第82話 編入初日⑥

 むっと難しい顔をした魔王を前に、ゼルカヴィアは諭すようにして口を開いた。


「アリアネルが驚くのも無理はありません。大きなショックを受けたのでしょう。……魔王様はご存じないかもしれませんが、アリアネルは幼い頃、初めて貴方を見た時からずっと、その金髪と蒼い瞳を見て『王子様みたい』だと興奮して目を輝かせていたんですよ。……まぁそれは今も割と変わっていませんが」

「……フン」

「幼いころから一体何度、『アリィ、大きくなったらパパと結婚するの!』と聞かされたことか……純白のウエディングドレスを着た自分と魔王様の下手くそな絵を描いて私の元へもってきては、『ぜる、見て!あのね、あのね』と彼女の理想の結婚について語られたものです」

「――――……フン」


 ギッ……と身じろぎと共に魔王が腰掛ける椅子が音を立てる。鼻を鳴らすだけの表情は、いつも通り詰まらなさそうなまま変わらないが、長い付き合いのゼルカヴィアにはわかる。

 ――どうやら、まんざらでもないらしい。


「彼女にとって、結婚とは、『家族になること』と同義です。恋愛の延長線上にあるものではなく、愛しく大切な家族になってほしい相手と交わす尊い約束だと認識している節があります。……耳に胼胝が出来るくらいに聞かされた、彼女の理想の『結婚』はいつも、幼い子供の多くが語るような結婚式の風景ではなく――魔王様が、いかに自分に優しくしてくれるようになるか、愛して、大事にしてくれるようになるか。そんなことばかりが焦点になっていました」


 まだ三歳かそこらの少女の主張に過ぎないが、アリアネルが語る魔王にしてほしいことは全て、将来の夫にしてほしいことではなく、『父親』にしてほしいことが多かったように思う。

 頭を撫でてほしい。抱き上げてほしい。たわいのない言葉を交わしたい。そして何より、優しく笑って、名前を呼んで、世界で一番大好きだと言ってほしい――結婚したら、きっと、あの厳しい魔王も、毎日そうしてくれるはずだ。

 それが、アリアネルの主張の大半だったと思う。


 ゼルカヴィアからすれば、魔王は天地がひっくり返っても決してそんなことはしてくれない、と断言したくなる主張ばかりだったが、幼い少女の無垢な夢を大人が残酷に引き裂くこともないだろう――と思い、ハイハイと聞き流していた。

 まさか、先日十歳の誕生日を終えた少女が、まだ当時と全く同じ価値観で生きているとはさすがに思わないが、アリアネルが魔王に望んでいることの根底は変わっていないだろう。


「アリアネルからすれば、憧れが詰まった”王子様”みたいだと思っていた魔王様が、半裸のふしだらな女とよろしくやっているところを見てしまったわけです。父親の、親ではなく雄としての一面を見てしまった――そう思えば、子供のショックは計り知れないでしょう」

「よくわからない感覚だ」

「魔王様にそうした感覚がわからないことは重々承知していますが、そういうものなのです。父子家庭で育ってきた幼い子供が、母親ではない見知らぬ女を家に上げて乳繰り合っている父親を見たと想像してください。驚愕するか、軽蔑するでしょう。そういうものです。この私だってそんなところ見たくはありませんよ」


 頭が痛い、と言わんばかりにため息をついてゼルカヴィアは頭を振る。

 思春期に差し掛かろうとしている難しい年ごろの少女に、ただでさえ文化的背景の異なる魔族の常識をもう一度かみ砕いて伝え、今回の件が起きてしまった経緯を伝え、簡単な性教育も施しながら、少女の心を慰めろというのか。

 上司の無茶ぶりが過ぎる、とため息の一つも吐かせてほしい。


「俺には、どれだけ説明されても、その感覚はわからない。……親、という存在がよくわからないからだ。俺を造ったのは造物主だが、あの存在にそういう親しみに似た何かを覚えたことはない」

「それはまぁ――魔王様の場合は、そうでしょうが」


 魔王と造物主の特殊な関係性を思い出し、ゼルカヴィアは鼻の頭に皺を刻む。


「俺が造った魔族も天使も――子供、という感覚はない。いつぞや、あの人間にも告げたが、せいぜいが仕事をする上での部下、という程度の認識だ。駒、と言ってもいい」

「……その部下の一人を前にして随分と辛辣な物言いですねぇ……」


 駒呼ばわりされたことに苦笑しながらゼルカヴィアは自嘲する。そういう性格だと知っているから、今更どうとも思わないが、そんな魔王のことを初対面の時から『優しい』と言って憚らないアリアネルは稀有な存在と言っていいだろう。


「もしも、これを言ってきたのが他の魔族であれば、下らないと切って捨てるだろう。そんな感情を造った記憶はない。長い時を生きる中で異質な性質が芽生えたのだとすれば、今後、イレギュラーが起きやすくなる。要観察リストに名前を連ね、おかしな行動をしないか監視するくらいだ」

「でしょうねぇ……」


 どうやら、魔王に『父と子』の関係を理解してもらおうというのが間違いだったらしい。

 ゼルカヴィアはもう一度特大のため息を吐く。

 一体、自分は何を期待していたのだろうか。

 この孤高の王が、そんなものに理解を示すことなど、天地がひっくり返ってもありはしない――そんなこと、誰よりも一番、よくわかっているのが、他でもない自分だと言うのに。


「まぁいいです。わかりました。つまりは私に、アリアネルの機嫌を取って、誤解を解いて、余計なことを考えるなと、己の役割を果たすことだけを考えろと、そう理解させて来いと、そいういうことですね?」


 額を覆いながら、げんなりとした声で、やや棘のある口調で告げる。

 面倒ごとを押し付けられることには慣れたものだが、どうにもやり切れない想いがあるのは、何故だろうか。


「平たく言えばそういうことだ」

「ですよね。ハイ。ワカリマシタ」


 端的過ぎる命令を、半眼になりながら拝命する。

 これ以上の問答は無意味だろう。さっさと退室してアリアネルの部屋に向かった方がよほど建設的だ。

 そう考えて踵を返したゼルカヴィアの背中に、魔王の声がかかる。


「――ゼルカヴィア」

「はい……?」


 まさか呼び止められるとは思わず、ゆっくりと振り返る。

 夜が近づき暗くなった部屋の中、魔王の顔はあまりよく見えない。


「俺には、『親子』だの『家族』だのといった概念は理解が出来ない。魔族も天使も同様だ。俺が命を与える時に、そうしたシステムを造らなかったのだから、当然だが」

「それはもうお聞きしました」


 無駄を嫌う魔王が、同じことを重ねて言うのは珍しい。

 怪訝な顔で返すと、魔王はゆっくりと頬杖をついてため息に乗せながら言葉を吐いた。


「だが――お前だけは、違うだろう」

「――――……」


 しん……と昏い部屋の中に一瞬、沈黙の帳が降りる。


「この魔界で唯一、『親子』や『家族』の概念を理解しうる存在だ。……あの子供の不可解極まりない感情を理解することが出来るのは、この魔界にはお前しかいない。……だから、俺はお前に頼んでいる」

「…………」

「そうでなければ、多忙なお前を人間の子供の養育係になど任命しない」


 ゼルカヴィアは、魔王の信頼する右腕だ。最上位魔族としての力を持つ優秀な魔族にアリアネルの育成を任せたのは、何も気まぐれではない。

 それは――ゼルカヴィアにしか出来ないことが、あるから。


「そう言っていただくのは……嬉しいかと言われれば、正直あまり嬉しくはないですが、まぁ、わかりました。命令として、きちんと拝命いたします」


 嘆息して告げてから、ゼルカヴィアはドアノブに手をかける。


「ですが、きっと、アリアネルは――」

「……?」


 不敬だとわかっていても、ゼルカヴィアは魔王に背を向けたままで小さく口を開く。

 

「私にではなく――きっと、魔王様にこそ、その感情を『理解』してほしいのだと、思いますよ」

「……」

「……失礼します」


 短く告げて、滑り出るように部屋を退室する。

 パタン……と小さな音を立てて、執務室の扉が閉まった。

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