第65話 親心④
いつだって、オゥゾが見てきたのは、恐怖と絶望に引き攣る人間の顔だけだった。
食事のために人間界に降りれば、魔法で炎に包むだけで、恐怖と絶望は一瞬で伝染していく。
その元凶たるオゥゾを見れば、人々は一様に恐怖し――時には醜く抵抗して――灼熱の業火を前に、なす術がないと悟ると、絶望し、醜い絶叫を上げながら命を落としていった。
人間にとっては長い歴史の中――何度も人間界に舞い降りては災厄を振り撒く炎の魔族の噂と伝承はあっという間に広がって、今では姿を現すだけで『炎の魔族だ』と言って人々が逃げまどう始末だ。
(……いや。魔族だって、そうか。俺に普通に接するような奴は、城の中じゃ、魔王様とゼルカヴィアさんと、ルミィくらいだった)
アリアネルと交流をする前の時代を思い出せば、城で働く魔族たちも皆、戦闘力に特化した能力を持つオゥゾを、心のどこかで恐れているようだった。
そもそも、当時は職務上関わりのない魔族同士が気安く言葉を交わすことなど無かったせいもあるだろうが、オゥゾが纏う威圧感に、誰も彼もが彼を遠巻きにして、腫れ物に触るように接してきた。
それを、違和感に思ったことなどない。
自分は上級魔族であり、魔王の率いる戦闘員としては、それこそがあるべき姿だとすら思っていた。――誇っていた、と言っても良いかもしれない。
ただ一人、自分の能力を打ち消し互角に戦うことが出来るルミィだけは互いに憎まれ口をたたき合う仲だったが、それでよかった。
馴れ合いなんか、いらない。
背中を預けられる戦友は、ルミィ一人いれば、十分だ。
もしも、自分が道を誤れば――
それ以外の存在など、いてもいなくても構わぬくらいの、取るに足らぬ脆弱な存在だと見下していたのに――
『こんにちは!……アリィはね、アリアネルって言うの!よろしくね!』
今でも、初めて出逢ったときの、信じられないくらい愛くるしい幼女の姿を思い出せる。
「ホント……怖いもの知らずにも、ほどがあるだろっつの」
懐かしい日を思い出しながら、眠る少女の髪をそっと撫でて呟く。
陽の光が差さないこの魔界で、太陽みたいに眩しい笑顔を向けた、元気いっぱいの幼子。
魔法など使うまでもなく、指先一つで縊り殺せるほどの脆弱なその存在は――オゥゾに向かって、今まで誰も向けたことがなかった感情を目一杯ぶつけてきた。
それは――信頼と、親愛と、疑いようもないくらいまっすぐな、好意。
『お兄ちゃんとお姉ちゃんが、アリィと一緒にお風呂に入ってくれるの?ありがとう!』
まるで、愛されるためだけに生まれて来たのではと思うほどの愛くるしい外見と笑顔で、感謝の意まで示すと来た。
こちらが拒絶することなど考えていない、と思うくらいの、全身で信頼を示してくるのには、ただひたすらに困惑した。
だが、常に浮かべられている少女の笑顔は、目が潰れそうなほど眩しくて、大嫌いな聖気を身に纏って近づいてくるくせに、遠ざけることなど考えられないくらい、可愛らしくて、愛しくて。
『ぅ……ぜるのお部屋で入ってたお風呂より、おっきくて怖い……ねぇ、お兄ちゃん。アリィのこと抱っこして?』
上目づかいで頼まれて、断れるはずがなかった。
すぐに抱き上げてやったら、嗅いだことがないくらいの、めちゃくちゃに良い匂いがした。肌はすべすべで、ぷにぷにで、永遠に触っていたい手触りだった。
一緒に風呂に入ってやると、キャッキャと嬉しそうに笑い声をあげるから、ルミィと一緒に擽って揶揄ってやったらもっと嬉しそうにしていた。
『今日はありがとう!明日も、よろしくね!』
小さな手を振って風呂を出ていくアリアネルを見て、翌日も同じ時間が来るのかと思ったら、召されるかと思うくらい幸せだった。
『あ!アリィのことは、アリィって呼んでね。……お兄ちゃんとお姉ちゃんのお名前は?』
人間ごときに支配権を渡す名前を教えるなど、常識では考えられなかったが、邪気ゼロの無垢な笑顔で問いかけられては、拒否する理由などどこにもなかった。
もし、この幼女が危険な目に遭って、自分の名前を呼んで助力を乞うたら、拒否するなどありえない。魔法の力を貸すどころか、
「勇者――だっけか。気に入らねぇな。俺たちのアリィに……」
すやすやと寝息を立てるアリアネルの顔を見ながら、ぼそり、と昏い声で呟く。
部屋に入ってきたときのアリアネルの様子は、見たことがないくらいに苦しそうだった。蒼い顔で、ゼイゼイと息を荒げながら――それでもオゥゾに心配をかけまいと、必死に身を起こそうとした健気さを思うと、愛しさが募る。
だが、その分、愛しい存在を苦しめた元凶に対しては、これ以上ない憎しみが募るのも事実だ。
「……殺すか……?」
純粋な戦闘力だけで言えば、オゥゾは魔王の配下の中ではトップクラスだ。特に、魔法を用いた戦闘では敵なしと言えるだろう。
序列が高いゼルカヴィアと言えど、通常の戦闘であればオゥゾに負けることはないだろうが、オゥゾにしか使えない強力な攻撃を繰り出せる固有魔法を用いて良いという条件下で、魔法の打ち合いのみという制限を付ければ、どちらが勝つかはわからない。
オゥゾと真正面から魔法のみで戦ったとしても彼を容赦なく圧倒できるのは、魔王だけだ。
所詮人間に過ぎぬ『勇者』など――例え、瘴気が乏しい人間界で戦闘になったとて、後れを取るとは思わない。
「そうすれば、アリィはもう人間界になんか行かなくてよくて――こんな風に、苦しんだりしなくていいんだろ……?」
そう思うと、それが最適解のようにすら思えてくる。
すぅっと視線を鋭くして、昏い影を背負いながら呟くのは、アリアネルが見たことがない、本来の『炎の魔族』オゥゾの姿だ。
一瞬、本気で
「ん……パパ……」
「!」
うなされるように呟いた少女の言葉に、ハッとする。
「パパ……ゼル……」
「……アリィ……」
見ると、玉のような汗を額に浮かべて、苦しそうに譫言を繰り返している。
その身体からは、再び仄かに清らかな聖気が放たれているのがわかった。
(……そっか。アリィにとっちゃ、勇者のところに潜り込んで任務を達成するのは、魔王様とゼルカヴィアさんのために出来る、唯一のこと――きっと、何よりやり遂げたいことなんだよな)
例え、他者から見ればただのまだるっこしい茶番のように思えても、それは魔王がゼルカヴィアに命じた勅命であり、それを遂行するのはアリアネルだ。
アリアネルはそのために拾われ、そのために生かされてきた。
(あの魔王様のことだ。今は『娘』として扱ってても――生かす価値がないと思ったら、あっさり命を奪ったとしても、おかしくない)
冷酷非道な絶対零度の王者の視線を思い出し、ぶるり、と背筋を震わせる。
そっ……とうなされるアリアネルの額の汗を拭ってやった。
「大丈夫だ、アリィ。きっと、お前なら出来る」
彼女の役割を奪ってはいけない。――魔王は、己が他者に定めた役割を遂行させることを、絶対の掟にしている。
愛しい小さな命を守るため、込み上がった昏い衝動を飲み込んで、そっと頬を撫でる。
幼女のころとは少し手触りが変わったが――それでも十二分にすべすべで、柔らかな愛しい手触り。
「大好き――か」
いつもアリアネルが笑顔で繰り返す言葉を思い出し、ふっと口の端に笑みを刻む。
確か――その感情を伝えるための表現を、少女が昔、教えてくれた。
「アリィ。――俺も、アリィが、大好きだぞ」
言いながら、ちゅ、と音を立てて頬に口付けを落とす。
すると、うなされていたアリアネルの顔がふっと緩んで、微かに笑みの形を作った。
(あぁ――可愛いな。最高に、可愛い)
人間たちが口にする恋愛という感情は理解できないが――これが、『愛しい』という感情なのだろうか。
「可愛い。――アリィ。可愛い。大好きだ」
ちゅ、ちゅ、と調子に乗って、頬に、額に、首筋に、何度も何度も口付ける。
くすぐったかったのか、眠ったまま笑みを漏らして身じろぎするのがまた、可愛らしくてたまらない。
口付けるたびに香しい匂いを嗅げることも相まって、至福の時間を堪能していた、その時だった。
ゴッ――!
「っ――!!?」
魔法――ではなく、純粋な魔力の塊を横手からぶつけられ、思わず座っていた椅子から転げ落ちる。
「な――!!?」
信じられないほど特濃な魔力塊は、衝撃波に近いそれだった。
驚きに泡を食って、慌てて体を起こして――ギクリ、と身体が固まった。
「オゥゾ――貴様――!アリアネルに何を――!」
「ゼっ――ゼルカヴィアさん――!?」
扉を開け放ったままだったせいで、そこに上司がやってきた気配に気付かなかった。
自分が生きてきた数千年――未だかつて見たことがないくらいの本気の怒りを背負った黒ずくめの最上位魔族が、そこにいた。
「返答次第では、問答無用でぶっ殺しますよ――!」
完全に目が血走って据わっている。
それもそうだろう。
きっと、ゼルカヴィアが見たのはこの部屋でのやり取りの最後だけ――オゥゾが、眠って意識のないアリアネルに向かって『大好き』『可愛い』と言いながら何度も口付けを繰り返す姿だけだ。
アリアネルの保護者筆頭のゼルカヴィアにとっては、とても許容できるような事象ではない。
「ちょ、待っ――待て待て待て!!!待ってくれ!!!誤解だ!!!」
「黙りなさい!今の行動の、どこに、誤解の入り込む余地がありましたか!!!?」
「ほ、ほほほ本当に誤解だ!!!別に俺は、アリィに不埒なことを考えたわけじゃ――」
「この害虫が――!貴様ごときが、馴れ馴れしく彼女を愛称で呼ぶな、ウジ虫野郎――!」
「口調変わってんじゃねぇか!怖ぇよ!!!」
子煩悩な最上位魔族を説得するのは骨が折れるが、名前を知られている上に序列が上のゼルカヴィアに敵うはずがない。
命が惜しいオゥゾは、娘にちょっかいを掛ける外敵とみなして敵意をむき出しにしてくる親馬鹿な上司を相手に、必死になって弁明を繰り返したのだった。
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