第125話 癒しと慈悲を司る天使③
頭上から降ってきた声に、驚いて顔を上げる。
「……天、使……様……?」
紫色の巨大な魔方陣を背負うようにして立っていた長身を見て、マナリーアの唇から呆然とした声が漏れる。
突如として現れた人影が持つ輝くような黄金の髪も、息を呑むほど真っ蒼な瞳も、治天使と変わらぬ不自然なまでの完璧な美貌も――何もかも全て、天使を彷彿とするそれだったからだ。
だが、彼の装いは、天使とはかけ離れた黒ずくめだった。その背に、天使を象徴するような純白の翼も生えていない。
「あら。これはこれは。いったいいつぶりかしら?あの日以来だから――そうね。一万年ぶりくらいかしらね」
優雅を体現したかのような美女は、ゆっくりと翼を操りながら高度を堕として、興味深そうな顔で現れた美丈夫へと近づく。
「フン。俺は決して、お前をそんな風に造った記憶はないのだが……長い時を経て随分と変わったものだ。常々思っていたがお前の性格は、天使よりも、魔族に近い」
「まぁ、酷い男。――あの日の貴方の仕打ちで、こうなってしまったことをお忘れ?」
「……フン」
心当たりはあるのか、美丈夫――魔王は、つまらなさそうに小さく鼻を鳴らしたあと、治天使に背を向ける。
「あら。……私を、信頼するの?正天使の命令で、貴方に背中から危害を加えないとも限らないのに」
「馬鹿なことを。ここは、聖気が薄い。お前は顕現するだけで精一杯だろう。十分に魔法を使うことすら苦労するはずだ。……そうでなくとも、己が造り出した存在に後れを取るほど、落ちぶれてはいない」
「ふふふ。すごい自信ね。私を生んだのは、もう何万年も昔だと言うのに」
「それでも、だ。……俺の魔法で強制的に天界に還されたくなければ、さっさと己の意志で帰れ。これは、俺が始末をつけるべき事案だ」
「そうね。……興覚めだわ。まったく」
言いながら、コバルトブルーの瞳がねっとりと魔族の方を向く。
先ほどまで威勢よく第一位階の天使にすら挑んでいた魔族は、魔王が現れた途端に顔を蒼白にして腰を抜かし、ガタガタと震えていた。
興味を失った、とばかりに、これ見よがしに落胆の溜息をついた後、治天使はばさり、と大きく羽音を響かせて踵を返す。
そのまま、空高く舞い上がろうとした瞬間――「そういえば」と美女の朱唇が動いた。
「私は、中立。今の正天使にも、貴方にも、どちらにも味方をするつもりはないけれど――昔のよしみで、一つ忠告しておいてあげるわ」
「……なんだ」
「足元に気を付けなさい。……今の正天使は、傍から見ても狂ってるわ。善悪の判断など出来ぬくらいに、ね。……誰かさんはもういないし、愛に飢える狂った造物主は禁忌を犯しでもしない限り、今の正天使を罰することなど出来ないでしょう。それをわかってて、造物主を囲い込むくらいのことはする奴よ、あの男は」
「……足元……?」
ひくり、と魔王は訝しげに眉を顰める。
しかし、中立と明言した美しい天使は、意味深な笑みを浮かべただけで、今度こそふわりと宙へ舞い上がる。
「助言はここまで。……私だって、面と向かってあの狂人とことを構えるつもりなんてないわ。際限なく狂っていく天界を、貴方が昔私に与えた良心の欠片を総動員して、最低限の秩序を保たせるだけで精一杯。あとは、貴方たち当事者同士で、勝手に思う存分やり合って頂戴。私は傍観に徹するわ。――今度こそ、ね」
「フン……お前が積極的に俺たちの諍いに関与したことなど、未だかつて無かっただろう。昔から、要領の良さだけは一級品の女だ」
「あら、失礼ね。あの造物主と渡り合うために、”そうあれ”と造ったのは、他でもない貴方でしょうに」
悪戯に笑って数枚の羽を散らせながら、すぅ――と美女が蒼空へと姿を消していくのを見送って、魔王はちらりと地面へと視線を移した。
腰を抜かして立ち上がれなくなった哀れな上級魔族は、じりじりと後退るように逃げ腰になっている。
「よくここまで巧妙に隠れていたものだ。おかげで、見つけるのが随分と遅れた。そのせいで、想定以上の瘴気が生まれた。魔族は減るばかりだと言うのに、苦労ばかり増やしてくれる」
「ぁ……ぁぁ……お、お許しを――」
「お前をそんな風に造った記憶はない。……見過ごすことは出来ん」
「ど、どうか――」
「時期が来れば、また、別の命として生んでやる。だから――今はその命を持って、償え」
眉の一つも、響く声も、何一つ揺らすことなく。
淡々と、粛々と――ただ、なすべきことを成すように、怯える魔族にそっと手を触れる。
命を司る固有魔法を発動するため、その昔、自分が与えた名前を口に乗せた。
「さらばだ。――ヴァイゼル」
ぐしゃ――!
「ヒッ――!」
喉の奥で悲鳴を上げたのは、マナリーアだった。
あれほど恐ろしかった上級魔族が、断末魔を上げることすら許されず、全身から血液を噴き出してその命の灯をかき消してしまったのだ。得体のしれぬ力に、形容し難い本能的な恐怖が沸き起こる。
「何だ……お前は――!」
未知の恐怖に捕らわれるマナリーアとは対照的に、剣を構えてシグルトは魔王を見据えた。
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