第124話 癒しと慈悲を司る天使②

 ばさり……と大きな羽音が聞こえて、目の前に、美しい純白の羽がひらりと数枚、舞い踊るのが見えた。


「ぇ――……」


 思わず目を瞬き、幻想的なその光景に言葉を失う。

 

「あぁ……久しぶりに、私の”慈悲”を乞う声を聴いたと思ったら――お前だったの。哀れな仔羊」


 言葉にするなら、”優雅”。

 その一言が、似合うだろう。


 白銀に近い金の長い髪を讃え、吸い込まれるようなコバルトブルーの瞳をした絶世の美女が、雪のように白い翼を拡げて空から少女を見下ろす。


「最後に逢ったのは、お前に加護を与えたときだったかしら」


 ふ……と口元に妖艶な笑みを湛え、美女はそっとマナリーアの頬へと手を伸ばした。

 ひんやりとした指先は、爪の形まで美しく、造られし者の不自然で完璧な美を否応なく印象付ける。


「ぁ……天使、様――」

「ふふ。哀れな仔羊。……愚かなお前は、忘れてしまったかしら。私が加護を与えたときのことを」


 可憐な桜色の花びらを張り付けたような華奢な指が、揶揄するように少女の顔の輪郭を辿り、ふぅっと思わせぶりな息を吹きかける。

 その瞬間、マナリーアは、幼い日の記憶がありありと蘇った。


「ぁ――あぁ――」

「思い出してくれた?……ふふふ。そう怯えないで、哀れな仔羊。私の加護を受けた者は、決して”死別の哀しみ”に苦しまない――それが、約束だったでしょう?」

「ぁ……ぅ、ぁ……」


 がくがくと、先ほどとは違う恐怖で、全身が震えだす。

 歯の根が合わず、ただ縋るような目で、宙に浮かぶ人ならざる美女を見つめた。


『見つけた。……哀れな仔羊』


 あの日も、そう言って、急に目の前に現れたのだ。この、妖艶な、人外の美女は。


『お前はとてもアンバランスね。底抜けに輝く魂の中に、仄暗い闇も同時に抱えている。――その闇を、理性で抑え込み、必死に聖気の輝きで包もうとする、そんな子供』


 シグルトと出逢った孤児院で、彼がいなくなってしまった後に、目の前に現れた彼女はそう言った。


『とっても――とっても、私好み。いいでしょう。私の加護を、与えましょう』


 歌うような美声で優しく告げて、そっとマナリーアの額に口付ける。

 加護が”寵愛”と例えられる理由の一つ――天使は加護を口付けで与えると知ったのは、学園に入った後だった。


『私は、いつも人間に癒しばかりを乞われるけれど――慈悲を授けることもまた、役割なの。だから、仔羊。お前にも、慈悲を授けてあげる』


 ぽぅ……と光が視界を覆う中、妙に鼓膜にへばりつく、ねっとりとした声。


『生命が生きていく上で避けられぬ一番の苦しみは、愛する者との死別よ。心が張り裂けそうになるその悲鳴を、私は唯一かき消すことが出来る』


 優しく優しく、真綿で包むような、慈悲のこもった言葉。


『一度だけ――お前の人生で、一度だけ。本来、人の身では使うことの叶わない、この治天使の”固有魔法”を乞うことを許すわ』


 麗しい唇は、呪いのような祝福を口遊くちずさむ。

 その時は、”固有魔法”というものが、どんなものを指すのか、わからなかった。


『それはね。――一度死んでしまった命を、蘇らせることが出来る、蘇生の魔法。私は憐れな仔羊に、人生で一度だけ、特大の慈悲を与えると決めているの』


 悪魔のような優しい声で、美女は続ける。


『だけど、世の中の理を曲げるこの魔法を使うには、条件があるわ』


 幼い自分は、首をかしげた。

 世界が傾き、天使は変わらず笑っていた。

 ――嗤っていた。


『この魔法はね――誰かの命と引き換えに、効力を発揮するのよ』


 その言葉の意味は、当時はよく、わからなかった。

 

『今はわからなくてもいいわ。だけど、その時が来たら、願いなさい。私は慈悲を司る天使。哀れな仔羊が、運命のときにどんな判断をするのか――それを楽しみにしているわ』


 ふふ、と上品な笑いを漏らす美女に、わからないまま、頷いた。

 ――頷いて、しまった。


「――さぁ、仔羊。お前は私に乞うたわね?」


 十年近く前のあの日と全く同じ声、同じ顔で、悪魔のような天使は歌うように告げる。


「お前が愛するのはあの男?……ふふ、素敵ね。あの正天使が目をかけただけあって――驚くほどに正義に満ち溢れて、嘘の一つも吐けない、眩しい魂。己を犠牲に世界を救うことに、疑問を持たずに邁進できる、清らかな魂。……お前とは違って、ね」

「ぁ……あぁ……!」


 唇が真っ蒼になり、意味のある言葉を紡げない。

 遠くで切り結んでいた二人も、こちらの異変に気付いたらしい。

 ガラリ、と上級魔族の顔色が変わる。


「天使――!」


 どこまでも余裕を崩さなかった魔族は、一瞬で般若のような形相を浮かべると、空中に無数の鋼を生み出し、一斉に治天使へと差し向けた。

 今までの、人間を甚振るような攻撃ではない。量も、速度も、段違いで、おそらくこれがこの魔族の本気なのだとすぐにわかる攻撃だった。


「五月蠅いわね。第二位階の天使にすら劣る分際で」


 目の前に迫る無数の刃にも、顔色一つ変えることなく、バサリ、と大きく羽を羽ばたかせる。

 その瞬間、刃は目に見えぬ壁に阻まれ、全て地上へと叩き落された。


(封天使の、結界――!?)


 リアナが展開したのとは比べ物にならぬ強度と速さで現れたそれは、無詠唱であっさりと具現した。

 改めて、第一位階の天使の恐ろしさに、ゾクリと肝が冷える。


 彼女は、自分の味方――の、はずなのに、どうして魔族を前にしたときよりも、恐怖が拭えないのだろうか。


「お、お願い……助けて……」


 みっともないことは百も承知で、震える声で縋りつく。


「あの魔族を――」

「殺せって?……嫌ぁよ。どうしてそんな面倒なことを、私が」


 にっこりと慈悲に満ちた笑みで、無情な言葉を発する天使に、絶望が押し寄せる。


「勘違いしないで。貴女が請うた慈悲は、『あの少年を死なせたくない』でしょう?私は、その願いは聞くと約束している。――初めて出逢った、あの日にね」

「そんな――」

「随分と面白そうだから、こんなに瘴気に塗れた気分の悪い場所にも、こうして降りてきてあげたのよ。……さぁ、思う存分、殺し合いなさい。私は手を出さずに宙から見守っていてあげるから」


 言いながら、翼を羽ばたかせ、すぃっと空中へと舞い上がっていく。

 言葉通り、この戦いに手を出すつもりなどない、ということだろう。


「マナリーア!?お前、何を――」


 シグルトの叫びも、遠く聞こえる。バクバクと心臓が脈打つ音がうるさくて、外の音は何も聞こえない。

 ただ――呪いのような美声だけが、はっきりと鼓膜に届いた。


「その時が来たら、貴女は”誰”を犠牲にするのかしら。……ふふ。無実の民?それとも――憎い恋敵?」

「っ、違――!」

「あるいは自分の命を捧げる、かしら?――ふふふ。相手を助けたいのは、一緒に生きていきたいからなのに?その未来を、簡単に投げ捨てられる?」


 ぞっとする声が、歌うように呪いを紡ぐ。


「あぁ――愉しい。愉しいわ。哀れな仔羊。これだから、人間に加護を付けることを止められない。……その時が差し迫った時、お前は一体、どんな選択をするのかしら」

「っ……!」

「どんな選択も、美しいわ。エゴのために他者の命を巻き込み、愛する者の蘇生の喜びと清らかな魂故の罪悪感の狭間で苦しむ姿も……美しい魂の輝きとともに自己犠牲を選び、蘇生した相手の瘴気に塗れた絶望の慟哭が響く瞬間も。あぁ……とても、とても、楽しみだわ」


 天使が、美しく清らかな存在などと、一体、誰が言ったのだったか。

 狂っているとしか思えぬ言葉を遺して、空高く舞い上がる跡を、純白の羽がひらひらと舞い降りてくる。

 

「ぁ――ぁあああああああああああああああ!!!!」

「マナリーア!?」


 目の前が真っ暗になるほどの絶望に支配され、絶叫と共に膝を折った、その時だった。


「随分と懐かしい顔があると思えば――相変わらず、ねじ曲がった性格をしているようだな。治天使」


 ――目の前に、見知らぬ誰かの靴が現れたのは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る