第80話 編入初日④
慣れ親しんだ魔王城に帰ってくると、やはり呼吸が随分と楽になるのを感じる。
アリアネルは、道行く魔族に魔王の居場所を尋ね、謁見室にいると回答をもらうと、着替えもそこそこに魔王城を早足で駆けていく。
(今日は、パパに沢山、お話が出来る……!治天使の加護を持つ女の子マナリーアの話、命天使の存在が人間界では全くなかったことにされている話、学園で配られた天使の一覧表と――『記録石』の話も!)
ぎゅっと魔王に見せるために持参した教材を握り直した後、ポケットに入れた小さな鉱石の存在を確かめる。
入学した特待クラスの生徒全員に、一つずつ配られる小石程度の大きさの魔晶石――以前の試験で使われたものなどよりも遥かに純度が高く創られたそれは、かなり高位の魔法を閉じ込めることが出来る魔晶石だそうだ。
それを、生徒たちは通称で『記録石』と呼ぶ、と教えてくれたのはマナリーア。
第二位階に属する光を司る天使の魔法を使い、石の中に”光景”を静止画として閉じ込め、解放と共に宙に静止画を浮かび上がらせる使い方をされることが殆どだから、とのことだった。
(すごいよね……まず、光の魔法で石の中に切り取った光景を静止画として封じ込めるっていう発想が凄いけど――それを軍事転用するっていう使い方も。……まぁ、学生のうちは殆ど、板書を写すことに使われるっていうのは呆れちゃったけど)
聖騎士として、魔族の討伐に赴く際、彼らは当然陣形を汲んで軍事作戦行動をとる。相手が人間か魔族か、という違いがあるだけで、聖騎士にとってそれは戦争と何ら変わりがない。
軍事作戦に置いて、情報は宝だ。伏兵が潜む位置も、奇襲のタイミングも、周到に張り巡らせた罠の箇所も、補給部隊と落ち合う場所も――何もかも、敵に知られては全てが無に帰す重要な情報ばかり。
そのため、同じ作戦行動をしている者同士が一糸乱れぬ連携をするために、この小石程度の『記録石』と呼ばれる石の中に、軍事機密を潜ませて行軍するのだそうだ。
魔族は、天使の力を借りた魔法を使えない。
故に、仮に軍事機密が封じ込められた『記録石』が奪われたとしても、中身を覗くことは不可能であり、機密は永遠に守られる。
人間を相手取ることのない聖騎士の特性を逆手に取った、愚かで脆弱な人間故の、こざかしい知恵だと、魔王は嗤うだろうか。
(でも、王都の神殿には、魔水晶がいくつも保存されてて、それには静止画じゃなくて、映像が残せるって言ってた……それって、本当にすごいことだよね)
魔王もゼルカヴィアをはじめとした魔族も、皆一様に人間を「愚かだ」と断じるばかりだが、長い時を生きる彼らが気づかぬうちに、意外と人間は凄まじい速度で進化を遂げているのかもしれない。
万が一のことが起きる前に、大好きな彼らに警鐘を鳴らす役割を自分が担えると言うのなら、それは何よりの喜びだ。
アリアネルは、逸る気持ちを抑えながら、何度も訪れたことのある謁見室に続く前室の扉をくぐる。
薄暗い前室の奥には、いつものようにキラキラと眩しい豪奢な謁見の間が広がっているはずだ。話し声は特に聞こえないが、謁見室に人の気配はある。魔王はまだここにいるのだろう。
「パパ!」
アリアネルは、いつものように勢いよく広間へと駆けだした。
無数のシャンデリアの灯りに照らされキラキラと輝く黄金の髪を持つ父が、いつものように澄み切った蒼い瞳をこちらへ向けてくれることを疑いもせずに――
「――――――え――?」
暗がりから一点、眩さに視界が一瞬眩んで――飛び込んできた光景が信じられず、茫然とした声が漏れる。
いつものように玉座にゆったりと腰掛けている長い脚は、まぎれもなく魔王のものだろう。
だが、その膝の上に――半裸の女型の魔族が馬乗りになる形で、魔王にしなだれかかっている。
背中の中央あたりから生えている翼の形状を見るに、蝙蝠の要素をかけ合わされた中級魔族なのだろうか。艶めかしい白い柔肌から不気味な漆黒の翼が生えているアンバランスさは、普段であれば何より目を引いただろうが、今はそれ以上に目を引くことがある。
「――――」
バサバサッ
声にならない声とともに、魔王に見せようと手にしていた資料が滑り落ち、磨き抜かれた大理石の床に散らばる。
その音にやっと、黒い翼を持った魔族がゆっくりと振り向いた。
魔王の膝に乗り上げた状態のまま――食事を堪能するように貪っていた唇を離して、ゆっくりと。
「……空気の読めない無粋な小娘ね?」
真っ赤なルージュが引かれた唇が、つぃっと皮肉気に歪められる。
むせ返るような妖艶な色香を纏った女魔族は、アリアネルの姿を見て小馬鹿にしたように一つ笑った。
「帰ったのか。ゼルカヴィアは――あぁ、遣いに出していたか。どうりで、
濃厚な男女の睦み合いを目撃されたと言うのに、魔王はいつも通りの涼しい顔で、女を膝に乗せたまま言ってのける。
「?……どうした」
「っ……」
少女の喉の奥で、声にならない何かがつっかえて、奇妙な音が漏れる。
いつものように感情を映さない蒼い瞳を向けられて――アリアネルは、そのまま象牙色の髪を翻して踵を返し、その場から駆け出していた。
「まぁ。逃げるの?それとも、空気を読んでくれたのかしら。……ねぇ、魔王様。続きをしましょうよ」
突然の乱入者が入ってきた時と同様の唐突さで姿を消したことなど気にも留めず、雄の本能に直接訴えかけるような甘くねっとりとした声音で語りかけてくる女魔族に、魔王は嘆息して首を振った。
「……興が削がれた。帰れ」
「まぁ。どうして?五十年ぶりの邂逅なのに――」
「――――帰れ。二度は言わない」
魔王がふいっと鬱陶しそうに手を振ると、女は少し詰まらなさそうな顔を向けた後、バサッと漆黒の翼を広げ宙へ浮いて魔王から離れる。
「とっても残念で、名残惜しくはありますが……ご命令とあらば、退きましょう。ご機嫌よう」
床に膝をついて臣下の礼を取った後、流し目を残してから勿体つけるように謁見の間を出ていく半裸の女魔族を見送って、魔王は深くため息を吐いた。
「何だと言うんだ、全く……」
額を覆い、疲れ果てた声を出す。
こういうときに限って、いつも面倒なことを引き受けてくれる右腕がいないことが恨めしい。
見慣れた少女が、嬉しそうな声を上げて前室から飛び出してきた。――それ自体は、いつものことだ。
今日の少女は、見慣れぬ装いに身を包んでいた。――忌まわしい天使を思い出させるような、純白に黄金の刺繍の入ったワンピース姿は、確か、聖騎士を養成するための学園の制服だったと思い出す。
そういえば、今日は朝から一度も姿を見なかった。いつもの茶会もなかった。甘味を食べて嬉しそうにはしゃいで「パパ」「パパ」と五月蠅い声を聴かないのはいつぶりだったろう。――今日は、学園に潜入する初日だったらしい。
「くだらん……相も変わらず、全く思考が理解が出来ん生物だ」
ゆっくりと玉座から腰を浮かしながらぼやく。――便利な右腕が不在の今、自分で動かなければいけないのだろう。
長い脚を踏み出して、入り口へと近づきながら、その床に散らばった紙の束に向かって軽く手を向ける。
魔力の導きに従って、どこからともなく風が巻き起こり、紙束が舞い上がると、寸分違わず魔王の手の中へと納まった。
「学園、とやらで使われている人間界の資料か何かか」
ザッと資料に目を通してから、鼻を鳴らして呟く。
どうやら、健気な少女は帰ってすぐ、着替えるよりも先に、自分の今日の仕事の報告をしようとこの部屋に駆け込んできたらしかった。
「それがどうして、一言も発することなく、勝手に帰ることになる……」
全く以て、理解が出来ない行動をとる生物だ。
(何よりも――いったい、何があの娘を、あんな表情にさせた?)
どうした、と魔王が問いかけたときの、少女の表情を思い出す。
顔面を蒼白にさせて、唇を震わせ――今にも泣きそうな顔で、踵を返した。
いつもは、どれだけこちらが退けても、めげずに太陽のような眩しい笑顔で、しつこく纏わりついてくるくせに。
「チッ……どうして、俺が」
口の中で毒ついてから、魔王は謁見室から足を踏み出す。
仕方がないだろう。
きっと今日は、もう仕事にならない。
致命的に似合わない表情を浮かべて踵を返した少女のことが、ずっとずっと気にかかってしまうだろうから――
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