第128話 マナリーア②
園庭から少し奥まったわき道を行くと、子供たちの高い声が遠くなる。
息が出来ないくらいの静寂に包まれて、小さな裏庭はひっそりとそこにあった。
(ぁっ……あれが、『悪魔の子』……?)
そっと息をひそめて陰から伺うように覗き込むと、陽光を弾くような美しい黄金の髪を持つ少年が、独りで蹲っているようだった。
(キレイな顔――……)
少し愁いを帯びて伏せられた長い睫毛に彩られた瞳も、白磁のような滑らかで透明感のある横顔も、スッと通った鼻筋が際立つ横顔のシルエットも――遠目からでも、その少年が息を飲むほど美しいことはすぐに分かった。
悪魔に魅入られたせいなのか。天使に気に入られたせいなのか。
どちらにせよ、耳が痛いほどの寂しい静寂の中にポツンと独りきりでいる幼子というミスマッチな光景も相まって、現実味のなさが際立った。
少年は蹲ったまま手近な石を手に取って、ガリガリと足元の薄い砂地に何かを描いては消して遊んでいるようだった。
しばらく観察していると、飽きてしまったのか、少年がふっと顔を上げる。
先ほどまでは伏せられていてよく見えなかった瞳がぱっちりと開いて、吸い込まれそうな群青の色が認められた。
(悪魔、なんて嘘じゃない)
その少年こそが天使なのだ――と言われても信じられるくらい、非現実的な美しさを纏った横顔に、ドキン、と胸が大きく音を立てる。
著名な芸術家が描き出したような、愛らしく美しい少年は、とても憎しみを持って語られる単語とは似ても似つかなかった。
すると、園庭の方がわっ――と騒がしくなる。鬼役が数を数え終えて、子供らを探し出したのだろう。
その喧騒に、少年はハッと目を見開いた後、何かを期待するかのように園庭へと顔を向け――すぐに顔を振って、耳を塞ぐと、ぎゅっと身体を縮こまらせるようにしてうつむいてしまった。
(ぁ――……)
その姿を見て、脳裏に言葉がよぎる。
――『可哀想な子』、だ。
「っ……!」
息を詰めて、過った言葉を必死にかき消す。
こんなにも――天使の寵愛を得るに相応しい美しい少年ですら、孤独に震えて、蹲っているのだ。
それは、前の施設で一番最初に暴力から庇った女児の姿であり――必死に気づかないように隠してきた、マナリーア自身の姿のようでもあった。
それは、哀れで、不憫で――愛しくて。
その時、マナリーアの胸に浮かんだ感情は、慈しみではなく――”憐れみ”だった。
こんなにも美しくて、完璧に思える少年が、不幸に蹲っているのは――あぁ、なんて惨めなのだろう。
ついこの間まで、自分も同じ弱さを抱えて、それを悟られまいと虚勢を張っていたからわかる。
辛くて、苦しくて――飛び切り、哀れで。
(違う――違う、あたしは、”可哀想な子”なんかじゃ、なかった――!)
一瞬、仄暗い考えが、心の奥底に陽炎のように浮かんだのを自覚して、それを押し込めるように何度も唱える。
(あたしは、『強くて、優しくて、思いやりのある子』なの……!)
その場に治天使がいれば、きっと、愉悦の笑みを漏らしたことだろう。
一瞬、腹の底に幻のように宿った瘴気を、視界を焼くほどの強烈な聖気を放つことでかき消して、必死に清く正しく美しくあることを己に課そうとする少女は、歪んだ治天使の寵愛を得るに相応しい。
シグルトやアリアネルのように、どんなに絶望的な状況でも、決して闇に捕らわれることなく、前を向いて眩い光を放つ魂ではない。
昏さを抱いて、弱さを抱いて――それを、魂の輝きで何とか打ち消して、美しくあろうと足掻き続ける姿。
その、愚かな人間らしい振る舞いこそが、慈悲を司る治天使にとって、”寵愛”を与えたいと思える愛し子なのだから――
「ちょっと!――アンタ、名前を名乗りなさい!」
ザッ――と勇気と共に足を踏み出して、気づいたときには、マナリーアは声を張り上げていた。
◆◆◆
マナリーアの中では、あの出逢いは、運命的だと思っていた。
その後、治天使の加護を受けてからは、なおのことそう思うようになっていた。
「アンタって、本当にあたしがいないと何もできないのね」
照れ隠しのような口調でマナリーアが嘯くと、生傷を負ったシグルトはぶすっとした顔で口を尖らせながら大人しく傷ついた腕を差し出す。
どうやら治癒の魔法は、高等魔法に属するらしい。まだ、病や解毒などの内発的な症状に対するより高度な治癒までは習得していないが、小さな外傷くらいなら問題なく治癒が出来る程度にまで上達した。
もともと、加護を与えてくれた天使の魔法とは相性がいい、というのは事実だが、それにしてもこの魔法習得の速度は過去に類を見ないと、学園の教師たちも手放しでほめてくれている。
「我、癒しを司る治天使に乞う。彼の者の傷を癒し、安らぎを与えよ」
大人びた口調で覚えたばかりの呪文を唱えて手をかざすと、ゆっくりと少年の傷が癒えていく。
ほっと安堵の息を吐くところを悟られたくなくて、サッと長い髪を払う仕草で誤魔化した。
「うるせーな……いいんだよ。俺は前線で戦うのが仕事なんだから」
バツが悪そうな顔で言うシグルトは、初めて出逢った日の可愛らしさは鳴りを潜めてしまっている。
竜殺しの英雄の一族と呼ばれるだけあって、ルーゲル家に引き取られてからみっちりと修行をしたシグルトは、同世代の誰も敵わないくらいの剣捌きと体術を手に入れていた。
「先生も言ってたけど、正天使と治天使が同世代に生まれるのって歴史上初めてなんだって。よかったわね~。独りで怖い怖い魔界に行かなくて済むもんねぇ~」
「……」
よしよし、と揶揄うように頭を撫でてやる。太陽を閉じ込めたような黄金の髪は、なんとも言えず柔らかで滑らかな心地よい手触りだった。
「あたしがいる以上、アンタは死なないわ。感謝しなさいよ」
学園に入って、魔法のことを学んで――初めて、加護を受けたときの治天使の言葉を正しく理解した。
(きっと、あたしは――シグルトを、蘇らせるんでしょうね)
ふ、と切ない気持ちが湧き上がる。
それなりに分別がつく年頃――それも特に同世代の中でも聡い子供だったマナリーアは、すぐに世間で言われている当たり前の歴史の歪さに気が付いた。
(未だに、”勇者”が現れては魔界侵攻を繰り返している――ということは、つまり、今まで誰一人として、魔王を倒すことが出来た”勇者”はいなかった、ということ。全員、もれなく、魔界で無為に死んでいったということでしょう)
学園の教師たちは、無責任に期待を煽る。
歴代最強の勇者になりえる、だとか、歴代最高の魔法使いになりえる、とか。
たかだか十にも満たない幼子を捕まえてよくも――と思うが、仕方ない。それが、この世界の”アタリマエ”なのだから。
(きっと、魔王は強い。上級魔族ですら聖騎士団の精鋭でも歯が立たないと言われているくらいだもの。例えルーゲルの恵まれた血筋と竜を想定した英才教育、学園での最高峰の教えがあったとしても、敵のホームとも言える魔界で、今までにない偉業を成し遂げるなんて、不可能でしょ)
どこか冷めた感情で、冷静に判断しながら、マナリーアは目の前の美しい少年を見る。
「大した自信だな。魔界じゃ十分な聖気がないから、治癒魔法も好き勝手に使えるわけじゃないんだぞ」
「知ってるわよ、失礼ね。そんな台詞は、魔力効率測定試験で私より好成績を出してから言いなさいよ」
「ぅぐっ……」
憎まれ口を叩けば、シグルトは痛いところを突かれたと言わんばかりに押し黙る。
(第一位階の天使は、その身に纏う聖気量が凄まじいから、短時間であればという条件付きだけど、唯一魔界に顕現することも出来ると言われている。……いざというとき、治天使様の”慈悲”に縋れば、私は、そこが魔界であってもシグルトを助けられる)
その時、代償に差し出すのは、きっと己の命なのだろう――と、何故か、自然に思えていた。
「でも、お前……いいのかよ」
「?……何が?」
「前に、言ってただろ。別に、治天使様の眷属になりたいわけじゃないって。もしお前が、普通に結婚して、子供産んで……っていう幸せを望んでるなら、俺は――」
あぁ――やはり、この少年は、正天使の加護を持つ子供だ。
自分と違って、どこまでも清らかで、美しい魂を持っている。
勇者パーティーに選ばれる人間は、その時代に所属する聖騎士団の中で優秀な人材から順番に選ばれる。
高位の天使の加護を持っている者が多いという傾向はあるが、毎回必ずこの加護を持つ者が選ばれる、という規則性はない。
ただ一人――治天使の加護を持つ者だけを除いて。
「なぁに言ってんのよ。治天使様の加護を持つ者は、否応なく勇者パーティーに組み込まれる習わしでしょ。勇者が十五歳を過ぎた時点で治天使の加護を持つ者がいなかったら、それが生まれるまで魔界侵攻作戦が延期された前列があるくらいなのよ?第一、一万年近く続く伝統を、そんなに簡単に変えられるわけないじゃない」
「いやでも……例えば俺が、もっと魔法も鍛えて、しっかり使えるようになれば――」
「えぇ?今の成績を見て、魔法であたしよりも凄い使い手になれる、とでも思ってるの?」
「ぅ、ぐ……」
あぁ――優しい。……優しい、少年だ。
シグルトとて、馬鹿ではない。きっと、自分の運命をよく理解しているはずだ。
自分の生存確率を少しでも高めたいと思うなら、マナリーアを連れて行かないという選択肢はない。
正天使と治天使の加護を持つ者たちは、いわば運命共同体。――最期の時を共にする、唯一無二のパートナー。
そんなことは百も承知だろうに、この期に及んで、マナリーアの人生を、命を、惜しんでくれる。
何の邪念もなく、己の命の危機すら顧みず、マナリーアの幸せを心から祈って、世界の平和をこの小さな背中に独りで背負おうとしてくれる。
(きっと――シグルトが勇者じゃなかったら、あたし、魔界に行くなんて、言えなかった)
初めて出逢った日にマナリーアが見た”可哀想な子”は、もう、どこにもいない。
強くて、優しくて、思いやりのある――マナリーアがずっとずっと、理想として描いてきた人物像そのままの少年が、目の前にいるだけだ。
「ま、アンタは不本意かもしれないけど。――あたしが治天使様の加護をもらった以上、あたしたちは運命共同体なんだから。大船に乗ったつもりで、ど~んと構えてなさいよ」
「なんっか言い方がムカつくんだよな……」
鼻で笑って言ってやると、シグルトは納得がいかないような顔でぶつぶつ言う。
これでいい。――これでいい。
(あたしとシグルトが同い年ってことは、十五歳を過ぎたら、きっと、すぐに魔界侵攻作戦は開始される。――あ~ぁ、結婚も何もかも、叶わぬ夢、かぁ)
ふ、と相手に隠れて嘆息して、著名な芸術家によって精巧に造られた
結婚をして、子供を生んで――そんな人生を歩んでみたいというのは本当だ。
だけど、その相手は、今、目の前にいる少年以外には考えられないから。
マナリーアは、いつも通りの気安い幼馴染の顔で、下らないやり取りを交わし続ける。
誰よりも、一番近い存在で居続けられればいい。背中を預けて、命を託して、共に戦える最高のパートナーであり続ければ、いい。
それはつまり、シグルトの中で一番の『特別』であり続けると言うことだから。
本当に、本気で、ずっとそう思っていた。
――ある日、学園に、天使のような少女が現れるまでは。
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