第6話 魔王②
そもそも、造物主が自ら造った天使は、生と死を司る
原初にして唯一の個体であった命天使は、造物主に天界と人間界のバランスを制御する支点となることを命じられた。
この難題に、己独りで役割を完遂するのは不可能だと悟り、まずはどんな存在がいたら世界が上手く回るかを考えた。そして、主から与えられた力で命を生み出し、天使としての役割を与えていった。
天使たちには、一から十までの
命天使は、生だけではなく、死も司る。
寿命が存在しない天使に、意図的な死を与えられるのは命天使だけ――
死は、天使にとって受け入れがたい罪の象徴だった。
造物主から特別に造られた唯一の天使は、背負う責任の重さも他とは一線を画す。
故に、誰とも慣れ合わず、生み出されてから幾星霜、彼はただ孤高の存在であり続けた。
誰かに情が移れば、判断を誤る。
奪わねばならない命を奪い損ねる。生むべき天使の序列と役割の優先順位を誤る。
二つの世界の支点となる――造物主が手塩にかけて造り上げた、唯一にして絶対の、最高傑作。
本来、全ての天使から憧れと羨望の眼差しを一身に受けるべき孤高の天使は、ある日、邪悪な陰謀に巻き込まれる。
彼の主から与えられる特別扱いを羨んだ天使らによって、天界における最大の禁忌――人間の命を奪った罪の汚名を着せられてしまうのだ。
造物主は、例外を許すわけにはいかぬと、涙を呑んで寵愛する唯一の天使に罰を与えた。
聖気を溜める天使の象徴――純白の翼を切り落とし、瘴気の溜まり場として無法地帯となっていた陽の差さない世界を魔界と名付け、そこに幽閉し世の中に溢れ出る瘴気を何とかしろ、と命じたのだ。
魔界に堕とされた命天使は、罰を甘んじて受け入れ、その無から命を生み出す力で、今度は魔族を生み出し、”魔王”と名前を変えて、主に許されるその日まで、魔界から三つの世界の調和を保っている――
◆◆◆
(――って、ゼルからは教えられたのになぁ……)
風呂上がりで火照った身体をベッドにごろりと横になって冷ましながら、アリアネルは学園で配布されている教科書を眺める。
そこに載っているのは、ゼルカヴィアから聞かされたものとは全く異なる、人間界で一般的に知られている神話。
その中に、父――命天使の存在はどこにも記述がなく、第一位階に属するのは『二大天使』のみで、魔王は造物主に生み出された最初から魔界を統べる冷酷無比な魔族の王であった、とされているのだ。
「まぁ……冷酷なのは、本当かもしれないけど……」
口の中でもごもごと呟く。
天使だった時代と、魔王となった今――実は、彼がやっていることは、生み出す存在が天使か魔族かというだけで、大差はない。
人間界に瘴気が増えすぎれば、魔族を増やし、糧として吸収させることで瘴気を減らす。――明日、シグルトやマナリーアが赴く、ブルグ村のように。
逆に、魔族が多くなり過ぎて、飢えた彼らが能動的に人間界に働きかけ、瘴気を過剰に生み出すようなことをし始めれば、自分が生み出したはずのその命をあっさりと奪う。――おそらく今日、魔王が帰ってこないのは、適正範囲を超えて”過剰”に瘴気を摂取しようとブルグ村周辺に蔓延っていた魔族を、密かに屠っているせいだろう。
眉一つ動かさず、淡々と己がその手で生んだはずの命を屠るその姿は、確かに冷酷と言われても仕方がないかもしれない。
「――アリアネル。まだ起きているのですか?風呂から上がったら、寝る前にちゃんとタオルを洗濯場に出せといつも言っているでしょう」
「ゼル!」
軽いノックの後、許可を出すより前に、当たり前のような顔をして入ってきて所帯じみた発言をする魔族に、アリアネルはベッドから飛び起きる。
「全く……他に洗い物はないですか?何度も分けると、洗濯場の魔族たちが不機嫌になるんですよ」
ぶつぶつ言いながら部屋に入って来て、椅子の上に放置されていた濡れたタオルを回収している魔王の右腕に、ふっと思わず笑みが漏れる。
「何ですか?」
「ううん。……ゼルは、『お兄ちゃん』っていうより、『お母さん』だなぁって思って」
「はい!!?」
昼間のマナリーアとの会話を思い出しながら正直な感想を述べると、ビキッと神経質そうな魔族の美貌に太い青筋が浮かぶ。キリキリと吊り上がる眦は、まさに言うことを聞かない子供を叱る母親のそれだ。
「いつ、誰が、貴女の母親になりましたか!!」
「あはは、ごめんごめん。でも、赤ちゃんだった私を育ててくれたのは、ゼルでしょ?パパも、いくら魔族の皆が絶対に逆らえないからって、酷いよね」
ケタケタと可笑しそうに笑うアリアネルに、ゼルカヴィアは嫌そうに顔を顰める。
人間の生態などよくわからないのに、乳飲み子をポンと横暴極まりない絶対君主たる魔王に渡されて、ミルクの作り方からおしめの変え方まで、途方に暮れそうになりながら毎日悪戦苦闘した日々が脳裏に蘇ったせいだ。
「食事のため以外の目的で人間界に赴ける能力を持つ魔族は、当時、私と魔王様だけでしたからね。まさか、魔王様が”お戯れ”で拾った赤子の世話を、魔王様自身にお任せするなどありえませんから、仕方なく、ですよ。結果的に、人間界での情報収集が進み、彼らの生態に詳しくなったので、良しとします」
「ふふふっ……ありがと」
憎まれ口を叩くゼルカヴィアだが、十五年もの間、”お戯れ”の魔王の命令を守ってくれたおかげで、今のアリアネルがいる。
「それより、何を読んでいたのですか?これは――教本……?」
「うん。ミヴァの話を聞いて、思い出したから、ちょっと。……私、このページ、好きじゃないんだけど」
むっとむくれながら教科書を捲り、挿絵を指さす。
そこに描かれているのは、真っ赤な血の色をした毛髪に、邪悪な角を生やし、鋭い犬歯が覗く口を狡猾な笑みの形に開いた、黒ずくめの大男。
「何ですか、これは」
「人間界でまことしやかに語られてる『魔王』だよ」
「はぁ……?これではまるで、下級魔族ではありませんか」
くい、と眼鏡を上げながら、ゼルカヴィアは呆れた声を上げる。
「ね!ありえないよね!だって……翼がないだけで、元天使だよ?こんな見た目のわけがないじゃん!!」
長い歴史の中で、天使を見たという人間は数多存在する。彼らの伝承は様々だが、不思議と、その見た目は皆、この世のものとは思えぬほどの美しい外見だと口を揃えて言うのだ。
その天使の一員だった魔王が――造物主にすら特別に愛されていた彼が、美しくないはずがない。
アリアネルがぶーぶーと文句を言いながらむくれると、ゼルカヴィアは軽く肩を竦めた。
「勇者一行は、魔界に来ても、魔王様の元までたどり着いたことは過去一度もありませんから。上級魔族にすら
「ホント、失礼しちゃう!パパは、すっごく、すーーーっごく、格好いいんだから……!」
ファザコンを拗らせているアリアネルは、不機嫌そうにむくれると、枕をぎゅっと力任せに抱きしめる。中に詰まった羽毛がはち切れんばかりになっているそれを見るに、十五歳の少女にしては強力過ぎる力が加わっているらしい。
父は、冷酷と評される冷ややかな表情が玉に瑕ではあるが、外見だけを見るなら、造物主に愛されるに相応しい、まるで絵画の中から抜け出してきたような現実味のない美貌の持ち主なのだ。『魔王』などというおどろおどろしい呼称からは想像がつかぬほどの涼やかな造形をしているというのに。
アリアネルがファザコンを加速させたのは、間違いなく彼が世にも麗しい見た目をしていたせいだ。
「パパの格好良さを、皆に自慢できないのは、嫌だなぁ……」
むっと唇を尖らせてから教科書を閉じて、再び枕をぎゅっと握り締める。
冷酷無比な、魔界の王――誰にも心を寄せることのない孤高の王。
過去十四回あった誕生日に、祝いの言葉の一つもくれたことのない父親だが――それでも、アリアネルにとっては、世界でたった一人の、自慢の父だ。
彼を父と呼ぶことを許された、奇跡のようなあの日から、ずっと――
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