第174話 【断章】極上の獲物
オゥゾが最初にその地に降り立ったとき、一瞬、転移先を魔界の地方と誤ったかと思うほどに、周囲には瘴気が蔓延していた。
「ぅわ……さみぃ……」
サク、と足元で音を立てる雪の感覚に、ぶるりと身を震わせて、はぁっと白い息を吐く。
「確かルイスが、天使は人間の情欲から出る瘴気を一番嫌うって言ってたな。本人の意思を問わず、純潔じゃなくなったらその時点で眷属にはなれないらしいし……まぁでも、これだけ酷いありさまになる欲だっていうなら、納得か」
軽く顔を顰めながら、ゆるりと周囲を見渡す。
真っ白な雪が高く降り積もるそこは、どうやら元はそれなりに活気があった宿場町だったらしい。
しかし今は、屋内でも屋外でも、人目を気にする様子もなく、人間の男女が暴力的に睦み合う、ただの無法地帯と化していた。
「くっせぇ。うるせぇし。あー。こいつら全部焼き払ったら、さすがに魔王様に怒られっかな……」
鼻を摘まんで吐き捨てながら、獣のような声を上げて男女が
女を組み敷き、無理矢理に犯す男たちは、旅人のような格好の者もいれば、元々この宿場町に暮らしていたであろう平民の装いをした者もいる。
ふと、通りがかった路地裏で、悲鳴を上げて泣き叫ぶ女の髪を乱暴に掴みながら後ろから無茶苦茶に犯す男が視界に入った。男が身に着けている白地に金の鎧に見覚えがあり、オゥゾは鼻で嗤う。
「ありゃ、聖騎士の鎧じゃねぇか。久しぶりに見たな。最後に見たのは、魔界で勇者一行を殺せって言われたときだから、何百年ぶりだ?昔から、澄ました顔して偉そうな講釈垂れてる連中が、涎垂らして猿みてぇに女を犯してんのはウケるな」
くくっと喉を鳴らすと、涙と涎を垂らしていた女が、オゥゾに気付いて振り向く。
「ぁ――あ、あ、お願――助け――」
誰も彼も、性別が男であれば皆狂った様に女を犯すようになったこの地獄で、一人悠々と、この惨状の中でも冷めた目をしているオゥゾは、女から見れば正気を保っている唯一の男――救いの手に思えたのだろう。
女の顔が期待を覚えて懇願するのを、オゥゾは半眼で見てから、片耳を小指で穿り、呆れた声を出す。
「はぁ?……なんで、俺が」
「――――」
女の顔に浮かんだ淡い期待は、一瞬で真っ黒な絶望へと塗り替わる。
すぐさま、獣のような唸り声をあげる男の肉棒が女を責め立て、再び聞くに堪えない醜い声が女の喉を吐いた。
「うっせぇなぁ……ったく。イアス、だっけか。どこに隠れてんだか」
眼にした強姦現場から興味を失い、きょろきょろとあたりを見回す。
オゥゾが街を歩いているのは、乱暴に犯される哀れな女を救うためなどではない。この宿場町に日常を戻してやるなどという正義の行いのためでも断じてない。
ただ、魔王の命令を遂行するため。
魔王の命令に背き、魔界の掟を破った不届き者を見つけ出し、始末するためだけだ。
「鼻が曲がりそうなくらい街全体がイカくせぇ。人間ってのは、本当によくわかんねぇ生き物だな。女のケツに向かって腰振って、何が楽しいんだか」
ルイスやイアスといった特殊な能力を付与されている魔族を除き、魔王に造られた存在たちは、生殖行為による繁殖を必要としないため、性欲とは無縁だ。
「まぁ、ルイスが暴走するよりかはよかったんじゃねぇの。魔法で前後不覚にされたところで、快楽に溺れるだけで、別に殺されるわけでもなし」
耳を穿った小指にフッと息を吹きかけながら、独り言をつぶやく。
ルイスの”狩り”を見たことがある魔族は、皆、口を揃えて同じことを言うだろう。あの残忍な振る舞いは、同じ魔族と言えど、少し引く。
その点、被害が大きいと思われるこの宿場町を見ても、あちこちで女が襲われているのは事実だが、男たちは快楽を得るために腰を振っているだけで、犯した女を無意味に殺そうとしたりはしていない。けが人や死人が出ているのは、女を取り合ったり、激しく抵抗された女を暴力で黙らせたりした結果だろう。
男を惑わせるイアスは、所詮人間同士で欲望を爆発させるか、イアス自身にその欲望を向けさせるかのどちらかしかない。
故に、正気を失った男に襲われた人間の女が孕んだとて、それはまぎれもない人間の子だ。イアスに子種を注がれたとしても、人間と魔族の混血などと言う不幸極まりない存在が出来ぬよう、イアスには人間でいう所の子宮をはじめとした子を成すための造りを与えなかったと魔王は言っていた。
そのため、この宿場町の惨状を経て女たちの腹に命が宿ったとしても、確かにそれは望まれて生まれる子供ではないかもしれないが、ルイスが狩りをするときのように、この世の不幸を煮詰めた妊娠と吐き気を催すような殺戮がセットになった絶望フルコースを洩れなく味わわされることに比べれば、暴走した人間の雄が雌を犯すことにそこまでの悲劇を感じられない。
道端に転がる死体相手に興奮して
「魔王様もおっしゃってたけど、ルイスだけは絶対ぇにアリィに逢わせちゃ駄目だな。何かあったらいつでもあのスカした面に全力で魔法ぶっ放せるようにしとかねぇと」
ぶつぶつと独り言を言いながら、蝙蝠のような羽を持つ美女、という前情報を頼りに、瘴気がより色濃くなる方向へと向かってオゥゾはのんびりと歩いて行く。
アリアネルを含む一行がやってくるのは明日の朝以降だと聞いている。まだしばらく時間はあるだろう。
この辺り一帯を焼き払えば話は早いが、いくら正気を失っているとはいえ、無実の人間たちを多く炎に巻き込むようなことをしては、自分の命が危うい。魔王は、絶対にそんなことを許してはくれないからだ。
「あー、どうやらこの辺にはいねぇな。もうちょい北の方か?ったく、人気無くなったら辺りの雪とか全部焼くか。寒ぃったらありゃしねぇ」
つい、心優しいアリアネルを泣かせまいと気が逸り、何も考えずに薄着で着てしまったことを悔やみながら、宿場町を出て北の方へと足を向けたときだった。
バサッ……と微かな音が頭上で響いたのに気付き、顔を上げる。
「っ、何故――何故、オゥゾ様が――!」
「ぉ。発見。イアスってお前のことだろ」
闇に溶ける蝙蝠の羽を広げて、蒼い顔でガチガチと歯を鳴らしている宙に浮かぶ美女を見つけ、指をさしながらニッと口角を吊り上げる。
「ちょっとおいたが過ぎたな。お仕置きの時間だ」
「く――!」
闇夜に浮かぶ美しい面を真っ白にしながら、イアスは力強く羽音を響かせ、迷うことなくオゥゾに背を向けた。
中級魔族に過ぎないイアスが、魔界トップクラスの戦闘能力を誇るオゥゾを前にして取れる手など限られている。
魔族の中で唯一飛行能力を持つという特徴を最大限に生かして、全力で逃げることだけだろう。
「逃がすかよ!」
ボッ
噛みつくように叫んで手をかざすと、即座に生み出された蒼い炎が、一瞬で宙に浮かぶ淫魔へと肉薄する。
「きゃ――きゃぁあああああああああああああ!!!!」
まるで炎が意思を持っているかのように半裸の美女へと纏わりついて、絹を裂くような断末魔の叫びごとあっという間に命を飲み込んでいく。
肉体は一瞬で炭化し、地面へと無様に転がり、ぶすぶすと耳障りな音を立てた。
「いつか天界との全面戦争が起きたときに、天使を相手にしても前線で戦えるように――って造られた俺ら古参の上級魔族の戦闘員相手に、空を飛べることなんか、何の慰めにもならねぇよ。天使ほど自在に飛べるってわけでもねぇなら、なおさらだ」
もはやイアスにその言葉が届くことはないが、誰にともなく呟きながら、オゥゾは物言わぬ炭と化した塊へと近づく。
これでミッションコンプリートだ。どうやら、上官であるゼルカヴィアに言いつけられた通り、アリアネルらが来る前に仕事を終えられたらしい。
一瞬で消し炭にしたのだから、万が一にも生存していることなど考えられないが、仕事はしっかりと完了報告をしなければならない。確かにイアスを殺したことを間近で確認する必要があるだろう。
蒼炎の煽りを受けたせいで、周辺の雪は一瞬で蒸発したらしい。
先ほどまで雪の下に隠れていた硬い土を踏みしめて近づいて行けば、むき出しの土に転がるもはや原形をとどめない黒い塊の中に、月光に照らされてキラッと何かが光ったような気がした。
「ん……?なんだぁ?」
眉を顰めて、しゃがみこむ。どんな些細なことも、正確に報告をする必要がある。
ただでさえ、自分は頭脳労働が苦手なタイプだと自覚しているのだ。魔王直々のこの命令に――愛しのアリアネルが傍にいて迷惑を掛けないようにしなければならない重要なこのミッションに――己の愚かしさから不備があってはいけない。
夜の闇の中で目を凝らして、一瞬光をはじいた小さな物体を見つけ出す。
「虹色……?」
雲の隙間から顔を出した月光を反射したそれは、なんとも形容しがたい色をしているように見えた。
小さな石のように思えるそれの表面はザラザラとしていて、ぐっと力を入れれば脆く崩れ去って粉になってしまいそうな危うさがある。
「もしかしてこれが、ゼルカヴィアさんが言っていた――」
ぼそりと口の中で呟いた、その時だった。
《見つけた。――極上の、獲物》
「っ――!?」
脳裏に、何の前触れもなく、中性的な声が響いたのは。
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