第31話 かぞく③
ふんふん、と機嫌の良さそうな鼻歌が部屋に響く。
「アリアネル。寝る準備は出来ていますか?」
「はぁい!……もうちょっと待って!」
ゼルカヴィアがベッドメイクをしてやりながら問いかけると、元気の良い返事が返ってきた。
寝転びながら足をパタパタさせ、画材を持って一生懸命に何かを描きつけている幼女の手元を覗き込む。
「おや。……偉いですね。ちゃんと言いつけ通り、日記をつけているのですか」
「うん!今日は、パパに初めて抱っこしてもらえた日だから、絶対に覚えておきたかったの!」
元気に答える手元のノートには、ミミズが這ったような解読しにくい文字と一緒に、イラストらしきものが描かれている。
ゼルカヴィアがひょいと覗き込むと、字は子供らしく汚いものだが、最低限の文法や文字の形は合っているようだ。イラストも、二年前はぐるぐると全力の筆圧で丸を塗りつぶした抽象画のようだったのが、手足らしき棒状のものが描かれていて、それが人であることを想定させる。
「これは、魔王様ですか?」
「そう!上手?」
「えぇ。金色の髪に、黒地に朱色の刺繍のお召し物。金糸の入ったマントもあるので、すぐにわかりましたよ」
「ふふふふー!」
「こちらの緑色は、太陽の樹でしょうか?」
「うん!」
「特徴を捉えられていますね」
「えへへへ」
ゼルカヴィアに絵のコメントがもらえるのが嬉しいのだろう。アリアネルは上気した頬で嬉しそうに笑う。
「この、薄いブラウンの衣服は今日のアリアネルの訓練着ですね。位置的に、魔王様に抱き上げられたときの様子、ということでしょうか」
「うん!……せっかくパパに会えたんだから、もっと可愛いお洋服着ておけばよかったかな。ピンク色とか――」
「そんな色の訓練着は持っていませんから、仕方ありません。……安心なさい。髪の毛をリボンで結っていましたから、十分今日の貴女は可愛らしかったですよ」
「本当!?」
「えぇ、本当です」
にこり、と笑って褒めてやると、キラキラと嬉しそうに瞳が一層輝く。
ゼルカヴィアも、初めて見たときよりもだいぶ幼児の絵に対するコメントが板に付いてきた。解読力も上がった気がする。
(しかし、問題はこの――相変わらず現れる、真っ黒の物体ですね)
いつぞや、精神の疲弊を心配したときと同じく、魔王とアリアネルの傍には、真っ黒に塗りつぶされた謎の物体がある。
運動をさせ、人間界に連れて行って陽光や植物に触れさせて、毎日のスキンシップも欠かしていない。少女を脅かすような怒声や叱責をする指導方針は一度も取っていない。
それなのになぜ――とゼルカヴィアが眉根を寄せていると、アリアネルは嬉しそうな顔でいそいそとイラストの横に、ミミズを這わせたような文字を書き足した。
――”かぞく”
「……アリアネル?」
「うん」
「前も聞こうと思っていたのですが、アリアネルの中で、家族というのは――」
きょとん、とした邪気のない顔を向けられて、思わず口を閉ざす。
いつぞや、悲しそうに睫毛を震わせていた少女の顔を思い出してしまった。
しかし、アリアネルは気にした様子もなく、手元のイラストに視線を落として、指をさす。
「――パパ!」
「そうですね」
少女が、家族を欲しがった末に、”パパ”という存在を知り、それを魔王に重ねたことは知っている。
肯定すると、アリアネルはすぃっと指を滑らせて、真っ黒な物体を指さす。
「――ゼル!!!」
「――――――――――はい???」
しばらく沈黙した後、怪訝を極めたような声が出る。
風呂上がりで石鹸の香りが弾けるアイボリーの髪をパッと宙に舞わせながら、アリアネルはゼルカヴィアを振り返る。
「アリィの、家族!!!」
「――――――……はい……???」
もう一度、ぎゅっと眉間に皺を寄せて聞き返す。
「ゼル、いっつも真っ黒な服ばっかり着るから、すぐに黒色がなくなっちゃうの」
「は――?」
「たまには、違う色着ようよ。毎日毎日、おんなじ服ばっかり」
「いや、これは別に同じ服を着ているわけではなく、同じ型をした服のストックが沢山あるだけで――って、そういう話をしているのではなくて」
ぷくっと頬を膨らませて不満げに主張する幼女にペースを乱され、ふるふると頭を振る。
「もしや――貴女が描くイラストに時折登場する、謎の漆黒は全部……私、ですか?」
「どっからどう見てもゼルでしょ!?」
「どこからどう見てもただの黒い丸です」
思わず素で身も蓋もないコメントをしてから、もう一度イラストを見る。
確かに、アリアネルが魔王に抱き上げられたとき――太陽の樹がこの位置にあるならば、ゼルカヴィアは黒丸の位置にいた。空間把握能力は問題ないらしい。
「パパはもういるから――ゼルは、なんだろう。……ママ?」
「誰がママですか、誰が」
幼い疑問を口にする少女に、ビキッと額に青筋を浮かべる。
「私は貴女のお世話係ですよ。それ以上でも以下でもありません」
「えぇ……??でも、ゼルがアリィを育ててくれたよ?」
「それはそうですが――とにかく、ママではないですし家族でもありません」
必要以上にアリアネルから慕われることは避けたい。
それは、将来アリアネルを人間界に戻さねばならなくなった時に、ゼルカヴィアが辛くなるからではない。
これ以上、ゼルカヴィアを慕うようになってしまえば、きっと――この感情表現豊かな少女は、そのときが来たら――全てを悟った後、『ゼルだけに辛い思いをさせたくはない』と、この大きくつぶらな竜胆の瞳から、はらはらと美しい涙を流すだろうから。
(昔、うっかり、私の能力は自分には効力がないと明かしてしまいましたからね)
ゼルカヴィアは他者の記憶を自在に操ることができる。
特定の記憶を消すことは、それまでの人生を消すのと同じ。
少女から記憶を奪って人間界に放り出せば――アリアネルは笑顔で死ぬまで幸せに生きることができるだろう。
最初から存在しないものには、寂寥を感じることすら許されないからだ。
幸せだった記憶を消すことは、時に、その後の大きな幸福を得るために最適の手段にもなりうる。
過去の幸せだった記憶を忘れられないという不幸に比べれば――
「さぁ、日記を書き終えたのならもう寝なさい」
「あっ!」
日記を取り上げてパタン、と閉じると、アリアネルは残念そうな声を上げる。
「明日の夜は、新月です。――私はいつものように出かけますから、私の”影”に迷惑をかけてはいけませんよ」
「!――明日、”お兄ちゃん”に会えるの!?」
ぱぁっとアリアネルの顔が輝く。
ゼルカヴィアは呆れたように嘆息した。
「……”お兄ちゃん”、ですか。貴女は本当に、家族ごっこが好きですね」
「だって、”お兄ちゃん”に名前を教えてって言っても、教えてくれないんだもん」
「まぁ、無いですからね。名前など。しいて言うなら、ゼルカヴィアです。私の”影”ですから」
「ぶー。つまんない。お兄ちゃんに言いつけてやるー」
「どうぞお好きに。……さぁ、眠りなさい。明日も日中は勉強と鍛錬ですよ」
「はぁい」
ぶつぶつ言っていたアリアネルをひょいっと抱き上げてベッドに降ろすと、しぶしぶ返事が返ってくる。
そのままアリアネルは、いつものようにゼルカヴィアの首に甘えるように腕を巻き付け、ちゅっと音を立てて頬にキスを落とした。
「明日は、言えないから。……おやすみ、ゼル。だいすきだよ」
「はいはい。……明日は、貴女の”お兄ちゃん”に言ってやってください」
苦笑しながら額に唇を返して、布団の中に寝かしつける。
「おやすみなさい、アリアネル。良い夢を」
自身を”家族”と表現した少女に柔らかな笑みを向けて、ゼルカヴィアはそっと小さな頭を撫でたのだった。
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