第66話 【断章】教育的指導

 目が覚めたとき、もうオゥゾはいなかった。代わりに、部屋には瘴気が満ちていた。

 目覚めた少女に、もう大丈夫かと気遣ったゼルカヴィアは、少女の体調が万全に戻ったことを確認した後、真剣な顔で言った。


「アリアネル。……そこに座りなさい」

「?」


 どうやら真面目な話をしたいらしい。

 大人しくアリアネルが従うと、気持ちを落ち着かせるように深呼吸をした後、ゼルカヴィアはゆっくりと口を開いた。


「アリアネル。……貴女は、『大好き』を安売りしすぎです」

「へっ!?」


 全く想定外のお説教に、思わず間抜けな声で聞き返す。

 てっきり、今日の昼間、役割を果たせず倒れてしまったことを咎められるとばかり思っていたのに。


 しかし、ゼルカヴィアは真面目な顔でふるふると頭を振った後、嘆息しながら続ける。


「良いですか。『大好き』という感情は、誰にでも抱くような感情ではないのです」

「?」

「貴女は、下手をすると城の魔族全員に対して、『大好き』だと愛嬌を振り撒いているでしょう」


 全く……と疲れたように窘めるゼルカヴィアに、アリアネルはむっと唇を尖らせる。


「だって――本当に、皆のこと、『大好き』なんだもん」

「それです。それが、駄目だと言っているのです」


 びしっと指を指されて、はっきりと言い切られるが、全く納得できない。


「どうして?だって、皆、優しくしてくれて――」

「いいですか?……貴女が口にしているのは、『大好き』ですよ。『好き』とは違うのです」

「……ぅん?」

「大、と付くからには、他よりも特別に好意を持っているということです。全員に抱いている感情なら、それはただの『好き』に過ぎません」

「う……ん……?」

「『大好き』と言うからには、たった一人に絞りなさい。世界で唯一――一番『大好き』なのは誰なのか、決めるのです。それ以外は『好き』あるいは『普通』に降格するのですよ」

「えぇぇ……?」


 不服の極み、と表情に出すアリアネルに対し、ゼルカヴィアは一歩も譲るつもりはないらしい。キリキリと眉を吊り上げて、本気のお説教モードだ。


「……一人?」

「そうです」

「絶対?」

「絶対です」


 間髪入れずに返ってくる返事は、彼の意志の固さを表している。

 アリアネルは困り切った顔で天井を仰いで唸った。


「それは――難しいなぁ……」

「何を悩むことがあるのですか。たった一人にしろ、と言われたらそれはもう自明の理で、ただお一人――魔王様以外にないでしょう」


 どうやら、魔王にする、と即答しなかったこともゼルカヴィアのお説教ポイントらしい。キリリとさらに眉が鋭角に吊り上がる。


「魔王様は、『家族』なのでしょう?貴女も、とても懐いていますし――魔王様ほど素晴らしい御方はこの世界に存在しません。万物に愛され、敬われ、称えられる御方なのです。つまり、貴女にとってもただ一人の――」

「うぅん……そりゃ、どうしても誰かを――って言われたら、パパは絶対に『大好き』だけど――」


 アリアネルは、途方に暮れたように困った顔で、ゼルカヴィアを見た。


「――ゼルは?」

「……はい?」

「一人にしなきゃ、駄目なんだよね?――じゃあ、ゼルは、『大好き』にならないの?」


 吊り上がっていたはずの眉が、虚を突かれたように力を失い、深緑の瞳が何度も瞬かれる。

 アリアネルは俯いて一生懸命考えた。


「パパは、確かに『家族』だけど――ゼルも、私にとっては『家族』だもん」

「いえ、あの……いや、待ってください。誰が貴女の――」

「ゼルが教えてくれたんでしょう?――血のつながりは、愛情に何のかかわりもない。血が繋がっていても愛のない親子もいれば、血が繋がっていなくても愛のある親子もいる。……だから、私も、寂しくなんかないよって」

「それは――そうですが――」

「じゃあ、パパとゼルが、私の『家族』だよ。世界で一番大事で、ずっと、ずぅっと一緒にいたい――誰よりも『大好き』な、二人だよ。……どっちか一人だけ、なんて決められない」


 不服そうに口を尖らせた後、アリアネルは下から覗き込むようにゼルカヴィアを見上げる。

 吸い込まれそうなほど大きな竜胆の瞳が、まっすぐに見つめていた。


「魔族の皆も、本当は全員大好きだから、順番なんて付けられないけど――どうしても、っていうなら、やっぱり、パパとゼルは特別だよ。……あ、『お兄ちゃん』も、特別だった!……三人になっちゃった……」


 むぅ、と唸りながら考え込むアリアネルに、ゼルカヴィアは疲れたような吐息を漏らす。

 どうやら、この少女は冗談を言って揶揄っているつもりはないようだ。


「私ごときが、魔王様と同列に語られて良いはずがないでしょう。まして、”影”など論外です。……『大好き』は魔王様のために取っておきなさい」

「え、やだよ。パパもゼルも、同じくらい大事だもん。『お兄ちゃん』にだって、久しぶりに会いたい」


 一人で寝られるようになってからというものの、新月の夜にアリアネルの面倒を見なくてよくなったゼルカヴィアは、”影”を置いて行かなくなってしまった。

 父が魔法の訓練に連れ出してくれることが多いおかげで、寂しさを感じることは少なくなったが――あの金色の髪をした人間のような青年に、心の奥に巣食う不安と寂しさを打ち明け、『家族』だと受け入れてもらえた経験は、アリアネルにとって何よりも大切な思い出になっている。

 魔王も、ゼルカヴィアも――アリアネルが一方的に家族だと認定しているだけだ。彼らが自らアリアネルの家族を名乗ったことはない。

 だから、『お兄ちゃん』だけなのだ。

 アリアネルのことを、自分から『家族』だと認めて、優しく受け止めてくれたのは。


「全く、聞き分けのない……わかりました。それでは、その三名にだけ『大好き』と告げることを許します」

「本当!?」

「ですが、それ以外には駄目ですよ。特に、男には駄目です」

「?」

「今後、貴女の体質をどうにかする手立てが見つかって、学園に入ってからはもちろん――魔界にいる間も、不用意に男の魔族に『大好き』などと言って愛嬌を振り撒いてはいけません」

「え……オゥゾにも?」

「当たり前です。最もしてはいけません」


 昼間の、犯罪臭しかしなかった光景を思い出し、ビキッと額に青筋を浮かべる。


「ミュルソスは?」

「駄目です。……アレも、貴女と会えばすぐに金を生み出して――外から見ていると、幼女と金でつながる不埒な大人にしか見えません。駄目ですよ」

「でも――」

「貴女は、『ありがとう』と『大好き』をセットにし過ぎです。他人をそう簡単に信用してはいけません。……これからは、人間界に行くのです。魔族を滅ぼさんと日夜鍛錬を積んでいるような、そんな連中ばかりの世界に行くのですよ。いくら魂が綺麗だからと言って、無防備でいてはいけません」

「ぅ……は、はぁい……」


 敵地での振る舞いについて窘められれば、今日の不甲斐なさを思い出してしまい、素直に頷くしかない。


「さぁ、今日は疲れたでしょう。もう一度眠りなさい」

「だ、大丈夫だよ。まだ夜じゃないし、もうだいぶ元気になったし――今日は、お勉強も、訓練も、何もしてないから――」

「今からする、と?全く……勤勉なのは何よりですが、無理をしてまで行うことではありません。ここは魔界で、私は魔族です。治天使の力を借りる癒しの魔法を使えるのは、貴女と魔王様しかおらず――聖気のないこの地では、大した効果はないでしょう。脆弱な人間らしく、身体を休めてしっかりと回復させなさい」


 言い聞かせながら、無理矢理アリアネルをベッドに入れて布団をかぶせる。


「ついこの間までは、魔界の瘴気に当てられて虫の息になっていたと思ったのに――今度は、聖気に当てられて倒れるとは……人間の成長と言うのは、早いものですね」

「もう……私、九歳になったんだよ。いつまでも子供じゃないんだから」

「子供ですよ。たった、九年。――九年、です」


 無理やりベッドに入れられて不服そうな顔をする少女の頭を撫でながら、ゼルカヴィアはポツリと呟く。

 アリアネルがここへ来てから、思い返せばまるで瞬きするような速さだった。


(人間の平均寿命は、どれくらいでしたか……たしか、百年も生きられないはずでしょう)


 初めてアリアネルをこの腕に抱いたあの日から、一つ瞬きをしただけで、今日までの時が流れたのだとしたら――

 ――あと十回も瞬きをしたら、この少女は、太陽のような眩しい命の灯を、あっさりとかき消してしまうのだろうか。


「ゼル……?」

「何でもありません。……さぁ、おやすみなさい。今日は新月です。日が暮れるまでに私は行かねばなりませんから、早く眠ってしまうのですよ」

「……『お兄ちゃん』に逢える?」


 ちらり、と布団の中から目だけを出して期待に瞳を輝かせる少女に、苦笑しながらポンポンと頭を撫でる。


「もう子供じゃない、と言ったのは貴女でしょう?大きくなった貴女に、もう”影”は必要ありません。何より――貴女は今からぐっすり眠るのです。……ぐっすりと」


 ぽん……ぽん……と一定の速度でリズムを刻む優しい手は、夜泣きが酷かった時代からずっと、彼女をあやして寝かしつけてきた熟練の手だ。

 穏やかな手つきに、自然と瞼が重くなり、ゆっくりと大きな竜胆の瞳が閉じられていく。


「おやすみなさい、アリィ。良い夢を」


 完全に瞳が閉じられて寝息が響くのを確認してから、最後に一つ、額に口付けを落とし、上級魔族はそっと部屋を出ていった。

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