第171話 青天の霹靂②

 ゼルカヴィアの落ち着いた声に、ルミィは呆然とした顔で長身の男を見上げる。


「私に考えがあります。どうか、私とルミィで、事態の収束のために現地へ赴く許可をいただけないでしょうか」

「ゼルカヴィア様……?」


 予期せぬ助け舟に、ルミィは涙を拭うことすら忘れて、震える声で問いかけた。

 

『……それに何の意味がある。妙な情を沸かせたところで――』

「いえ。愚かな感情に流されてこんな話をしているのではありませんよ」


 銀縁眼鏡を軽く指で押し上げながらきっぱりと告げる青年に、ルミィはわかりやすく傷ついた顔をした。

 一瞬――ほんの一瞬、希望を持ってしまった自分が恨めしい。

 ぎゅっと下唇を噛みしめるルミィを見ながら、ゼルカヴィアは呆れたように嘆息し、言葉を続ける。


「わざわざお忙しい魔王様のお手を煩わせずとも、真正面からぶつかれば私が格下のオゥゾに劣るはずがありません。ルミィを連れて行けば、オゥゾの魔法は完封出来ますし。魔王様には、今造っている鋼の魔族を、火の魔族へと造り変えるという大仕事があります。部下に任せられる仕事は丸投げしてしまい、魔王様にしか出来ぬ仕事に集中して頂きたい、というのが私の本音です」


 ルミィの肩が小さく震えるのを横目で見ながら、ゼルカヴィアは主の言葉を待つ。


『……お前たちが向かい、お前たちまで頭がおかしくならないという保証がない』

「古参の上級魔族が、一度に三人も、ですか?それは確実に天界が裏で手を引いているという証明でしょうね。天使どもに一杯食わされたということでしょう。そのときは、魔王様に後始末をお願いいたします。私たち三人を片付け、本格的に天界と全面戦争をするなり、和解の道を模索するなり、お任せいたします」

『ゼルカヴィア』


 戒めるような固い声が飛ぶ。

 黒ずくめの青年は、軽く肩を竦めて言葉をいなしてから、口を開いた。


「とはいえ、そんな事態になる可能性は低いと考えています。ルミィやオゥゾはともかく、私を操ることは出来ないはずなので」

「ぇ……?」


 薄青の瞳を瞬かせ、ルミィが疑問符を上げる。

 魔王は、一瞬押し黙り、ゼルカヴィアの言葉を待った。その言葉が意味するところを察しているからだろう。


「今、オゥゾは我々からの伝言メッセージに応答しない――名前を知られている者、それも同等以上の相手からの命令に従わない、という異常事態です」

『その通りだ』

「ですが私たちは、相手が格上で名前を知られている場合は、無条件で命令に従うようにいます。これを、かねてからの反骨精神、などというものだけで拒否するのは不可能でしょう」

『何が言いたい』


 魔王が少し苛立った声を出す。

 ゼルカヴィアは「簡単なことですよ」と前置きして、仮説を口に乗せた。


「もしもオゥゾが――意図的ではない理由で、命令を拒否をしているのだとしたら」

「……?」

「例えば――魔王様本人に命令されて、全ての連絡を絶ち人間を襲っているのだといたとしたら、どうでしょうか」

「!?」


 ゼルカヴィアの突拍子もない発言に、ルミィは言葉もなく眼を見開く。

 

『俺が、そんな命令を下したとでも?』

「まさか。魔王様は、合理の塊。そんな我らに何の利もないご命令をなさるとは思いません。ですが、例えばこれが天使の陰謀だったとして……もしも、他者の心を操るような能力を持つ天使がいたとしたら?」


 己の命を創造した魔王の命令は、絶対だ。どれほどゼルカヴィアが、ルミィが呼びかけようと、オゥゾは命令系統の最上位に君臨する魔王の命令を優先するだろう。

 

『馬鹿な。他者の心を操ることは、造物主が禁じている。……いや。そもそも、俺が直接呼びかけても応えない時点で、その仮説は成り立たない。俺の命令だと思い込んでいるなら、なぜ今、俺の呼びかけに応えない?』

「それについてですが……もしや、封天使の”能力封印”の魔法が影響しているのではないでしょうか」


 魔王からの返事はない。ゼルカヴィアの意図を掴みあぐねているようだ。

 ゼルカヴィアは眼鏡の位置を直しながら、己の仮説を述べる。


「かねてから、思っておりました。封天使の魔法というのは、聞けば聞くほど、私の魔法と似ているところがある、と」

『何……?一体、どこが――』

「封天使は私と違い、無機物を含めた万物に作用出来るという違いはありますが――その”能力封印”の魔法の本質は、私の”忘却”の魔法に似ているのでは、と思っているのです」


 ゼルカヴィアの”忘却”の魔法は、その名の通り、対象者の記憶を忘れさせることが出来る。

 だがそれは、実際に起きた出来事が無かったことになるわけではない。あくまで、”忘却”――意図して思い出そうとしても思い出せない状態にしてしまうということだ。

 故に、”忘却”のみを施しても、意味はない。その上から、辻褄の合う別の記憶を上書きしなければ、例えば他者や書物から真実を聞けば記憶との齟齬に違和感を生じさせてしまう。

 違和感は疑念となり、”忘れた”記憶を思い起こそうとする。

 魔法の掛かりが甘かったり、ただ意識の奥底に記憶を沈み込ませただけだった場合は、そうした外的要因をきっかけに真実を思い出してしまうこともあるだろう。

 仮に記憶を本人の中から完全に消去してしまったとしても、新しく得た”真実”の情報と、自分の中にある上書きされた”かりそめの記憶”を都合よくつなぎ合わせ、全く別の”それらしい記憶”を造り出す可能性もある。


「例えば、私が伝言メッセージを使えないようにしようと思えば――ルミィ。試しに、もう一度オゥゾに伝言メッセージを飛ばしてみなさい」


 ゼルカヴィアはルミィの眼前に手をかざしながら、そんな指示を出す。

 上司の意図が分からず、数度眼を瞬くが、命令は絶対だ。ルミィはいつものように最下級の魔法である伝言メッセージを使おうとして――


「あ……あれ……?」


 どうやってその魔法を使っていたかを完全に忘れてしまったことに気付き、愕然とする。

 

「ぜ、ゼルカヴィア様……!?」

伝言メッセージの使い方を”忘却”するよう、魔法をかけただけですよ。……あぁ、そんなに絶望した顔をしないでください。忘れたのは伝言メッセージだけです。他の魔法は問題なく使えますし――ほら」


 パチン、と指を鳴らすと、ふっと記憶が戻る。


「ぁ――」

「これで思い出せたでしょう?」


 思い出してしまえば、どうしてあんなにも簡単なことが出来なかったのかと不思議になるほどだ。だが、身をもって体験した恐ろしさに、ぞくりと背筋が冷えるのを禁じ得ない。


「この応用で、片腕の動かし方だけを忘れさせたり、特定の指の動かし方を忘れさせることも可能です。たかだか一万年程度しか生きていない私ですら、この程度のことが出来る練度があります。第三位階で、それも魔王様が天界にいらっしゃった頃から今も現役だという長寿の天使も、同様の戦い方が出来るのではないでしょうか?」

『……確かに可能だ。あれは、封じることだけならば、対象が何であれ完璧にこなす。お前のように、別の記憶を上書きは出来ないが』

「でしょう?特定の能力だけを封じたり――いいえ。きっと、上書きが出来ないだけで、記憶を封じることも出来るはずだと思うのです。私のように」


 しん……と束の間の沈黙が降りる。

 自嘲のような響きを持ったゼルカヴィアの最後の言葉は、魔王とルミィ双方に衝撃をもたらした。

 基本的に、同じ能力を持つ存在は、世界に一つしか存在しえないのが原則――

 厳密には異なるとはいえ、似たような効果を発揮できる魔法を持つ存在が、この世に二人も存在しているというのは、世界を円滑に回すうえで問題にしかなりえない。

 それに気づいた魔王が採るべきは――


「まぁ、合理の塊であられる魔王様が、同じ能力を持つ者などいらぬ、と私を処分するかどうか、と言う話は一旦この場では横に置いておきましょう」


 ひょい、と目の前の箱を横に移動させるかのようなジェスチャーをしてから、ゼルカヴィアは数度室温が下がったのではと錯覚するほど凍り付いた空気を仕切り直す。


「話を戻します。封天使が、かなり限定的に能力を封印できると仮定すると、現在オゥゾは伝言メッセージを使える状態ではない可能性が高い。あるいは、転移門ゲートなども使えなくされているかもしれませんね。そして、記憶も封じられるなら、魔王様からの厳命である『必要以上の瘴気を貪るな』というご命令を受けた記憶すら封じられているのかもしれません。その上で、心を操る天使が――いえ。この場合、心など操らなくても良いのかもしれません。幻覚のようなものを見せる天使がいれば、その幻覚の中で、魔王様ご本人に『この地域の人間を焼き尽くせ』とご命令させれば、オゥゾの今の状態が造れる、ということになります」

「じゃあ……じゃあ、オゥゾは――ヴァイゼルや、過去に暴走した魔族たちも――もしかして、魔王様に反旗を翻すどころか、魔王様の命令を誰よりも忠実にこなしているつもりだったと――!?」


 顔を蒼白にさせてルミィは立ち上がり、唾を飛ばす。

 

「あくまで可能性の話です。しかし、古参魔族のオゥゾやヴァイゼルが、実は以前から魔王様に反逆心を抱いていた――などというよりは、よほど納得感がありますね」


 名前を知らない存在に対しては、どれほど本人の力が強力だったとしても、決して相手の行動を縛り、命令することは出来ない。だから、オゥゾやヴァイゼルといった、ひと際名前の扱いに慎重になっていた有力魔族らが、天使に直接命じられていることはないはずだ。

 しかし、通常の序列で言えば決して逆らうことのできないゼルカヴィアの命令にも背くというのは、確実に誰かが名前で行動を縛っているとしか思えない。

 しかし、ゼルカヴィアよりもさらに上位の存在となれば、魔王のみ――彼がそのようなことをするはずもない。

 あるとすれば、何者かが、魔王本人に命令されていると思い込ませている、ということ。

 術を掛けている本人は、オゥゾの名前を知らなくてもいい。「魔王に命令されている」と思い込ませることが出来れば、魔族は皆、命を賭してその命令を完遂するよう、いる。


「魔王様。そのような幻覚を見せることが出来る天使に、心当たりは?」

『幻覚……近い効果は、夢天使の魔法だろう。アレの固有魔法は、天使が描いた夢を強制的に対象者に見せることが出来る』

「ほう?もしや、それでは固有魔法の許可が直近で魔王様に来ていたり――」


 ゼルカヴィアの期待を持った問いかけは、重いため息とともに否定される。


『固有魔法の許可は、その命を造った存在に得るものだ。俺が造った夢天使は、既に五百年ほど前には名前を呼んでも応えなくなっていた。そして今、俺の手元に夢天使の能力はない。……どこかの天使が、眷属にした元人間に、夢天使の能力を付与したのだろう』

「なるほど。では仮に正天使が新しい夢天使を眷属にしていたとすれば、その固有魔法の許可は、正天使に向けて申請され、正天使が許可を出せば、夢天使は固有魔法を使い放題だ、と」

『理論的にはそうなる。もし今まで頻発していた魔族の暴走が、全て夢天使の固有魔法の仕業だとしたら、人間に甚大な被害が出ることを前提とした固有魔法の使用など、世界を統べる第一位階の天使としては、却下してしかるべきだが』

「今更それを言いますか?あの天使は、心から貴方を憎んでいて、そのためならどんな犠牲も厭わない、そんな男です。貴方の魔界の忠臣を暴走させる手法が確立出来たとなれば、嬉々として使うでしょう。彼が行うことは全て『正義』となる――そういう天使ですから。そして魔王様は、暴走した同胞を前にすれば、そのどこまでも合理の塊のような志を理由に、将来魔界勢力にとって不利になるとわかっていても、自らの手で強力な魔族を処分してくださる。天使側は、失ったとしてもせいぜい夢天使と封天使のみで、正天使自身は無傷。そんな美味しい話を前にすれば、固有魔法くらい、軽々しく認可するでしょう」


 押し黙る魔王が何を考えているかはわからない。

 時折、魔王自身が口にしていることだ。

 魔王は、魔界の王であるが、魔族ではない。その本質は、ただ羽を堕とされただけの天使だ。

 だから彼は、根底のところでは中立を常に保っている。

 造物主に一番近しい思考を持つ者として――寂しさと依存心から、理性的な思考が難しくなった世界の主に代わり、この世界を神のごとき視点で俯瞰し、彼の代わりに世界を正常に回すことを、己の『役割』と据えているのだ。

 その立場にいる魔王にとって、かつて自分がよかれと思って生み出した二代目正天使が、積極的に世界の天秤を傾け狂わせようと働くことは、少なからず自責の念に駆られるものなのかもしれない。


「いずれにせよ、今頃オゥゾは人間界で大暴れしているでしょう。ですが、最近のあまりにも不自然すぎる暴走の裏に、天使の影を感じるなという方が難しい。オゥゾの傍に、事件の黒幕である天使がいる可能性は高いのです」

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