第168話 魔族討伐作戦⑦

 かつて、魔法学の教師が言っていた。

 呪文は魔力を練り上げるまでの時間、集中を途切れさせないための手法なのだ、と。


 魔力を練り上げるスピードは、魔力制御の能力と、魔法に必要なイメージがどれだけ優れているかで決まる。

 魔法会得初心者は、大抵、魔力制御とイメージを、同じだけの集中力で並行して行うことが出来ずに躓く。

 そのため、それらを同時に行えるように――魔法が完成するまで魔力を練り上げる最中に、魔力制御に気を取られて集中を切らさないよう、力を借りる対象の名前と、魔法で成し得たい効果についてと滔々と唱え続ける。

 魔力が練り上がるより前に唱え終えてしまっては、より集中を要する魔力制御に気を取られ、イメージが霧散し、結果魔法を行使できない。

 魔法初心者であるればあるほど、まだるっこしい言い回しで長く呪文を詠唱し続けることで、魔力制御中のイメージ補完を行う。力を貸してくれる天使や魔族の名前や顔がわからなければ、よりイメージが漠然とするため、それもまた呪文が長くなる要因の一つだ。

 

 だから、優れた魔法使いの呪文は、驚くほどに短い。

 その究極が、無詠唱での魔法展開だ。

 呪文詠唱を省略できるのは、一瞬で力を借りる対象と鮮明な魔法のイメージを描きながら、並行して即座に十分な魔力を練り上げられる魔力制御が可能な者だけだ。

 つまり、魔力を練るスピードと魔法効果のイメージに絶対の自信があるなら、呪文など必要ない。

 無詠唱と言わずとも、魔法の習熟度が高ければ、呪文は短くなる傾向にある。


(だけどっ……さすがに、こういうときは、困るな……!)


「もう一回だ!最初から、行くぞ!声を揃えて!」


 灼熱に煽られながらシグルトは声を張り上げて、両手を前方へとかざす。

 蒼い炎に照らされながら、恐怖と疲労で絶望感が漂う人々の心を支えているのは、将来勇者と呼ばれることになる勇ましい少年の力強い声だけだろう。

 シグルトの声に背中を押されるようにして、女生徒も聖騎士も、皆震える両手をシグルトと同じ方向へとかざして、息を吸い込んだ。


「「我、水流を司る上級魔族に乞う。望むは洪水。大地を削り、押し流し、全てを飲み込む凍える水流。冷たく凍える氷河のごとき濁流で、立ちはだかる灼熱の壁を打ち砕け!」」


 滔々と長い呪文を声を合わせて詠唱すると、何もない空中に大量の水が召喚され、全員が手をかざした先へと一気に収束していった。

 ルミィの名前がわからない人間たちは、蒼い炎に対抗できる魔法を行使することが出来ない。それは勇者であるシグルトでも、おそらく本陣にいるマナリーアでも不可能なことだった。

 だが、『撤退』の二文字がない以上、ここで炎の壁を食い止めなければならない。

 微力な人間に打てる最後の手段は、数の暴力だけだ。

 一番魔法の練度が低い人間の呪文詠唱の長さに合わせて、優秀な者も声を揃えて魔法の完成タイミングを揃えることで、一人一人の効果は弱くても大量の水量を一点に集中させて炎の壁を突破しようとシグルトは考えていた。

 皮肉だが、生徒や聖騎士らの恐怖と絶望のおかげで、周囲に瘴気は十分すぎるほどある。あとは、魔法を使う側の体力と気力の問題だけだ。


 ジュゥゥゥゥゥ

 一点に集中した水が蒼い壁に触れた傍から蒸発し、周囲に水蒸気が満ちて視界が不鮮明になる。

 ゆらっ……と蒼い壁が少し揺らいだような気がするのは、何度か繰り返した全員での魔法攻撃の練度が上がってきたせいなのか、水蒸気のせいで視界が悪い中の願望が見せる錯覚なのかはわからない。

 

(頼む……!今度こそ――!でないと、もう……!皆、気力が――!)


 現役の聖騎士ですら、皆肩で息をしていて、体力と気力の限界が近そうだ。どれほど鍛錬を積んでいても、女である以上、体力はどうしても男に劣る。

 圧倒的に男の聖騎士が少ない分、もうあと何回も同じ攻撃を続けることは出来ないだろう。


(くそっ……魔界には、こんな敵がごろごろしてるのか……!?瘴気が絡みつくみたいで、息が苦しい……アリィがいつも体調崩してるのって、こんな感じだったのか……)


 綺麗な顔をした同級生が、蒼い顔で息苦しそうに胸を押さえている光景を思い出し、ぐっと唾を飲み下してやり過ごす。

 今、本陣にいるはずの彼女はどうしているだろう。濃密な瘴気に当てられて、いつものように倒れてこの場から運び出されただろうか。

 そうであってほしい。健康な自分ですら息苦しくなるほどの濃密な瘴気の中で、あのか弱い少女が耐えられるはずもないのだから――


 ザッ


 もうもうと立ち込める水蒸気に目を眇めて呆然としていると、勇ましい足音を立ててすぐそばに仁王立ちになった小柄な影があった。


「ぇ――?」


 魔法の余波を受けてひらめく髪は長く、その影が女であることはすぐに分かった。

 その身を包むのは、白地に金の刺繍が施された、学園支給の戦闘服。

 本陣では、暑さに耐えきれず鎧を脱ぐ指示が出たと言うが、ここは前線だ。防具を完全に取っ払ったただの戦闘服でこんな場所に立つなど正気の沙汰ではない。

 暑さと絶望で気でも狂った女生徒か――と思ったのも一瞬。

 その横顔に見覚えがあり、驚きのあまり息が止まった。


「アリアネル!!?」


 むせ返るほどの瘴気の中、息一つ乱さずまっすぐ前を見据えているのは、シグルトが先ほどまで脳裏に描いていた、か弱い少女に他ならなかった。

 アイボリーの髪を魔力の余波に躍らせ、立ち込める水蒸気に眉一つ顰めることなく、キッと勇ましい顔つきで蒼い炎を見据えている。


「どうしてこんなところに――駄目だ、今すぐ戻れ!」


 いつもすぐに体調を崩し、酷い時はその場に蹲り意識を失ってしまうこともある少女が、こんな魔界に匹敵するほどの瘴気の中でまともでいられるはずがない。

 慌ててシグルトは少女に呼びかけるが、アリアネルは取り合うことなく水蒸気がもうもうと立ち込めている先へとまっすぐに手を伸ばした。

 その横顔は、凄絶。

 迷いという文字が一切入り込む隙を見せない覚悟が、しっかりと宿っていた。


 すぅっと少女は息を吸い込む。

 水を得た魚のように、魔族らが好んで取り込む瘴気塗れの空気を、肺一杯に取り入れ、凛とした声で呪文を紡ぐ。


「我、水を司る魔族***に命ず!」

「っ――!?」


 少女を引き留めようと手を伸ばしたシグルトは、驚きに目を見張る。

 水の魔族の名前は、古今東西明らかになっていないはずだ。

 だが、今、少女は――その名を確かに、はっきりと、紡いだ。


「お願い***!私を***の元に連れて行って!」


 それは、呪文――というには奇妙な詠唱。

 おそらく、少女にしかわからない――少女と、水の魔族にしかわからない、これ以上なく強烈なイメージを描ける切なる言葉。


 アリアネルが手をかざした先に、瘴気と魔力が集められ、朱色の液体が加速度的に生み出される。


「なっ……!?」


 それは、シグルトが生まれて初めて見る魔法。

 学園の教本にも、魔法の研究書にも載っていない――おとぎ話や噂というレベルでしか聞いたことがない、古来に現れた水の魔族が行使したという、朱い水流。


 一つの小国の領土を全て更地に変えたと言う、万物を押し流す悪魔の洪水。


 ゴォッと音を立てて、津波と見紛う水量にまで成長した朱色の水流が一直線に奔っていく。

 人間が使う魔法など児戯に等しい、と言わんばかりの水量は、先端を錐のように尖らせ、正確にシグルトらが狙っていた的へと収束していった。


 ジュァアアアアアッ

 蒼炎に向かった朱い水流が発生させる蒸気で、その場の全員の視界が塞がる。


「アっ……アリアネル――!」


 薄赤く染まる視界の中、必死に名前を呼んで手を伸ばすが、少女の細い髪のような手触りが指先をかすめただけで、シグルトの手は空を切る。


 強力な魔法同士が正面からぶつかり合ったときに生じる爆風に煽られ、一歩も動けないでいるシグルトを置いたまま、タッ……と地面を蹴る音が響いた。

 薄朱い水蒸気で埋め尽くされた判然としない視界の中、少女の影が迷うことなく水蒸気の向こうへと駆けていくのを、近い未来勇者と呼ばれる少年は、ただ何も出来ないままに見送ることしかできなかった。

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