第170話 青天の霹靂①

『――ゼルカヴィア。オゥゾは戻って来たか』


 それはさながら、雲一つない晴天に、世界を切り裂く雷鳴が轟くかのような驚きを持って耳に響いた。

 約一万年、一番傍で聞き続けた低い声を、聞き間違うはずもない。

 深い眠りの底にいたゼルカヴィアは、即座に意識を覚醒させ、バッとシーツを跳ね上げて身体を起こした。


「魔王様……!?」


 脳裏に直接響くようなその声は、物理的な音声ではない。伝言メッセージで語りかけてきたものだというのはすぐにわかった。

 慌ててこめかみに手を当てて、応答する。


『寝ていたのか。……オゥゾの現状を確認しろ』

「は、はいっ……!」


 重ねての指令に言われるより先に、寝台から滑り降りて最低限の身支度を整えながら、オゥゾへと伝言メッセージを飛ばす。


(外は――まだ完全に明るくはないが、既に”夜明け”と称していいくらいの時間か……!)


 ――遅い。

 そう言わざるを得ない時間帯だ。


伝言メッセージ。オゥゾ。っ……オゥゾ、返事をしなさい!」


 焦燥感に駆られ、必死に呼びかけるが、応答はない。

 一瞬、全身の血管が凍り付いたような錯覚に襲われ、鼓動が不穏な響きを伴い駆け足になっていく。


 魔界において、序列は絶対だ。

 オゥゾよりも高位のゼルカヴィアから呼びかけられたにもかかわらず応答をしないというのは、あり得ない。

 伝言メッセージは、最弱の魔法だ。それが使えぬほど魔力が枯渇したのだとすれば、それは確実に異常事態発生と言える。

 そんな事態に陥る前に、最後の力を振り絞って知らせを送るのがあるべき姿のはずだ。


 既視感デジャヴ――

 

「っ、やめてくださいよ……!悪い冗談は――!」


 ギリッと奥歯を噛みしめ、口の中で毒つく。

 この状況には、覚えがある。

 つい一年ほど前――同じく、魔王城に仕える古参の上級魔族が、同じ状況に陥った。


 当然既に帰城していてしかるべき時間帯にも関わらず、いつまで経っても帰ってこない。

 呼びかけても、応えない。

 向こうからの報告も、ない。


 誰よりも魔王に忠実な、武骨な魔族ヴァイゼルという男は――


 胸に広がる『嫌な予感』を払拭したくて、ゼルカヴィアは口の中で舌打ちした後、伝言メッセージの対象者を変えた。


「っ、伝言メッセージ!ルミィ、起きなさい!」

『はい、ゼルカヴィア様。起きています!オゥゾから、何か連絡が入りましたか――!?』


 おそらく、本当に起きていたのだろう。

 昨夜、浮かない顔で『虫の知らせ』を告げに来た美女は、ゼルカヴィアからのコンタクトに即答した。

 

「逆です!ルミィ、貴女の元にオゥゾから連絡はありましたか!?」


 唾を飛ばす勢いで問いかけると、ハッと息を飲む気配があった。


『いいえっ……いいえ、何も。ゼルカヴィア様、もしかしてオゥゾに何か――!?』

「何もないなら良いのです。待機していなさい」

『待っ――待ってください、ゼルカヴィアさ――』


 一方的に通信を切って、やり場のない気持ちをぐっと拳に溜め、ドンッと執務室の壁を叩く。


「クソッ!」


 壁にかかっていた絵がガシャンッと音を立てて床に落ちたが、構わず額に手を当てて瞳を閉じる。

 

(落ち着け――冷静になれ――冷静に――っ……)


 上官ゼルカヴィアからの問いかけに反応しないことは勿論問題だが、ルミィは最後の砦だった。

 双子のように、唯一無二の相棒として互いを認め合い数千年を生きてきたあの二人の絆は、伊達ではない。

 仮にゼルカヴィアに言えないような何かが起きていたとしても、オゥゾならきっと、どんなことでもルミィには必ず一報を入れるはずだ。


 きっと、あの魔族が、最期の言葉を遺したい相手は、彼女のはずだから。


『……ゼルカヴィア。報告を』

「っ、はい……っ」


 冷ややかな声が脳裏に響いて、絞り出すように返事をする。

 どうして、城にすらいない魔王が、この異常事態に気づけたのかはわからない。

 だが、その冷ややかな声は、殆ど確信に近い何かを持っているとゼルカヴィアにもしっかりとわかった。


「オゥゾと、連絡が取れません」

『……そうか。……ルミィは』


 同じ思考回路に至ったのだろう。魔王は、最後の情けで、問いかける。

 それに対する答えもきっと、わかっているだろうに。


「いえ。……彼女にも、何の連絡もないようです。完全に、誰にも連絡をせず、誰からの連絡も断っている状態と推察されます」

『そうか』


 こういう時、魔王の声はいつも以上に平静だ。

 気が遠くなるほどの時間を共にしてきたからこそ、わかる。

 これは、魔王が――冷酷無比な処罰を、冷静に下すときの、声。


「魔王様っ……どうか――」

「ゼルカヴィア様!」


 話の途中で、バタンッと音がしてゼルカヴィアの私室の扉が開く。

 飛び込んできたのは、顔面を蒼白にさせたルミィだった。


「ゼルカヴィア様!お願いです!私に人間界に行かせてください!」

「ルミィ――」

「絶対――絶対、私が何とかして見せます!オゥゾが今、どんな状況にあったとしても、絶対!」


 白地に薄青の紋様が施されたその装いは、ルミィの完全武装のスタイル。

 想像出来る最悪の事態を想定して、それを何とかひっくり返そうと、彼女の全てを賭けて訴えに来たのだろう。


『……ルミィか』

「魔王様――!」


 脳裏に響いた声に、美女は状況を把握したらしい。

 息を飲んだ後、早朝の空気に冷やされた床に迷うことなく膝をついて首を垂れる。


「お願いです――!お願いです、どうか、どうかご慈悲を――!」


 魔王がいるのは地下深く、命を生み出す神聖な場所だ。

 それでもルミィは、その場に魔王がいるかのように、心の底から懇願した。


「オゥゾが暴走などっ……魔王様の命に背き、人間を不当に脅かして反逆を考えるなど、決してありえません――!あのバカに、そんな大層なことを考える頭なんてない!もし、そんなことを画策するならっ――必ず私を、誘うはずです!」

『…………』

「だからっ……だからきっと、何か、不測の事態が起きただけです!もしかしたら今、オゥゾは伝言メッセージを飛ばす力も残っていないくらいの大怪我をして動けないでいるのかもしれない……!だから――」

『それはない』


 ルミィの必死の懇願を遮り、魔王はばっさりと言い切った。


『つい先ほど――”黒炎”の使用許可要請があった』

「「な――!?」」


 部屋の空気が、凍りつく。

 もしも本当に黒炎を人間界で使用しようとしたのなら、とんでもないことになる。

 辺り一帯が焼け野原になる――などという生易しいものではない。

 そこに太陽が忽然と現れたような熱源が生み出される、ということだ。

 肉や骨どころか、大地が溶けてすべての生命が死滅し、数百年単位でその地域の生態系に多大なる影響を与えることだろう。


『さすがに拒否をした。――が、諦めることなく未だに何度も、要請が来る。どう楽観的に見積もったところで、伝言メッセージすら使えないほど力を消耗した訳ではないだろう』


 ごくり、と唾を飲み込んだのは、ゼルカヴィアだったのか、ルミィだったのか。静かな部屋に、やけに大きく響くそれは、物事の深刻さをこれ以上なく際立たせた。


「ぁ……も、もしかしたらっ……!第二位階以上の天使と交戦をしているのかもっ!」


 立ち直ったのは、ルミィが先だった。

 蒼い顔で、必死に考えた拙い仮説を語る。


「そ、そうです!例えば、雷天使――正天使でも、治天使でも構いません!とにかく、オゥゾが黒炎を使わないと勝てないほどの強敵に遭遇したのかも……!きっと、だから何度も、使用許可が――」

『仮にそうだとすれば、最初に許可の要請が来てからしばらく経つ。雷天使以上の天使と、今もなお黒炎なしで真正面からやり合っているのだとしたら、既にオゥゾは討ち取られているだろう。あくまで、魔法の威力が雷天使相当、というだけで、オゥゾ個人の強さは、ヴァイゼルと同程度――せいぜいが、第三位階と第二位階の間といったところ。……相手の力量を見抜けぬほどの間抜けを造った記憶はない。仮に最初の要請は、不意打ちを喰らったが故の反射的なものだったとして、その後も勝てる見込みのない相手に、馬鹿みたいに挑み続ける理由は何だ?――お前ルミィと違って、オゥゾはああ見えて、さほど好戦的ではない』


 淡々と切り返す魔王の正論に、ルミィはぐっと唇をかみしめる。


『お前が同じ状況に陥ったとして考えろ。最初の一撃を固有魔法でやり過ごそうとした――それはまぁ、理解できる。だが、その後伝言メッセージの一つも飛ばせないのは何故だ?何度も黒炎を行使しようと練るほどの魔力があるなら、転移門ゲートを開いてここへ撤退してくることなど、もっとたやすいことだろう』

「っ……」

『もし本当に、第二位階以上の天使が現れ、交戦していたとして――お前はそこに向かいたいと言ったが、お前ごときが向かって、何か変わるのか?共に討ち取られ、天使勢力に火ばかりか水まで奪われるという痛手を被るだけだ。……人間界へ行くことは許可しない』


 いつも何事にも動じない美しいルミィの顔が、絶望に染まる。


『……ゼルカヴィア。そこにいるな』

「はい、魔王様」

『しばし様子を見る。黒炎の使用許可は、何度来ても却下する。万が一本当に高位の天使と交戦しているなら、すぐに討ち取られるだろうが、後手に回った今の状況でこちらに取れる策は少ない。とはいえ、天界に火の属性を取られるのは、後々を考えても厄介だ。……そのときは、今造っている鋼の魔族の組成を修正し、火の魔族として造り直すことで対応する』

「なっ――!?」


 ルミィが驚いた声を上げる。

 あまりにもあっさりと、数千年の時を共にした部下を切り捨てる魔王の無慈悲に、わなわなと唇が戦慄いた。


『幸い、被害地域で暴れていたのはイアスだ。聖騎士の純潔を奪いつくしていただろうから、周辺に眷属になりえるような素質を持ったまま死んだ魂はないだろう。……天使は自ら人間を殺せない。今のタイミングで、そう都合よく眷属を生み出すことは出来まい。今、俺の手元で完成間近のこの命を、すぐに修正すれば、天界に火の属性を取られることはないはずだ』

「……はい」

『そして、様子を見て黒炎の使用許可要請がいつまでも途絶えない場合は――もはやオゥゾは、必要以上の瘴気を貪るなという俺の厳命を守る意思がないと見なす』

「魔王様っっ!!!」


 ルミィが悲痛な声で叫ぶが、魔王の声の調子は変わらない。

 そう。――これが、魔王。

 何万年も昔――寂しさに耐えきれなくなった造物主に、己に最も近しい存在であれ、と願って生み出された、理性と知性と力の塊。

 ただ、世界を正常に回すため。

 それだけを念頭に置いて、どんなに非情な命令も下す、冷酷無比な、絶対の王。


『別の魔族を向かわせ、同じような事態に陥りっても面倒だ。俺が直接赴こう。そうすれば、万が一、本当に高位の天使が来て交戦していたとしても対処できる』


 魔王はそう口にするが、そんなことは全く想定していないだろう。可能性は確かにゼロではないが、殆どあり得ない。

 現時点で集まっている情報をどれほど精査しようとも、オゥゾがイアスやヴァイゼルと同様に、瘴気に酔って自我を失い暴走したことは、想像に難くなかった。


(オゥゾの暴走を信じたくないルミィの手前、ということでしょうか。本当に、わかりにくい優しさをお持ちの方です……)


 魔王は処罰に向かった先で、独り暴走しているオゥゾを眉一つ動かすことなく粛々と殺し、帰ってくるのだろう。

 だが――きっと、どれだけ問われても、ルミィにその最期を告げることはしないはずだ。

 オゥゾは魔王の命令に背いて暴走し罰を受けたのではなく、自分ではどうにも出来ない強者に襲われ、抵抗しつくした上に死んだのだ――という哀しい現実逃避の余地を残しておいてやるために。


の対処は任せる』


 最後にきっぱりと言い切った魔王の声に、ゼルカヴィアは複雑な顔を見せた。

 ”城内”――その言葉の中には、今、目の前で声もなくはらりと透明な雫を瞳からこぼれ落とした美女も含まれているのだろう。


 きっと、オゥゾが暴走したという知らせは、ヴァイゼルの時の知らせ以上に衝撃を持って駆け巡る。

 一度ならば偶然や不幸な事故で済ませられても、二度目となれば、否応なく何者かの謀の気配が色濃くなる。

 城内どころか魔界中に疑心暗鬼が生まれ、統率が難しくなるだろうことは容易に想像がついた。


『一刻もすれば出る。その間に、城内を整えておけ』


 魔王が直接出るならば、きっとすぐに事態は収拾されるだろう。

 ゼルカヴィアは、ルミィほどオゥゾに肩入れしていない。冷静に現状を第三者として見ていれば、それが最善の打ち手だということはよくわかった。


 だが――


「……魔王様。一つ、提案させていただいてもよろしいでしょうか」


 静かに、凄絶な覚悟を持って。

 魔王の右腕はそっと口を開いた。

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