第172話 青天の霹靂③

『ならばなおのこと、俺が行くべきだろう。今の夢天使が第何位階の力を付与されているかは知る由もないが、オゥゾやヴァイゼル相手に魔法をかけられるという時点で、それなりに高位であるはずだ。お前たちの手に負えるかどうか――』

「魔王様がおっしゃる通り、夢天使が高位である可能性は高いですが、せいぜいが第二位階でしょう。となれば、一対一なら私でも対処が可能です。封天使がいたとしても、第三位階。十分対処できます。ルミィを連れて行くのは、天使らと交戦することになった時、操ったオゥゾと連携して戦われると面倒だから、という理由です」

『だが――』

「本当に天使が暗躍しているのだとしたら、奴らの狙いは上級魔族を我らに殺させ、勇者による侵攻作戦までに魔界勢力の戦力を削ぐことです。ここで魔王様が魔族生成を中断してまで現地に赴き、オゥゾを処罰するのは、敵を喜ばせこそすれ、我らにとっての利はほとんどない。逆に、オゥゾを取り戻せるのならば、我らとしての利はかなり大きい。そういうことです」


 不敬と心得ながらも、ゼルカヴィアは魔王の言葉を遮ってきっぱりと告げる。

 今も、人間界ではオゥゾの手で地獄絵図が造り出されているのだろう。一刻も早く、この問答を終わらせて人間界へ向かわねば、被害は拡大し続けるばかりだ。

 魔族の数が減っている今、瘴気が異常に増え続ければ、魔界の瘴気濃度が一気に高まり、下級魔族から順に、その濃密な瘴気に酔って暴走を始めることだろう。

 今、ここで押し問答をしている悠長な時間はない。


「故に、一度はオゥゾ奪還を試みるべきです。夢天使か封天使を見つけられたら、それを殺し、暴れるオゥゾを拘束して魔界へと引きずり戻し、正気に戻すよう手を尽くしましょう。……ご安心ください。どうにも無理だ、と思ったときは、オゥゾを殺して全てに蹴りを付けて来ます」

「ゼルカヴィア様!」


 ルミィが抗議するように悲痛な声を上げるが、ゼルカヴィアは諫めるように静かに首を振る。

 オゥゾの振る舞いは本来、今すぐ殺されても文句が言えないようなものであることに変わりはない。

 それまでの功績など関係なく、ヴァイゼルがそうされたように、オゥゾも又、何の弁明も許されることなく、処罰されるのが本来あるべき姿だろう。

 だが、それをせずオゥゾを生かす方法を探したいと進言しているのだ。

 万一の場合は、魔王以上に非情な決意を持って、オゥゾを殺す覚悟があると宣言することは、この進言をする上で絶対に必要だった。


『殺せるのか。お前に』

「私は、魔界に現存する最古の魔族ですよ。オゥゾごとき殺せずして、魔王様の右腕を名乗ることは出来ません」


 ふっと吐息で笑いながら告げる横顔は、玉座に座る魔王を思わせるほどに冷たかった。

 その言葉に、偽りも冗談も何も含まれていないことを悟り、ゾクリ、とルミィは背筋を震わせる。


「魔王様。……ご命令を」


 促すが、魔王はじっと黙り込んだままだった。

 時間が惜しいゼルカヴィアは、焦燥を募らせ、再度口を開く。


「何を躊躇っておいでですか。今は時間がありません。一刻も早く人間界に向かうべきです!」

『お前が言う通り、封天使と夢天使が共謀していると仮定し、オゥゾを正気に戻すように働きかけることを試すのは、了承した』

「魔王様――!」


 ルミィが歓喜の声を上げる。

 それは、彼女が生まれてから見続けてきた冷酷無比な王の口から放たれる、初めて聞いた奇跡の言葉だった。

 

『だが、やはりそれなら俺が向かうべきだろう。第二位階程度――それも、所詮純正の天使ですらない眷属ごときが、濃密な瘴気の中での戦闘で、俺に敵うはずもない。仮に俺が逆らえない存在造物主に命令されるという幻覚を見せようと画策したところで、意味はない。……アレは確かに狂っていたが、この世の誰よりも知性がある存在だ。その本質は、俺以上に公正で間違いを犯さない。どれほど精巧な幻覚を見せられようと、アレが命じたことなのか、アレに成りすました何者かが命じたことなのかくらい、すぐにわかる。――拝謁の機会すら持てぬ眷属ごときが想像で造った造物主になど、騙されるはずがない』


 それは、今となっては思い出すことすら苦痛を伴う最悪の記憶の底に沈んでいる、魔王と造物主との間に存在した決して切れない唯一の絆。信頼、と言っても良い。

 世界の原初――まだ、文明すら持たぬ人間という名の愚かな生命体を生み出したばかりの時代から続く、世界で最初に生み出された天使と造物主の間に横たわる、絆。


 かつて、造物主が命天使を造った時、彼は”己と対等に話が出来る存在”を望んだという。

 勿論、造られし存在として、絶対に覆すことのできない上下関係はある。だが、造物主がかつての命天使に望んだのは、彼の思い通りに動く人形としての役割ではなく、対等な立ち位置で会話をし、”寂しさ”を和らげてくれる役割だった。


 気が狂いそうになるほどの反吐が出るを囁く造物主は、それでも、命天使が『世界を正常に戻すため』と言って天使を造ることに最後は賛成した。

 一対一の会話では狂っていく造物主を見かねて、対話が可能な天使を三名に増やしたときも、しぶしぶではあるが、了承した。その後、律儀にきちんと三名と平等に対話するようにしていた。

 

 ――そう。

 どれほど狂っても、最後の最後で、世界創造の責を負う者としての理性の手綱を手放すことが出来ない。

 対等であれと造った存在が、世界を想って上申した内容は、どれほど狂ってしまった状態でもきちんと一考して判断を下す。

 それこそが、何か一つの歯車が食い違えば理性を失い判断を誤る魔族や天使と、造物主の大きく異なる点だ。


 故に、世界の天秤を正当な理由なく天使側に大きく傾けるような非合理的な命令を、造物主の名を騙る何者かに命じられる幻を見せられたとて、魔王が従うはずがない。


 思い出したくもないほど最低な記憶しかない間柄でも、絶対の信頼が根底に存在するからこそ、一万年前、命天使は純白の翼をもがれ魔界へ堕とされると決まった際、その命令に従った。

 造物主が二代目正天使に唆された部分がないとは言い切れないが、当時、どんどん瘴気が溜まっていくだけの魔界を統べ、瘴気量を適正に調整する存在が必要だったことは事実だ。

 そしてそれが出来る存在は、自在に命を生み出す能力を持った命天使しかいなかっただろう。


『もし文字通り世界の頂点にいる造物主になりすまし命じたことが露見すれば、いくら今の正天使が庇ったところで、造物主は夢天使に厳罰に処すだろう。それが、世界を創造した存在モノの責任だ」


 万物を統べる造物主の名を騙ることは、世の中を混乱に貶めることと同義だ。第二位以下の存在でありながら、第一位階の天使をも支配下に置こうと画策する行為ともいえる。

 当然、そんな術を使ったことが露呈すれば、造物主の怒りを買うことは勿論、眷属の主である正天使もまた烈火のごとく怒るだろう。

 ――故に、魔王が敵の術中に嵌ることはないと言い切れるのだ。


『第一、ここで何を言っていても、結局は憶測の域を出ない。現地へ行き、事態を把握する必要がある。そこで、ここでの憶測を超えるような不測の事態が起きたとしても、俺が対処出来ぬ問題などない』


 例えば、魔王勢力を大きく削る好機と見て、正天使がその場に顕現するような事態が起きれば、ゼルカヴィアでは太刀打ちが出来ないだろう。

 だが、魔王ならば、それにすら対応が出来る。

 そう思って、魔王は己が赴く方が合理的だと説いたのだが――


「おや。魔王様ともあろう者が、お忘れですか?――今、オゥゾの傍には、天使が目にすれば垂涎ものの、目が潰れそうなほどに眩しい魂の持ち主がいるのですよ?」


 ゼルカヴィアの揶揄するような声が響くと、ふっと魔王が口を閉ざす。ルミィも、そこでやっとゼルカヴィアの言葉の意味が分かった。

 

「まさか、アリィ……?」

「そうです。正天使が赤子の時点で唾を付けておいた、将来有望な眷属候補。今までは、既にどこかで死亡したとでも思われていたでしょうが、高位の天使に存在を知られれば、正天使にまで報告が上がるのは時間の問題。まぁ、眷属になれるのは十五歳を過ぎてからとのことですので、まだあと一年近くの猶予はありますが――アリアネルを捕えれば、絶対に自分たちに逆らうことの無い、強力な眷属として従えることが出来ます」


 魔王は無言でゼルカヴィアの言葉に耳を傾ける。

 アリアネルは、十四年を生きた現時点でも、とんでもなく眩しい魂を持っているはずだ。恐らく未来永劫変わることの無いその輝きを見れば、死後すぐに眷属へと生まれ変わらせるため、天使は彼女を天界へと攫ってしまうだろう。


「今、彼女の存在が天界に知られれば我らにとって脅威でしかない。聖気がたっぷりな天界では、彼女はまともに動けず抵抗も出来ないでしょうし、寵愛を与えられればなお、主に行動を縛られ自由が効かない。天使は直接人間に手を下して命を奪うことは出来ないと聞きましたが、食べ物を与えなければ人間は勝手に餓死します。そうすれば彼女はあっさりと正天使の眷属となり、その時点で空席の強力な属性を持つ天使として生まれ変わらせられるのでしょうね」

『……』

「アリアネルは魔界の事情に詳しい。何せ、有事の際に我らの主戦力となる城勤めの上級魔族の名前を軒並み知っている。それが天使の手に落ち、眷属として正天使の命令に逆らえないような事態になれば、こちら側の名前を全て天使側に把握されることになります。これを脅威と言わずして何と言いましょうか」


 ゼルカヴィアの説得に、ルミィも慌てて言葉を重ねる。


「そ、そうです魔王様……!もしアリィが天使として生まれ変わり、魔界に攻めてきたとしたら……正天使に操られているだけだとわかっているアリィと戦うとき、私は全力で戦えるかわかりません……!」

「そうですね。情が沸く、という観点でも非常に戦いづらい相手であることは間違いありません。ミュルソス辺りも手心を加えてしまいそうです。……ですが、私が今、現場へ赴けば」


 最後にゼルカヴィアは、己の論を締めくくる。


「オゥゾを始末するだけではなく、その場にいる天使の記憶も全て消して、アリアネルなどという存在はいなかったと処理することが出来ます。……これは、魔王様には真似が出来ないことでしょう」

『…………』


 魔王は沈黙を貫く。ゼルカヴィアの言に反論するほどの言葉がないのだろう。

 記憶に関する魔法は全て、ゼルカヴィアの固有魔法だ。魔王はそれを使うことが出来ない。


「さぁ、魔王様。――ご命令を」


 ゼルカヴィアの再度の促しに、魔王はしばし逡巡した後、静かに了承の言葉を返したのだった。

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