第81話 編入初日⑤
魔王は、目当ての扉の前まで来ると、口の中で一つ舌打ちをした後、おもむろにドアノブに手をかけた。
「入るぞ」
この城の主たる魔王が、入室を拒否されるような場所などありはしない――傍若無人とも思える振る舞いも、彼を至高の存在と戴く魔族しか存在しないこの世界では常識だ。
だが――
ガチンッ
耳障りな音を立てて入室を阻んだ分厚い扉を前に、ピクリと綺麗な眉がひそめられる。どうやら、扉に鍵がかかっているらしい。
「この俺を締め出そうとは言い度胸だ。開けろ」
舌打ちをしながら苛立たしく室内の少女へと声をかける。
第三位階に属する封印の天使の魔法を使えば、魔王の前に扉の鍵など意味を成さないだろう。
だが、それでは駄目だ。――アリアネルが、自身の意志で魔王を拒絶し、退けたことを容認したことになってしまう。
「……ごめんなさい」
束の間の沈黙の後、部屋の中から返って来たのは、魔王の予想に反する返答だった。
今にも消え入りそうな震える声で、少女はたどたどしく想いを告げる。
「今……どんな顔をしたらいいかわからないの……」
「一体何を――」
「ごめん。……ごめんね、パパ。きっと、明日には、ちゃんとするって約束するから――」
扉越しに聞こえるくぐもった声は、か細く震えている。
どうしようもなく苛ついて、周囲に聞こえるほどにもう一度大きな舌打ちを残した後、魔王は踵を返した。
「勝手にしろ」
「ごめんなさい……」
大股で去り行く気配に、少女の弱々しい声が追い縋るように謝罪を述べた。
取り合うことなく、一度たりとも振り向かず、魔王はギリッと音を立てて奥歯を噛みしめて廊下を歩きながら、己のこめかみへと指をあてる。
「
この、煩わしい苛立ちを解消できる唯一の存在へと語りかけながら、魔王は耳に残る少女の泣きそうな声を振り払うように足早に城内を歩いて行くのだった。
◆◆◆
「それは魔王様が全面的に悪いですね」
魔王直々の命令にどんな緊急事態かと音速で仕事を切り上げ焦りながら戻ってきたゼルカヴィアは、事態のあらましを聞いた途端、半眼でズバッと主に物申す。
ピクリ、とこめかみが不愉快そうに動いた後、魔王は鼻の頭に皺を寄せて呻くように口を開いた。
「何がいけなかったというんだ」
「何が、というか――全部、ですね」
返す刀で斬って捨てるように言い切って、やれやれと頭を振る。
どうやらこの主は、全く事態の本質を理解していないらしい。
「アリアネルが帰ってきたときに謁見の間にいたのは、色欲の魔族イアスでしょう」
「そうだ」
「そして――“食事”の最中だった、と。お間違い無いですね?」
「あぁ。……長期に渡って、配下の飢餓に苦しむ下級魔族らを養ったのだ。中級でありながら、決して理性を失うことなく、役目を果たした。その仕事に報いる褒美を与えると言ったら、俺の聖気混じりの瘴気が喰いたいというから、食わせてやった。それだけだ」
「はぁ……状況に関してはわかりました。そして、あの悪食な淫乱魔族の“食事”風景についても、察しがつきます」
げんなりと呟いて、ゼルカヴィアは最後に見たイアスの姿と性格を思い出す。
イアスは、男の色欲を司る魔族だ。
人間の男を誑かし、欲情させて、瘴気を貪る。
その性質上、無駄に露出度の高い衣装を着て、男を誘惑する術に長けている魔族だ。
(魔王様は体内で瘴気を聖気に変える特殊な能力をお持ちのお方……そういえば昔、極上の瘴気の中にスパイスのように聖気が滲む魔王様の特殊な“気”は、世界でまたとない味だから、最高のご褒美だ――などと言っていましたね。五十年近く会っていないので、忘れていました)
魔族にとって、聖気は明確に毒だ。上級になるほどに耐性がつくのは事実だが、基本的に身体に悪いものであることに変わりはない。
劇薬にも等しいそれを“スパイス”などと言って楽しむ悪趣味な感覚は、イアスの悪食を象徴している。
「どうせ、魔王様のことですから、勝手に貪る分には構わない――などと言って、イアスに好きにさせたのではないですか?」
「よくわかるな」
「伊達に万年もお傍におりません」
頭痛にも似た感覚に、額を追って呻く。
「まさかとは思いますが――流石に、人間の雄がそうするように、イアスと交わったりはしていませんよね?」
「するわけがないだろう。瘴気を摂取する口腔内であれば、取り込んだばかりの瘴気と体内で変換される聖気とが混ざり合っているだろうから、イアスにも”スパイス”などと言って楽しめる余地もあるだろうが――それ以外の俺の分泌液は全て、聖気で満ちている体内から生成されることになる。第一位階の天使が活動の源とするような純度の聖気が含まれるそれらは、スパイスなどという域を通り越して、イアス程度の中級魔族には猛毒でしかない」
「それはもちろんわかっていますが――あの淫乱魔族なら、食事行為の一環としてやりかねないと思っただけです。ホッとしました」
数を増やすために人間のような繁殖行為を必要としない魔族は、恋愛や性愛という感情が存在しない。
だが、色欲を司るイアスは別だ。
人間の男から瘴気を得るために、人間の男と性行為をして瘴気を貪る。
魔族の食事方法を考えれば、性行為中に腰を振る男から立ち上る瘴気を摂取すれば十分事足りるはずだが、彼女はなぜか捕食対象と体液を交換したがる変態だ。
そこに快楽を見出す性格の方が効率良く瘴気を集められるためにそう造られたのだろうと察するが、一般の魔族から見れば、愚かな種族との性行為を楽しむ奇人にしか思えない。
(魔王様と交わり、この崇高な御方の精液を摂取できるとあれば、そこに含まれるのが己にとって猛毒の聖気だけであると知っていても、あのど変態は興奮のあまり腹上死を選びかねませんからね……とはいえ流石に、そこまでの無礼をこのお方がお許しになるわけがありませんが)
今回の彼女の仕事の成果を見ても、中級魔族にしてはよくやった、という程度でしかなく、何か魔界の存続に関わるような危機を退けたりしたわけではない。
(となると、精液の接種以外で、イアスが褒美としてギリギリ魔王様から許していただける程度の体液となれば――)
「口付けをしているところを見られた、というところでしょうか。それも、イアスの性格から察するに、かなり濃厚なやつを」
「口付け――そんな認識はない。ただの食事だ。イアスが勝手に俺の口内の瘴気を味見しにきただけだ」
「いえ、魔王様のご認識などこの際瑣末な問題です。要は、アリアネルからどう見えたか?という観点が大事なのですから」
きっと、魔王の言葉に偽りはないのだろう。
イアスが褒美として五十年ぶりに味わう極上の食事を前に、興奮を隠しきれない様子で貪るように魔王の口腔を堪能したことは想像に難くないが、その間の魔王の表情はいつも通りの無表情だったに違いない。
人間の国で、王が家臣に褒美として財宝や地位を与えるのと同じように、そこには労い以上の感情など微塵も籠っていなかっただろう。
「いいですか、魔王様。……アリアネルは、まだ恋愛すらよくわかっていない子供です」
「……それがどうした」
「彼女の中で恋愛と言えば、絵本の中に出てくるおとぎ話で知識は止まっているのです。いつか、自分の元にも運命の王子様がやって来てドラマチックに求婚してくれる――そんな風に考えていても、私は何も驚きません」
学園を見学に行ったときの、周囲の男子生徒からのあからさまな視線にすら全く気付かなかったアリアネルを見て、確信した。――この少女は、恋愛事にはまだまだ疎い純粋な子供なのだと。
「彼女の中では、愛し合う男女の交際などという知識すらあやふやでしょう。憧れの人物から求婚をされ、受け入れれば、キスをして結ばれる――結ばれた先に、どういう爛れた行為が行われるかなど、知る由もありません。おとぎ話の中に出てくるキスは、愛が成就した証の美しく清らかなもの。いわば、彼女にとっての憧れの象徴です」
「……だから、それがどうした」
「それを、大好きな”パパ”が、見知らぬ女に許していたのですよ?――それも、清らかとはかけ離れた、酷く汚らわしい行為の象徴としての濃厚なものを」
「――――……」
ぎゅっと魔王の眉間に深いしわが寄る。
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