第222話 封天使①

 岩のように重く冷たい静寂の帳が降りた室内で、厳重に拘束された地天使を前に、”影”は静かに決断をする。

 ぐっと魔剣を握る手に力を込めたその時だった。


《――っ!?》


 驚いた表情で、地天使がハッと顔を頭上へと向ける。無理な体勢で上を仰ごうとしたせいで、ジャラジャラと身体に巻き付く鎖が不愉快な音を立てた。


《天界の――”門”が、開いた!》


「「!?」」


 アリアネルと”影”は同時に息を飲む。


《”門”は神殿の真上にある……!天使がここへやってくるかもしれない!正天使の息がかかった天使なら、其方らを見逃してはくれまい。すぐに逃げろ!》


 一瞬、少女と青年が視線を交わらせて戸惑う間に、室内に魔法が展開される気配が広がった。


「っ、な――!?」

「きゃ――!」


 足元の石床が、サラサラと細かな砂粒へと変化し、流砂のようにして二人の身体を飲み込んでいく。

 大地を司る天使の魔法であることは明らかだった。


《この下は、滅多に人が出入りしない書庫や倉庫ばかりだ。まっすぐ下に掘れば、地下の”門”に続く廊下に出る!すぐに立ち去れ!》


「ぁ、待って、貴方は――!?」


 腰まで埋まった状態で、思わずアリアネルが問いかける。

 少女らが無事に逃げおおせたとしても、地天使が拘束され、無体な扱いを受け続けることは変わらない。


《本当に、優しい子だ。我は大丈夫。……命天使様に、不甲斐ない我が行いを詳らかに伝えてくれ。心よりの謝辞と、変わらぬ忠誠を――》


 哀しい声が響くのを最後まで聞かぬうちに、身体はすっぽりと飲み込まれ、ふっ……と砂の海を通り抜けると同時に、重力の理に捕らわれる感覚が身を包む。


「っ、ゎ!」


 少女は小さな声を上げながら、受け身を取って書庫の床に着地する。見れば、視界の端で青年も危なげなく着地していた。

 慌てて天井を仰げば、ズズズ……と不気味な音を立てながら、砂が再び天井を塞ぐようにして戻っていくところだった。

 おそらく、人間界に来た天使が『天使降臨の間』を訪れたとしても、知らぬ存ぜぬで貫くために、原状復帰をしたということなのだろう。


「お兄ちゃん……ど、どうしよう……」

「どう、も何も……この状況で、これ以上ここに留まるには、リスクが高すぎますね。勿論、地天使が我々を排除するために都合の良い嘘を言ってのけただけという可能性も、無くはないですが――万が一、彼の言葉が真実だった時の方が恐ろしいです。さっさと地下に向かいましょう」

「うん、私も賛成。たぶん――きっと、嘘じゃないよ。私は、信じる」

「全く、貴女は本当にお人よしですね」


 まっすぐな瞳で力強く宣言するアリアネルに呆れたように言いながら、青年はそっと床に手を突いた。


「地天使の今の魔法は、床を一部だけ崩壊させる分には、周囲への影響も少なく無事に逃げられるという示唆でしょう。ここの材質は……石、ですかね。アリィ、魔法で穴をあけられますか?」

「うんっ!……あ、待って。一応、この部屋に消音の魔法をかけるね」


 まずは部屋全体に消音の魔法をかけてから、そっと床に手をついて大地の魔法を発動する。お手本を目の前で見せてもらったのだ。イメージは完璧だった。

 ”影”は周囲を警戒するようにしながら硬い表情でアリアネルのすぐ隣に立つ。

 やがて、二人の足元の床がサァ――と流れるように砂へと変わった。

 地天使が言った通り、下は全て倉庫や書庫といった人の出入りが殆どない部屋ばかりで、幸い、誰かに見つかることはなかった。

 床の材質が石であれば地天使の魔法を、木材であれば花天使の魔法を駆使して、アリアネルは床に穴をあけては修復することを繰り返し、ようやく地下の廊下へとたどり着く。


「ふぅ……ここまで来れば、安心かな」


 消音の魔法も全て解いて、額の汗を拭って一息つくと、”影”はポン、と少女の頭に手を置いて労わりを示した。


「お疲れさまでした。途中、予想外の展開になりましたが、貴女のおかげで、想定以上の収穫を得られましたよ」

「えへへ……そうかな」

「はい。帰ったら、魔王様に褒めてもらいましょう」

「ホント!?パパ、褒めてくれるかな!?」


 キラキラと竜胆の瞳が期待に満ちて輝く。魔王が褒めてくれることなど滅多にないことなので、今から楽しみで仕方がないらしい。


「えぇ、きっと。……ゼルカヴィアからも、魔王様からお褒めの言葉を与えてくださるよう、進言させますよ」

「もしかしてゼルも、褒めてくれる?」

「えぇ、当然です。私はゼルカヴィアと同じ思考をしていると言ったでしょう。この私が、貴女の今日の働きは素晴らしいと認めたのです。ゼルカヴィアもきっと、褒めてくれますよ」


 よしよし、と幼子にするように優しく頭を撫でられて、堪え切れない喜びがあふれ、少女から太陽のような笑顔が溢れた。

 眩しいものを見るように目を細めて、保護者のような柔らかなまなざしを送ってから、青年はくるりと踵を返す。


「さぁ、早く魔界に帰りましょう」

「うん!」


 青年の後について、ぴょこぴょこと嬉しそうに歩く少女は、今から魔王の顔を見るのが楽しみらしい。

 真っ白な大理石で造られた廊下を、来たときと逆方向に進んでいくと、ふと”影”は足を止める。


「お兄ちゃん?どうしたの?」

「これは……ここへ来た時、この扉は、こんな風に青い発光をしていましたか?」

「えっ……?」


 ひょこ、と青年の長身から覗き込むように目的地の扉を見て、アリアネルも驚いた声を上げる。

 白い大理石の壁に設えられた、大袈裟な装飾の巨大な扉は、一度見たら忘れられない。

 だが今は、魔界からこちらへ来た時とは異なり、扉全体――壁の部分にまで侵食するような範囲まで、神秘的な青く光る謎の文字列がびっしりと浮かんでいるのだ。


「何これ……?」

「少なくとも、ゼルカヴィアの知識の中にはありませんね。ということは、人間界か天界に纏わるものでしょう。アリィも、心当たりはないですか?」


 青年の問いかけに、正直にふるふると首を振る。

 

「そうですか。……少し、下がっていてください」

「え?……あっ、お兄ちゃん、危ないよ!」


 青年が得体のしれない状態の扉へと手を伸ばすのを慌てて制止するが、無視された。

 蒼い光が浮かぶ扉に、青年の大きな手が触れた瞬間――


 バチンッ


「わっ!お兄ちゃん、大丈夫!?」

「っ……なかなか、痛いですね」

「ひゃ、大変……!待って、パパに治癒魔法を込めてもらった魔晶石があるから……!」


 顔を大きく顰めて手をひっこめた青年の右手は、火傷したように真っ赤に腫れあがっている。

 ごそごそと腰のポーチから魔晶石を取り出し、呪文を唱えると、清かな光が溢れ、青年の手を癒していった。

 

「天使の魔法というのは、便利なものですね」

「暢気なこと言ってないでっ……これで大丈夫?」


 痛みに顔を顰めながら言う”影”に、少女は顔を青ざめさせながら確認する。過保護な青年は、隙を見せるとすぐにこうして危ない役目を買って出てしまうため、片時も目が離せない。

 興味深そうに掌を裏返したり握ったりしながら感触を確かめた”影”は、問題ないと安心させるようにうなずいてくれた。

 安堵の息を漏らして、アリアネルは青年の後ろにあるところどころ青色に発光する壁を見上げる。


「何だろ……神殿の中だし、封天使の魔法かな?普段、地下は誰も近寄らないって聞いたから、来た時は鍵を開けっ放しにしていっちゃったけど、誰かが気づいて、魔族が間違ってもこっちに来ないようにって強めの封印を掛けた、とか?」


 アリアネルに見覚えがないということは、学園では習わない稀有な魔法だと思われるが、ここは世界最高峰のレベルを誇る天使や天界についての研究施設だ。

 魔王からも、高位天使の魔法を積極的に使わないようにと最低限の魔法しか教わっていないため、アリアネルが知らない魔法があるのも仕方ないだろう。


「そうでしょうか。確かに、可能性としてはありえなくもないでしょうが、そもそも魔族がこちらに来られないことは、神官であれば誰でも知っているはずです。通常の施錠以上の封印を施す必要性が感じられません。そして、こちら側からのアクセスが出来ないというのも妙ですね。天使の魔法には詳しくありませんが、これではまるで、神殿側から”門”に行こうとする者の道を封鎖したようにも見えます」


 注意深く観察しながら”影”が言う。紋様がこちら側の壁に浮き出て発光しているところを見ると、封印されているのはこちら側からのアクセスのように思えたのだ。

 ゼルカヴィアと同じく鋭い洞察力を持つ青年に感心し、「なるほど」とアリアネルが声を上げそうになった、その時――


「――ほぅ。鼠の分際で、存外頭が回るように見える」


「「――!!?」」


 重々しささえ感じさせる低い声が、アリアネルの耳元でぼそりと囁いた。

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