第22話 太陽の樹②

「庭の木――あぁ。あれですか」


 控えめに要望を口にする幼女の意図を汲みとって呟く。

 アリアネルが言っているのは、この殺風景な中庭の端に、一本だけ植えられた大木のことだろう。

 草木を愛でる志向を持つものなど存在しないはずのこの魔界で、誰が植えたのかすらわからぬほど昔から、ずっとそこにある。ゼルカヴィアも魔王も、植えられる前の光景を見たことがないのだから、相当昔であることは間違いがない。

 わざわざ、目的もなく新しく植物を植えることはないが、最初からそこにあったものを無意味に切り倒す必要もない――魔王が魔界に来るより以前にあったのだとしたら、何かしらの意味を持って造物主が作り出したものかもしれぬのだから。

 そう言って魔王は、昔から当たり前にそこにあり続ける大木を、そのままにしておくように命じた。


「いいですよ。誰も先客がいないなら、少しだけ」


 わずかな思考を経て、ゼルカヴィアは条件付きで了承する。

 造物主が、魔界創造と共に、何かしらの意図を持って作り出したのかもしれない大木――それは、魔王にとって、もはや言葉を交わすことの無くなった、己がかつて崇め仕えていた存在を感じさせる、唯一のものだった。


(時折魔王様は、執務の休憩中にあの場所を訪れる。何も言わず、じっと大木を眺めて、遠い記憶に思いを馳せて――……そんな、魔王様にとっての大事な時間を邪魔するわけにはいきません。まして、今の役立たずのアリアネルを伴って、鉢合わせる訳にも行きませんし……誰もいないと、良いのですが……)


 そんなことを考えながら、ゼルカヴィアはアリアネルを抱えたまま庭の一角へと足を向ける。

 きっと、アリアネルは、まだ少し人間界に未練があるのだろう。

 この殺風景な味気ない魔界の中で、唯一、人間界にあるのと似たような植物を見ておきたいとねだっているのだ。


「今の季節は、もう花は咲いていないでしょうが……はついているでしょう。誰もいなければ、少し、探してみましょうか」


 魔王の側近として、休憩中に魔王が中庭に立ち寄り大木を眺めるのに同行したことは数知れない。自然と、ゼルカヴィアも大木の生態に詳しくなっていた。


 普段、あまり城内の魔族は立ち入ることのない、中庭の片隅へと足を向ける。

 幸い、魔王は仕事中らしい。誰の姿も見えず、ほっと息をついてから、ゼルカヴィアは真っ直ぐに大木へと近寄った。


「さぁ、アリアネル。見えますか?」

「うん」


 頭に乗せた花冠を落とさないように注意しながら、アリアネルは頭上を見上げる。

 長身のゼルカヴィアに抱えられているにもかかわらず、大木は見上げるほど高くて、視界いっぱいに鮮やかな緑色が広がった。


「実、いっぱいついてるね」

「そうですね。……食べてはいけませんよ?うっかり好奇心から口に入れて、苦くて吐き出し、号泣したことを覚えているでしょう」


 あの時は大変だった……と思い出しながらゼルカヴィアは嘆息する。

 やっとアリアネルが散歩に出ても大丈夫になった頃、試しにこの大木の下へと連れてきた時、この幼女は迷うことなく木に生っている小さな実を口に入れてしまったのだ。

 暗い緑と黄色の中間色のような小さな実は、決して美味しそうになど見えないだろうに、どうして――と、何でも口に入れたがる幼女の習性に困惑しながら、号泣する少女を必死に宥めた記憶がある。強い苦味があっただけで、毒はなかったのが不幸中の幸いだ。


「ねぇ、ぜる。……この木にも、おなまえ、あるのかな?」


 花畑で、本を開きながら、一つ一つの花の名前を学んだことを思い出したのだろう。アリアネルはふとした疑問をゼルカヴィアに投げかけた。


「名前――さて。考えたこともありませんでしたが……確かに」


 幼女の発想は、大人の考えつかないことを思いつくため、興味深い。

 ゼルカヴィアは、今日買ったばかりの書籍を取り出し、器用に片手でページを捲った。

 しばらくして、ゼルカヴィアの手があるページで止まる。


「……ぜる……?」

「……いえ。……そうか。この木は、こういう、名前だったんですね」


 ふ……と眼鏡の奥の瞳が眇められ、頬が軽く歪む。

 初めて見るゼルカヴィアの表情に、アリアネルは発すべき言葉を失い、じっとその横顔を見つめた。


「別名――“太陽の樹”。とんだ、皮肉ですね」

「たいよう、の……?」


 反芻するアリアネルの言葉に、苦笑しながら体を抱え直し、樹へと近づけてやる。


「アリアネル。実をいくつか採ってください」

「えっ!?でも、食べられないから、とっちゃだめって――」

「どうやら、この本によると、食べられるらしいですよ。生食では苦味が強いそうですが、調理法によっては、問題なく食べることが出来るようです」

「ほんとう!?」

「はい。……この樹は、人間界では“太陽の樹”と呼ばれるほど、太陽が大好きな樹らしく、実から取れる黄金色の液体は、食用は勿論、美容に使われることもあるようですよ」


 初めての採取作業に、目をキラキラさせて手を伸ばすアリアネルを支えてやりながら、ゼルカヴィアは得たばかりの知識を披露する。


「太陽が好き――ということは、厳密には、これは人間界の植物と同じではないのでしょうね。ですが、ここにこれを据えた方は、太陽のないこの魔界でも、“太陽の樹”が雄々しく茂り、育っていくようにと――と役割を与えたようです。太陽以外の何かを代用して、人間界の姿と同じように育つように命を与えたのでしょう」


 拙く不器用な手つきで、プチッと実をむしり取るアリアネルを見ながら、考えを口にするが、どうやら少女は目の前の実に夢中なようだ。


「私も、初めて知りました。もう、何千年も見ているはずなのに――」


 苦笑してから目を眇めて、大木を見上げる。

 太陽のない魔界で、必死に枝葉を伸ばしてごつごつした岩場に根を張り、生命力にあふれる大樹は、どこか眩しさを感じさせる。


 必死に手を伸ばすアリアネルが怖がらないようにしっかり支えながら、自分も感慨深く大樹を見上げていたせいだろう。


 ザッ……とすぐ真後ろで音がするまで、その存在が接近していることに、気づかなかった。


「――ゼルカヴィア……?そこで、何をしている?」

「っ――!」


 背筋を、冷たい氷が滑り落ちるような、錯覚がした。

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