第67話 役割①

 ふ……と、空気が動いた気がした。

 ゆっくりと瞼を押し開くと、部屋は漆黒に沈んでいて、既に人間界でもとっぷりと日が暮れてしまった時間なのだろうと推察できた。


「ん……誰か……いるの……?」

「起きたか。……夜、寝所でここまで近づかれなければ気づかんとは、間抜けにも程があるな」


 フン、と鼻を鳴らす音に聞き覚えがあって、寝ぼけた頭をぼんやりと声が聞こえた方へと巡らす。

 そこには、想像した通り――太陽の祝福を目一杯閉じ込めたかのような美しい黄金の髪を持つ父がいた。


「パパ……?」

「人間界で倒れ、寝込んでいると聞いた。様子を見に来ただけだ」


 じ、と枕元に立って、冷ややかな顔で見下ろされる。無感動な瞳は、とても娘を見舞いに来たとは思えない。


(あ……そっか。今日は、新月だから――魔法の、訓練――)


 何故かは知らないが、魔王はいつも新月の夜には必ず魔法の訓練を付けてくれる。

 他の日は、日中だったり朝早くだったりと、本当に気まぐれに、仕事の合間に面倒を見ているだけだと明らかにわかる不規則さだったが、新月の日だけは、毎月必ず、アリアネルが夜、寝る前にやってくるのだ。


「ごめんなさ――」

「いい。寝ていろ。ゼルカヴィアからも、今日の訓練は勘弁してやってくれと報告が来た」

「え――」


 ――では、どうしてわざわざアリアネルの部屋まで来たのだろうか。

 身体を起こそうとしたのを手で制され、ベッドに戻されながら、頭の隅に疑問がよぎる。


「人間界にいる『勇者』とやらは、どんな男だった」


(ぁ……そっか、報告が聞きたい――ってこと……?)


 一瞬、本当に父が娘を心配するように、他意なく見舞いに来てくれたのかと期待してしまった。

 恥ずかしい勘違いを気づかれぬよう、アリアネルは急いで昼間のことを思い出す。


「えっと……せ、聖気がすごかった……と、思う……あの子が近くに来ただけで、全然息が出来ないくらいに苦しくなって――」

「フン……腐っても、正天使の加護を付けられるくらいだ。魂は、他の追随を許さぬくらい善性に寄っているだろう。お前のように」

「それから……あ、私に魔法が向かってきてるとき、一番最初に反応してたと思う」


 必死に記憶を辿って、たどたどしく報告する。

 アリアネルの役割は、人間界に溶け込み、勇者たちの情報を仕入れ、魔王へと報告する――いわば、諜報員としての役割だ。

 今日のお粗末な結果の中でも、少しでも魔族の利となるような情報を――と考え、アリアネルは勇者の戦闘能力にかかわりそうな要素を優先的に報告した。

 

「ほう」

「たぶん、魔法が放たれた瞬間は、遠くで後ろを向いてたんだと思うんだよね。外見的にも、すごく目立つ子だったから、近くにいたらすぐにわかったと思うし」

「……ほう」


 ゼルカヴィアは、勇者の外見特徴を最初から知っていたはずだから――という意味で告げたのだが、なぜか少し魔王の声が低くなった気がするのは気のせいだろうか。


「でも、たぶんすぐに気が付いて――一番最初に、こっちに駆けだしたのは、あの子だった気がする。それを見て、周りの大人とかも走り出した感じだったから、教師よりも反応が早いんじゃないかなぁ」

「……そうか。人間ごときの鍛錬で何が出来る――と高を括っていたが、竜を想定した訓練を幼いころから積んでいるとゼルカヴィアが言っていたな。多少は実戦で使える輩なのかもしれん」

「うん。私も、もっともっと頑張るよ!」


 ふんす、と鼻息荒く宣言した後、伺うように魔王を見やる。


「……役に立った?」

「?」

「私――パパの、役に、立てた……?」


 恐る恐る、不安を隠そうともせずに見上げてくる少女に、魔王は少し考える。


(まぁ、既にゼルカヴィアから詳細な報告は受けていたから、今の報告で、何か新たな情報が得られたわけではないが――)


「……あぁ。お前がいなければ、勇者の身体能力も、魔石という存在を知ることもなかっただろう」

「本当!?」


 ぱぁっとアリアネルの顔が太陽のように輝く。


(こう言っておかなければ、きっと、「もっと役に立たなければ」と苦悩し、またこの部屋を己の聖気で満たして苦しむことになるだろうからな)


 先ほどこの部屋に踏み込んだ時にも、既に室内は瘴気が薄れていたことを思い出し、魔王は胸中で呟いた。


「お前が、人間界での活動に支障が出ないような何かの施策は考えておく。時が来れば声をかける。それまで、せいぜい鍛錬に励め」

「うん!」


 輝く笑顔を見ると、どうやら魔王の声掛けのおかげで、随分と気が晴れたらしい。

 現金な娘に呆れたように嘆息するが、アリアネルは気にせず興奮したように人間界でのことを語って聞かせる。


「あのね、あのね、ゼルがね、執事の格好をしてたんだよ!いつもと違って、ちょっとおもしろかった!」

「そうか。それは少し、見てみたかったな」

「もし何か聞かれたら、ミュルソスを執事長ってことにして、適当に話しておけって言われたんだけど、そういう質問はされなかったなぁ……」

「そうか」

「あっ!……そういえばミュルソスに、お小遣いもらったんだった……パパに、お花のお土産買ってこようと思ってたのに……」

「あぁ……そういえば、一度、承認が来ていたな。どうせ、お前に小遣いを遣るためか、ゼルカヴィアの作戦の軍資金だろうと許可を出した」


 魔族にも、天使にも、上位の存在には『固有魔法』という特殊な魔法が許されている。

 それは、例え相手の名前を知って命じられたとしても、他者には使役出来ない魔法のことだ。

 世の中を混乱させ得るような魔法ばかりであるため、扱いの慎重さが要求される『固有魔法』は、その命を生み出した命天使――あるいは魔王――に都度使役の許可を取らなければならない。

 無から黄金を生み出すミュルソスの魔法は、彼の『固有魔法』。

 故に、たとえ序列が上で、ミュルソスの名前を知っているゼルカヴィアが、呪文を持って命じたところで、黄金を生み出すことだけは出来ないことになる。

 

「もう……お小遣いくれるのは嬉しいけど、固有魔法って、そんなに簡単に使っていい魔法じゃないんでしょ?パパも、軽々しく許可出したら駄目だからね!たまには拒否して!」

「……必要ないと思ったときは拒否している」


 しれっと答えるが、ミュルソスの行動を見る限り、そこの財布の紐はゆるゆるだ。

 まだ十にも満たない幼女に、顔を見れば毎回金貨――銀貨でも銅貨でもなく、金貨――を手に握らせて来るのは、いかがなものか。


「そういえば、『固有魔法』は名前を知ってても他者には使えない――って習ったけど、生みの親のパパも使えないの?」

「そうだ。俺に出来るのは、拒否することだけに過ぎん」

「そ、それで大丈夫なの……?ほら、離反する魔族や天使がいるって――それを討伐するのもパパの仕事だって言って――」

「構わん。仮に、上級魔族が――例えば、攻撃に特化したオゥゾあたりがトチ狂い、奴の『固有魔法』の"黒炎"で俺に攻撃しようとしたところで、俺はその使用を拒否すればいい。そうすれば、目の前で魔力が虚空に霧散するだけだ」

「そ……そっか。そうだね」

「これには、俺が判断を誤った時のリスクヘッジも含まれている。もしも俺が、自分が生み出した命の『固有魔法』を意のままに扱えるとしたら――俺自身が使う際は、本人が使う時と異なり、第三者が冷静な判断を下して許可や拒否をしないことになる。つまり、万が一俺が判断を誤れば、世界が混乱する。故に――俺は、拒否することだけしかできないようにした」


 話が長くなりそうな気配を察したのか、魔王は少女が眠る寝台の端に腰掛けた。ギッ……と小さくスプリングが音を立てる。


「パパ……?」

「思いがけず、魔法の講義をすることになったな。真面目な奴だ。……今日は、訓練はお預けだと言ったはずだぞ。他のことを話せ」

「え……」


 まさか、真面目な質問をしたことを窘められるとは思わず、アリアネルは意表を突かれた。

 父が雑談に興じてくれることなど、殆どない。――彼は、”無駄なこと”が大嫌いだからだ。

 人間が、矛盾を抱えて、論理的ではない行動をとることを『愚か』だと断じるような男なのだ。当然、雑談などという”無駄なこと”は最も嫌う行為だろう。

 その昔、魔界には『娯楽』という考えが存在しなかったくらいなのだから。


(でも、貴重な機会なんだから――!)


 大好きな父と、寝る前のおしゃべりが出来ることがうれしくて、アリアネルは必死に頭を回す。


「えっと、えぇっと……あ!そういえば、勇者の男の子は、本当に金髪と蒼い目をしてたよ!パパと、天使の図鑑と、絵本の中の王子様でしか見たことがなかったから、本当にパパ以外にもいるんだ、ってびっくりしちゃった!図鑑や絵本で見た天使や王子様みたいに、すごく整った顔をしてて――」

「……ほう」


 やはり、何か勇者の話に言及すると、魔王の声が低くなる気がする。――話題の選定を誤っただろうか。

 

「魔法がこっちに飛んできたときも、心配してくれて、謝ってくれて、優しくしようとしてくれたよ。ずっと、倒すべき敵だって思ってきたから、何だか拍子抜けしちゃった」

「フン……第一位階の天使の加護がつけられるくらいだ。善性の魂を持っているからには、誰に対してもそのように振舞うだろう。――決して、お前一人を特別に扱ったわけではない。勘違いをしないことだ」

「?……う、うん」


 そんなことは百も承知だが、どうして少し怖い顔で念を押されるのか。


「でも……生まれて初めて、同世代の子と、お話ししたの」

「……?」

「魔族は皆、大人の格好をしてるでしょ?時々、ゼルに人間界に連れて行ってもらうときに、街ですれ違ったりする子供を見たことはあったけど――言葉を交わしたのは、今日が初めてだったから」


 少しだけ、竜胆の瞳が揺れる。


「天使の加護があるからかもしれないけど、すごく優しい子だったから……もし、勇者じゃなかったら、お友達になれたのかなぁって、思ったよ」

「――――……」


 ほんの少し寂しそうな顔で呟いた少女を見て、魔王は押し黙る。

 束の間、部屋に降りた静寂の帳に、ハッとアリアネルは己の失言を悟った。


「あっ!安心して!ちゃんと、敵だってわかってるよ!学園に入っても、あの子と仲良くなり過ぎないように気を付けるよ!ちゃんと――ちゃんと、任せられたことは、精一杯頑張るから――」

「……そうか。ならば、いい。本分を忘れるな」


 慌てて言い募るアリアネルに、魔王は端的に言って、手を伸ばす。


「ぇ――」


 大きな掌が、そっと頬を包む感触に、ドキン、と心臓が飛び跳ねた。


「友人、が欲しいのか?」


 いつも通りの端的な質問とは裏腹な、幼子を慈しむような触れ方に、ドキドキと心臓が走り出した。 

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