第173話 青天の霹靂④
「さすがに魔王様を説得するのは骨が折れますね。思いのほか時間を食ってしまいました」
軽く首を回してコキコキと鳴らしながら、ゼルカヴィアは寝起きに適当にまとめただけだった髪を解き、もう一度しっかりと結び直す。
「さて。……私が慈悲をかけてやれるのは、ここまでです」
「え……?」
「これは最後のチャンスです。昨晩、貴女が嫌な予感がすると訴えに来たものを、私は真剣に取り合わずに帰しました。あの時、もしも一言、オゥゾに
この後想定される激しい戦闘に向けての準備を着々と整えながら、ため息交じりに告げた後、ゼルカヴィアは眼鏡の位置を直しながら口の中で呪文を唱える。
「ゼルカヴィア様……!」
「
ヴン……!と音を立てて、紫色の魔方陣が虚空へと浮かび上がると、ゼルカヴィアはルミィを振り返った。
「正直、貴女を共に連れて行く理由は、殆どありません。例え天使と連携を取られたとて、黒炎は魔王様が使用許可を出さないはずです。せいぜい蒼炎までしか使えないオゥゾを相手取るくらい、私にとっては造作もないですからね。……魔王様も、当然それくらいはわかっていたでしょう」
「!」
「ですが、まぁ……いつも冷静な貴女の、珍しく形振り構わない必死な声に、お目こぼしをしていただいた、ということでしょうか。感謝しておきなさい」
「っ、はいっ……!」
震える声で感極まった表情で、ルミィは何度も頷く。
誰よりも魔族らしく振舞う、魔王の右腕――それが、ゼルカヴィアという男だった。
他者を気にかけることなどなく、ただ、誰よりも魔王に忠実に従い、常に魔界のために、魔族の繁栄のために、その身を捧げる有能な男。
その彼が、慈悲をかけてくれた。
(アリィのおかげ、かしら……)
魔王も、ゼルカヴィアも、魔界を回す中心にいる二人の心は、常々分厚い氷で覆われているものだと思って数千年生きてきたが、どうやらこの氷の心臓にもわずかな熱があったらしい。
奇跡のように生まれたその微かな熱は、ここ十数年――アリアネルという幼い少女が城にやって来てから生まれたのではないかと思える。
太陽の存在しないこの魔界で、地上の温かな陽だまりを思わせるような笑顔を振りまく眩しい少女が、冷え切っていた二人の心を溶かしたのではないだろうか。
心の中で愛しい少女に感謝の意を述べ、ルミィはゼルカヴィアの開いた
「そういえば」
「はい。……なんでしょう?」
「先ほど、ゼルカヴィア様は、絶対に自分は天使に操られることはない、とおっしゃっていました。なぜですか……?」
すぅっとゼルカヴィアの深緑の瞳が、眼鏡の奥を滑ってルミィへと向けられる。
「私は、正直不安です。オゥゾと私は、双子のように造られましたから、その組成は似ていると聞いています。オゥゾが操られているとしたら、私もまた、術中に嵌る可能性があるということです。もし、何か対策をご存知なら、ぜひお教えを――」
「――ルミィ」
ふっと目の前が暗くなり、ルミィは目を瞬く。
気づけば、いつの間にか目の前に、青年の大きな掌が翳されていた。
「私は、そんなことを、言いましたか?」
「……ぇ……ぁ……?」
途端に、頭に霧がかかったようにぼんやりとした感覚が襲い来る。
くらっ……と眩暈がしたような気がして、咄嗟に俯き、額を押さえて数度首を振った。
「私は、生意気ですからね。魔王様のご命令という幻を見せられても、命知らずに反論をする奇特な魔族です。……第一、私が魔王様と、一体どれだけ一緒にいると思っているのですか?魔王様が、造物主の命令を聞き間違えるはずがないとおっしゃる通り、私も又、魔王様のご命令と天使が造り出した架空の命令とを間違えるはずがありません」
「ぁ……そ、れは……」
まだ、頭がぼんやりとする。まるで、水の中にいるときのように、音が頭の中で不自然に響いて、ゼルカヴィアの言葉が意味あるものとして捉えるより先に上滑りしていく。
「貴女も、同じように心を強く持てばきっと大丈夫です。……本当に、魔王様はそんな命令をするか?と、そう自問自答するようにしなさい」
「は……い……」
「大丈夫です。相手は心を操るのかもしれませんが――記憶を弄ることは、出来ません」
ゼルカヴィアが死ぬまで、記憶を司る力は決して誰にも奪われない。
いや――もしかすると、これから先、どんな存在にも――
「魔法でも使わぬ限り、貴女が今日、ここで聞いた私の仮説は、貴女の記憶から消されることはありません。魔王様の命令に疑いを持つなど、造られし存在である我々にとっては考えられないことですが――先ほどの魔王様ご本人の言葉を受けた記憶がある以上、問題はないでしょう。魔王様も、今後しばらくは、下された命令を疑うことを許してくださるはずです」
「はい……」
「それでも、どうしても疑うことが出来ず、敵が成りすました魔王様の幻影に惑わされ、操られてしまったとしたら――」
ふっ……と青年は口元に微笑を刻む。
氷を思わせるような、ぞっとするほど冷たい微笑み。
「安心なさい。――その時は、オゥゾともども、私が貴女を殺して差し上げますから」
「……はい」
まだ、頭の中にはほんの少しぼんやりとした霧のような何かがかかっているような気がするが、ルミィは頷き、安堵したように蕩けるような微笑みを浮かべる。
――無二の相棒と一緒に死なせてもらえるなら、それでいい。
それはきっと、何にも代えがたい、最高の幸せだと思うから。
「さぁ、行きましょう。気を引き締めてくださいね」
迷うことなく長い脚を踏み出した黒ずくめの背中を追って、ルミィは恍惚とした表情のまま、魔方陣の中へと飛び込んだ。
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