第127話 マナリーア①

 物心ついたときの世界は、地獄から始まった。


「今日から皆のお友達になる、マナリーアちゃんです」


 "先生"と呼ばれる施設の中の大人の一人にそう紹介されて、ぺこりと頭を下げたのが、マナリーアの中にある一番古い記憶。

 親、という存在の記憶はない。色々な家を転々とさせられて、その施設へ連れて行かれた時も、誰か大人に手を引かれていた記憶はおぼろげにあるが、それが自分とどういった関係性の相手だったのかは全く以てわからなかった。


 ただ、妙に頭に残っている言葉が、昔からあった。


『強くて、優しくて、思いやりのある子になるのよ』


 親が言ったのか、他の誰かが言ったのかはわからない。あるいは、別々の人間が口にしていた言葉を、誰か一人に言われた言葉として勝手に記憶を改竄して覚えてしまったのかもしれない。 

 それでも、寄る辺のない幼いマナリーアとにとって、その言葉は、大事な大事な生きていく上での指針だった。


「皆、仲良くしてあげてね」


 優しそうな笑顔で"先生"がそう告げると、我知らず緊張していた心が緩んだのを覚えている。

 だが、少女を取り巻く世界は、一瞬で崩壊した。


「何してるの?」


 きっかけは、些細な事だったと思う。

 同じ施設に通う女児を、複数人が陰で取り囲んでいるのを発見した。

 よく見ると、座り込んでいる女児は痣だらけで、頬は涙に濡れている。いつも口数が少なくて、仲間の輪に入ってくることが少ない女児だと、すぐに気づいた。


「どうしてそんなことするの?駄目だよ!」


 あまりにも痛々しい痣を見て驚いて、暴行を加えていたらしき子供たちから庇うようにして立ちはだかった。

 それは、正しい行いだと思った。

 ここで涙を流す痛ましい女児を見て見ぬふりをするのは、かつて、誰かが授けてくれた人生の指針に悖る行いだと思ったのだ。


 だけど、その日を境に、世界は地獄へと塗り替わった。


「せんせぇ!マナちゃんがアーリアの髪飾りを盗みました!」

「えっ……!?」


 お絵かきの時間に、全く身に覚えのないことを隣の女児が手を上げて言い出した。

 手元を見ると、ついさっきまではなかったはずなのに、左手の傍にころん、と見覚えのない小さな髪飾りが転がっている。


「まぁ……!駄目じゃない、マナリーア!」

「ち、ちが――」


 否定しようとした言葉は、周囲の言葉にかき消される。


「ひどぉい。アーリアが何したって言うの?」「髪飾りが可愛かったからでしょ?欲張り」「アーリアが可哀想」「謝りなよ、早く」


 まるで氷のように冷たい言葉が降り注ぎ、疑惑を否定しようとしたはずの唇は固まったように動かなくなった。

 クスクス、とどこからか響いてくる意地の悪い笑い声が、いつまでも追いかけるように耳に響く。

 始まった地獄は、その日だけで終わらなかった。


「せんせぇ~。またマナちゃんが~」「マナちゃん、いい加減にしなよ」「マナちゃんが触った玩具は汚いから触りたくありませぇん」「マナちゃん、こわぁい」


 理不尽な暴力に晒されていた少女を庇ったあの日以来、標的はあの女児から自分へと変更されたらしい。


「っ、やってないもん!」


 必死に声を張り上げるが、大人たちの顔を見れば、全く信用されていないことなどすぐにわかった。

 集団の圧力という名の暴力は、非力な孤児みなしご一人で立ち向かうには巨大すぎる敵だった。

 あろうことか、あの日助けたはずの女児もまた、マナリーアを苛める側へと回っているのは、無力な少女にこの世の理不尽を骨の髄まで実感させるのに十分すぎるほどだった。


「ほら、マナちゃん。お友達が泣いてるよ?ちゃんとごめんなさいしましょうね?」

「あたしはっ……悪いことなんて、何もしてない!」


 泣きたいのはこっちだ――そう思いながらも、必死に襲い来る理不尽に抵抗する。

 きっと、誰か別の標的を見つけて、この『役割』を擦り付けることが出来れば、この地獄は終わるのだろう。

 百も承知だったが、マナリーアは決してそれを良しとしなかった。


 本当は、今すぐにも逃げ出したい。

 自分だって暴力に訴えて、苛めてくる敵に報復したい。


 だけど――それは、やってはいけないことだと、知っている。

 別の誰かにこの『役割』を押し付け、苦しみから逃れるだけでは、何も解決しない。


「あたしは、絶対――絶対、悪いことなんか、しないもん!」


 誰にも信じてもらえずとも、ただ、強く強く、声を張り続けた。

 『強くて、優しくて、思いやりのある子』は、誰かを生贄に自分だけが逃げるなどという卑怯な行いを決してしないのだ。


「……もう、手に負えないわ」


 大人たちがそう言いだしたのは、地獄が始まってしばらくしてからだった。

 どうやら、マナリーアを施設の問題児と位置づけ、諸悪の根源と決めつけたはいいが、いつまで経っても態度を改めず無実を主張する幼子を前に、解決策を見出すことも出来なかったらしい。

 マナリーアは施設を移ることになった。


 同世代の子供からの苛めも辛かったが、それ以上に、大人たちの視線も辛かった。

 大人たちは皆、マナリーアに、あからさまなまでの憐れみを孕んだ視線を投げた。


 ――可哀想な子――


 それが、大人たちから貼られたレッテル。


「あたしはっ……!悪くない……!」


 息が出来ないほどの苦しさに襲われて、最後まで喉から正義の主張を迸らせる。

 大人から与えられる理不尽に屈するのは、嫌だった。


 何より――もう苛められなくて済む、という事実に、一瞬だけ心の隅で安堵した自分を認めるのは、狂いだしそうなほど嫌だった。


(あたしは、強くて、優しくて、思いやりのある子。”悪い子”でも”可哀想な子”でも、ない……!)


 心にジワリと浮かんだ黒い染みをかき消すように、心の中で何度も念じる。

 そうして、大人に連れて行かれた先――


「今日から皆のお友達になる、マナリーアちゃんです」


 こういう施設の大人は、同じ台詞を言うようにとでも決まっているのか、いつか聞いたのとまったく同じ文句で紹介を受ける。


「マナリーアです。よろしくね!」


 翳りなど一つも感じさせない、満面の笑みで元気よく挨拶をする。

 自分の中の理想的な『強くて、優しくて、思いやりのある子』を思い描いて、必死に一部の隙も無く振舞った。

 親がいなくても、最初の施設に馴染めなくても、大人たちに問題児だと決めつけられても――

 前を向いて笑顔で生きていける、強い、強い、子供なのだ。


「マナちゃん、一緒に遊ぼう!」「あ、ずるい!私も!」


 新しい仲間が珍しいのか、口々に児童らが集まって来て、周囲を取り囲む。


「今日は皆でかくれんぼしよって言ってたんだよ。マナちゃんもいっしょにやろう!」


 快活な子供が数人、マナリーアの手を引いて屋外へと誘う。

 以前の施設では体験することのなかった、優しい温もり。


(――ほら。あたしは、”可哀想”なんかじゃない)

 

「じゃあ、俺が鬼をやる!」

「マナちゃん、隠れよう!……あ、あっちは行っちゃだめだからね」


 鬼に立候補した少年に背を向けて銘々に走り出す最中、掛けられた言葉に振り返る。

 女児が差しているのは、施設の裏庭に続く道だった。


「何があるの?」

「あっちに、いつも『悪魔の子』がいるの。……あれ、『天使様のお気に入り』だっけ?まぁいいや、気味が悪いから、近寄らない方がイイよ」


 要領を得ない少女は、言うだけ言って隠れる場所を探しに反対方向へと駆けていってしまった。

 幼さゆえの無邪気さで、残酷な言葉を吐くその少女の顔は、前の施設で何度も見たことがあった。


(――悪魔の、子。でも、天使様のお気に入り……?)


 少女の言葉が何を指しているのかわからなかったが、興味を引かれたのは確かだ。


「――……」


 きょろきょろ、とあたりを見回して、周囲が誰も自分に着目していないことを確認してから、マナリーアは足音を忍ばせて、行ってはいけないと指さされた裏庭へと足を向けたのだった。

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