第126話 癒しと慈悲を司る天使④
「……フン。お前が、次の勇者か」
「な……に……」
「この惨劇と、俺の纏う
言いながら、魔王はこめかみへと指をあてる。
「
「な――え――?ぜ、る……?」
その名前には、どこかで聞き覚えがあった。
どこで聞いたのか――と考えるより先に、いつの間にか目前に迫っていた美丈夫の氷のように冷たい蒼い瞳が、冷ややかに真上から見下ろしていた。
「くだらん。――寝ろ」
「な――ぁ……待……」
至近距離で魔力が放出される気配を察知し、防ごうと思ったときには遅かった。
抗いがたい睡魔に捕らわれ、瞼が下がり、意識を失う。
どさり……と地面に崩れ落ちるシグルトを魔王は冷ややかに見下ろす。念のため後ろを振り返ると、同様に眠りの魔法に捕らわれたマナリーアも地に伏せるところだった。
「フン……これが、勇者か。確かに、正天使が好みそうな整った外見をしているが――」
その容貌を値踏みするようにじろじろと眺める。
これが、魔界を眩しく照らす太陽のような娘が、日ごろからうるさく言っている男かと思うと、途端に不愉快な気分になるのは何故だろうか。
己にも理解の出来ない感情に支配されて不機嫌になっていると、程なくして虚空に紫色の魔方陣が現れ、慌てた顔の黒ずくめが現れた。
「魔王様!一体、何が――!」
「来たか。……これらの人間から記憶を奪え。適当に――そうだな。突如現れたヴァイゼルと交戦し、治天使が来たことでヴァイゼルが撤退した……という記憶でも差し込んで置けばいい」
魔王の足元で昏睡している二人の姿を認め、ゼルカヴィアは何も言われずとも状況を察する。
記憶に関する魔法は全て、ゼルカヴィアの固有魔法だ。いくら魔王でも、他人の固有魔法を使うことは出来ない。
ゼルカヴィアはすぐに頷いて魔法を展開した。
「ゼルカヴィア。……いつも、あの子供が魔界で騒いでいるのは、その人間の男のことか?」
「え?……あぁ、アリアネルのことですか。そうでしょうね。私がこの少年を最後に見たのは三年前でしたが――人間というのは、たった三年でここまで成長するものなのですね。アリアネルの成長速度も目を見張るものでしたが、男子の成長もまた、驚くべき速度です」
魔法を展開しているゼルカヴィアの背中から語りかけた魔王は、もう一度昏睡している男をチラリと視線だけで見下ろす。
まだ青年と呼ぶには早いが、少年と言うには抵抗がある――そんな外見。
しっかりと鍛えられて逞しくしなやかな筋肉がついた身体も、すらりと伸びた身長も、美しい黄金の髪と吸い込まれそうな群青の瞳と相まって、人間界で『王子様』と言って憧れられる男性像に少し近い気がする。
「今、ここでこの男を始末すれば、あの子供は――」
「……魔王様?」
魔法をかけ終えたゼルカヴィアは怪訝な顔で魔王を振り返る。
魔王は、ハッとした顔で口を閉ざすと、ふぃっと顔をそむけた。
「……何でもない。あちらの治天使の加護を持つ女も同様に処理しろ」
「はい」
いつも通りの冷ややかな声に命令されて、ゼルカヴィアは静かに命令に従う。
「……まだ、その少年には、正天使の加護がついているでしょう」
「知っている」
「正天使の加護を打ち破るには、他の全てを投げ出してその作業にかかりきりになって、半年以上――下手をすれば年単位がかかる、とおっしゃっていませんでしたか」
「フン。……下らんことばかりよく覚えている男だ」
「記憶を司る魔族――などというものをしていますので。記憶力には多少自信があります」
鼻の頭に皺を刻む魔王に、嘆息しながらゼルカヴィアは告げる。
「貴方が始めた、物語でしょう。……今更、慈悲を与えるつもりですか?あの子供に」
「……俺は何も言っていない」
「本当にあの子のことを思うなら――解放してやるべきです。全ての記憶を消して、彼女が望む、本当の家族となってくれる人間の元へと、送り出す。……私にはそれが出来ます」
「何も言っていないと言っている」
魔王の声に、苛立ちが混じる。
ゼルカヴィアは軽く肩を竦めて、大人しくそれ以上の追及を止めた。
(確かに、今、この勇者候補を殺せば――将来、アリアネルが少年と魔界で相対することもなく、結果、あの少女が涙を流して苦しむこともないでしょう。これから先、少年を欺き、裏切っているという事実に心を痛めることもありません)
記憶操作の魔法に包まれていくアリアネルの学友を見ながら、胸中で呟く。
(ですが、今、アリアネルを人間界に還したとして――次は、正天使に目を付けられるだけでしょう。そしてあの無垢な心を利用されて、魔族は敵だと洗脳されて、我々に纏わる全ての記憶がないまま、魔界侵攻の筆頭として送り込まれてくるわけです。……我らはそれを、迎撃せねばならなくなる)
そんなことが、出来るのだろうか。――今の、自分たちに。
「お望みとあらば、彼女の全ての記憶を消します。多少時間はかかりますが――魔王様を含め、アリアネルと関わりを持ったすべての魔族の中から、少女の記憶を消しましょう。そうすれば、今の魔王様の憂いは何もなくなるのでは?」
「五月蠅いと言っている。……俺に許可なく、俺に向けてお前の魔法を使うことは許さないと、お前が初めて俺の配下に入るとやってきたときに誓わせたはずだ」
「……そうでしたね。失礼いたしました」
ポツリと呟くように認めて、謝罪する。
「彼女が十五になるまで、あと二年です。……どうぞ、お忘れなく」
「わかっている。……五月蠅い男だ。お前に指図を許したつもりはない」
「はい。……失礼いたしました」
再び謝罪を口にして、ゼルカヴィアが立ち上がる。命令された通り、偽りの記憶を差し込み終えたのだろう。
「それにしても――また、ですか。……さすがに、異常な数です。ましてここは、元から瘴気が濃かったわけでもなく――どうしてヴァイゼルともあろう者が暴走してしまったのか、全く見当もつきません」
「あぁ」
口の中で呪文を呟き、地面に
「滅多に暴走することなどない上級魔族が、こうも続けて……さすがに、何者かの陰謀と言われた方がしっくりくる事態です」
「――足元――」
沈みゆくかつては忠実な魔族だった肉塊を見ながら、ぽつり、と魔王が呟く。
「……はい?何か、おっしゃいましたか?」
よく聞こえなかったのか、ゼルカヴィアは振り返って聞き返す。
難しい顔で何事かを思案する魔王は、チラリとゼルカヴィアの顔を見た。
一万年――魔界が出来たその原初の時代からずっと、誰より一番傍で付き従っている、この世で一番信頼できる忠臣。
先ほど一万年ぶりの再会を果たした、かつて何万年も時を共にした治天使などよりもよっぽど信頼に足る存在だ。
足元、と言われて魔王が真っ先に思い浮かべるのは――
「……いや。何でもない」
ぐっと拳を握り締め、魔王は低くつぶやく。
――感情は、要らない。
好ましさ、など何の信頼も置けない。
どれほど好ましく、信頼している相手でも――予期せぬ暴走は、ありうるのだ。
それを、魔王は誰より良く、知っている。
(あの日、俺はそれを知り、深く反省したはずだ。――無二の友と信じたはずの初代正天使を、この手で屠った、あの時に)
治天使が忠告と称して告げた言葉すら、信頼できるとは思わないが――偽りと侮り、油断することも又、愚かだ。
すべてにおいて、公平に、公正に。
そうあるべきと造られたのが、魔王という存在なのだから――
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