら、真夜中から明け方にかけてのことだろう。仕事を終えれば必ず報告に来ることになっているのだから、途中で起こされることは確定だ。

 忙しい毎日に、少しでも身体を休める重要性を思い、ゼルカヴィアはその夜、夢も見ずに深く眠った。


『――ゼルカヴィア。オゥゾは戻って来たか』


 微かに空が白んでいく時間帯に、脳裏に聞きなれた低い声が響く、その瞬間までは。

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