第167話 魔族討伐作戦⑥
王国の中でもっとも有名な豪雪地帯、サバヒラ地方。
その極寒の地にいるはずなのに、今日のこの場は、真夏かと錯覚するくらいの灼熱の大地となり果てていた。
「火傷が酷い!治癒班!こっちへ来てくれ!」
「水!水を汲んで来い!早くしろ!」
「馬鹿言うな!近くの川も池も、全部既に蒸発して干上がっている!魔法で生成するしかない!」
「あぁクソッ……!地獄ってのは、こういう光景のことを言うんだろうな……!」
ドクン ドクン
心臓がまるで太鼓を強く叩くように大きく脈打ち、耳に五月蠅いくらいに鼓動が響く。
目視出来ないほどの先にあるはずの前線から、強烈な熱風が吹きすさぶせいで、後から後から汗が噴き出すが、その汗が垂れて地面に落ちるより先に蒸発してしまうため、地面も服も、何一つ濡れていない。
「わ、我、水を司る魔族に乞う。清廉なる湧水をここに――」
震えそうになる手を叱咤して、豊満な胸囲を誇る薄青の髪を持つ美女を思い浮かべながら、水桶に水を生成する。本当は、ルミィの名前を出して命じれば、一度にもっと大量の水を生成できるだろうが、滅多に人間界に現れない彼女の名前もオゥゾと同様、周知されていない。ここでルミィの名前を出してしまっては、アリアネルのことを訝しむ者が出てくるだろう。
アリアネルは、罪悪感に捕らわれながら、蒼い顔で必死に魔力を練り上げる。
「アリィ!大丈夫!?鎧もなしで、無茶しないで――」
「この状況でそんなこと、言ってられないでしょう!?マナも早く、持ち場に戻って!」
真っ白に近い顔で瘴気を使う魔法を行使するアリアネルを気遣い、マナリーアが声をかけるが、アリアネルは反射的に声を上げる。
オゥゾの蒼炎の壁の熱気はすさまじく、本陣に詰めていた人間たちは、司令官の指示のもと、すぐに鎧を脱ぎ捨てた。そうでなければ、すぐに熱中症になって倒れる者が続出し、まともな救護活動が行えなくなるという判断だろう。
当然アリアネルも、白金の鎧を脱ぎ捨て、運び込まれる患者の救護活動にあたっている。
マナリーアが心配しているような、瘴気による体調不良はない。むしろ、呼吸に関しては、大変快適と言ってもいい。
次々と運び込まれ、折り重なる被害者たちは、皆予断を許さない状態で、救えなかった焼死体が次々に増えていくこの本陣には、恐怖と不安と怨嗟が渦巻き、魔界と同じくらいの瘴気の濃度が漂っていた。
だが、アリアネルが白い顔をしているのは、そんなことが理由ではない。
(オゥゾっ……オゥゾ、まだなの……!?信じて、いいんだよ、ね……!?)
ぎゅっと瞳を閉じてから、片手で水桶に溜まった水を口元に運んで水分補給をして、喉の渇きを癒すと、すぐに重い水桶を持ち上げて処置に当たる聖騎士たちの元へと運ぶ。
「くそっ……!炎の魔族が殊更残忍な性格だとは聞いていたが――ここまでとはっ……!」
「蒼炎には、我らの水の魔法が効かない……!赤い炎には十分相殺効果があるっていうのに!」
「どうする!?前線はどんどん押し戻されて、なすすべもなくこっちに近づいて来てるらしいぞ!?」
「っ、言ってみても仕方ない!ここが、最終防衛ラインだ!ここを突破されれば、サバヒラ地方最大の都市まで一瞬だぞ!無理でもなんでも、ここで推しとどめねば、国民の少なくない数が焼け死ぬことになる!」
司令官たちの会話が聞こえて、ぞくり、とアリアネルは背筋を震わせる。全ての水分が蒸発していくような熱気の中にありながら、寒気を覚える不思議に、ぎゅっと奥歯を噛みしめた。
(オゥゾ……!オゥゾ、どうして……!?暴走した魔族って、色欲の魔族以外にも、いっぱいいたの?少しずつ、人口が多い方角に向けて範囲を広げて――なんて、そんな、そんなことする必要あるの……!?)
少女は知っている。
どんな時も笑顔で少女を抱き上げ、「大好きだ」と繰り返し抱きしめてくれた青年を。
裏表のない屈託のない笑顔で、好意を前面に押し出すようにして「アリィ」と親し気に名前を呼んでくれたことを。
生まれて初めてルミィとオゥゾがいる城の大浴場に行ったときは、今までゼルカヴィアの部屋で入っていた風呂とのスケールの違いに慄き、オゥゾに助けを求めた。すると彼は、一瞬困惑したようだったが、ひょいっと幼いアリアネルを抱き上げて一緒に入ってくれたのだ。
あの日から、柔らかい、いい匂いがする、と言って何度もぎゅうぎゅうと抱きしめられたし、頭を撫でてもらった。
大きくなってからも彼の態度は変わらなくて、困ったときに助けを求めたら、いつだって彼の全力で助けてくれた。
――優しい、と思っていた。
魔王やゼルカヴィアが『家族』なのだとしたら、オゥゾは親戚の良くしてくれる青年、くらいの親しい間柄だ。ミュルソスもルミィもヴァイゼルもロォヌもミヴァも、皆、城勤めの魔族は例外なく、大切で愛しい存在だ。
その彼が――人間界への影響を全く考えないような振る舞いで、いたずらに被害を広げるだなんて、考えられない。
彼は、魔王やゼルカヴィア、城の魔族が信頼を置いている古参の優秀な魔族の一人で。
魔王は、必要に駆られた食事以外の目的で人間を大量に虐殺するようなことを許しはしない。
魔王が厳命しているそれを、いくら軽率に行動するオゥゾであったとしても、こんな風に軽々しく犯すような真似はしないはずなのだ。
なぜなら、もしも、このまま被害が拡大し続けるとしたら――
「オゥゾ――殺され、ちゃうよ……!」
泣きそうな声で、前線の方を見る。
遠くに、自然現象で発生するはずのない蒼い炎の壁がゆらりと姿を現した。
どうやら、前線が押し戻され、ついに目視できるところまでやってきてしまったらしい。
「火だ!近いぞ!」
「司令官!撤退命令を!」
「ふざけるな!先ほど言っただろう!ここが最終防衛ラインだ!ここを割らせてはいけない!王都から援軍が到着するまで持ちこたえろ!」
「ですが!敵は明け方に報告が上がってから、恐るべき速度で進軍しているのです!とても援軍が到着するまでこのラインが持つとは思えません!」
上層部が混乱し、本陣が俄かに騒がしくなる。配置された学生たちも、間近に死の気配を感じ取って、顔を蒼くしていた。
泣き出したいが、涙など流したところで、すぐに蒸発して行ってしまうだろう。
それくらいの、熱気だった。
「っ……!」
アリアネルは、陣営が混乱している隙をついて、サッと持ち場を離れる。
縋るような気持ちで、必死に頭部へと指を伸ばした。
「
もう、どうしていいかわからない。
だが、このまま放置していたら、事態は悪化し、間違いなく、オゥゾは処罰対象になってしまうだろう。
魔王には相談できない。
もし報告すれば、あの『役割』に対して驚くほど厳格で、そのためならどこまでも非情な決断が出来てしまう父は、あっさりとオゥゾを処罰すべきだと言うだろう。
だから、アリアネルが頼るとしたら、ゼルカヴィアしかいないのだ。
『アリアネルですか。どうしたのです。今こちらは手が離せな――』
「オゥゾが!オゥゾが、変なの!」
ゼルカヴィアの声を聴く前に、遮って全力で叫ぶ。
水分を失ってカラカラに乾いた喉は、掠れた声を響かせた。
『あぁ……いつの間にか、夜が明けて随分たっていたのですね。貴女たちも到着していましたか』
「ゼルっ……!あのね、あのね、聞いていた通りオゥゾが来てるみたいなんだけど――」
『落ち着きなさい、アリアネル。泣きべそを拭って、深呼吸をするのです』
育ての親とも言える青年は、アリアネルの声だけで、今の彼女の状態を理解したらしい。言われて初めて、アリアネルは自分が泣いていることに気付いた。
「ゼル、でも――!」
『詳細な報告は不要です。とても人間の手に負える事態ではないですから、さっさと軍を引き上げて帰るよう、司令官に掛け合いなさい』
「そ、そんな――でも、そうしたら、被害が――!」
『大丈夫です。これ以上広がることは、絶対にありえません』
妙に強調されて言われて、思わず息を飲む。
(待って……なんで、ゼルは、状況を理解してるの……?私、まだ何も言ってないのに……)
ごくり、と喉を鳴らすが、乾ききった口の中に水分はほとんどなかった。
ひりひりと喉が炙られ焼ける気配に、吐息が震える。
「もしかして――来てる、の……?」
一つの結論に思い至り、呆然とした声で問いかける。
――沈黙が、全ての結論だった。
『魔界始まって以来の緊急事態ですからね。諸々、想定外です。私とルミィだけで何とか解決を試みましたが――これは少々、難しそうです』
「っ……!」
青年の言葉にすべてを理解して、アリアネルはひくっ……と喉を鳴らした。
これ以上被害が広がることは絶対にない、と言い切ったゼルカヴィア。
ルミィと二人で解決を試みたが、難しそう、という言葉。
それが示すことは、ただ一つ――
「パパを……呼ぶ、の……?」
この状況下で、魔王をこの現場に呼ぶ理由など、一つしかない。
それに思い至った途端、ぶわっと涙があふれた。
「やだ!!!ゼル、嫌だよ!!!だって、オゥゾだよ!?オゥゾが裏切るとか、暴走するとか、そんなのっ……そんなの絶対、絶対何かの間違いで――」
『アリアネル。聞き分けなさい。貴女に出来ることは何もありません。唯一何かが出来るとすれば、すぐに無謀な抵抗をして瘴気を生み続けている愚かな人間どもを率いて、ここから引き揚げさせることくらいです。……では、こちらも暢気におしゃべりをしているような状況ではないので、失礼します』
「ゼル!ゼル、待って!聞いてっ!ゼル!!!」
必死に声を張り上げるが、向こうから一方的に切られてしまったらしい。二度とゼルカヴィアの応答はなかった。
「ぁ……ぅ……」
思わず、立っていられずにその場に蹲る。
ザッ……と乾ききった大地に膝を突いて項垂れれば、大好きな炎髪の気のいい青年との想い出が、走馬灯のようによみがえった。
『困ったことがあったら、俺の名前で魔法なんか使わず、
ニカッと白い歯を見せて笑った彼の笑顔を、今も良く覚えている。
「オゥゾ……」
もう二度と、逢えないのだろうか。
デレデレと目尻を蕩けさせ、「アリィ」と名前を親し気に呼んで、ぎゅっと身体を抱き寄せては「いい匂い」と言ってくんくんと鼻を鳴らしていたあの、憎めない気のいい青年には、もう二度と――
「っ――!」
ぎゅぅっと拳を強く握り締める。熱風に煽られ、アイボリーの髪が舞い踊った。
泣いて項垂れている場合ではない。
今動かなければ――幼いころから大好きな青年との永別が待っている。
アリアネルはキッと竜胆の瞳に強い意思の光を宿して、すっくと立ちあがる。
もう、迷いはない。
「オゥゾ――!」
少女は、地を蹴り、全力で駆けだす。
灼熱が渦巻く、蒼い炎の壁に向かって、力強く――
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