第147話 王都へ⑦

「私が十五歳を過ぎて――もし、パパにキスしてもらったら、私、パパの眷属になれる?」


 しん……と、束の間、夜の静寂が部屋に満ちた。


「そうしたら、ずっと、ずっと、パパと一緒にいられるよね?天界になんか行かずに、魔界で、皆と一緒に、ずっと――」


 淡い期待を込めて尋ねるアリアネルに返ってきたのは、眉間に皺を寄せた魔王の顔だけだった。


「俺は既に天使ではない。魂の輝きを見る力すらも失った。人間に加護や寵愛を与える力はすでにないだろう」

「ぁ――……そっか。そうだよね」


 しゅん、とアリアネルは意気消沈して俯く。まさに、唯一の希望が潰えてしまった気持ちだった。


「うん……そっか。残念。私の人生の目標の一つは、『パパに名前を呼んでもらって、キスしてもらう』だから、ついでにパパの眷属になれるなら嬉しいなって思ったんだけど」

「なんだ、その目標は」

「え?昔言ったでしょ?覚えてないの?酷い!」


 眼を丸めた後、ぷくっと頬を膨らませて遺憾の意を表し、アリアネルはため息を吐く。


「じゃあやっぱり、いっぱい悪いことするのが一番なのかな。瘴気を出す魂だってわかったら、天使も寵愛を与えようとは思わないだろうし――」

「無駄な考えはやめておけ。お前にそれは、決定的に向いていない」

「む。……パパもゼルと同じこと言うの?」


 魂の輝きを見る力が失われたはずなのに、妙に確信を持って宣言する魔王に口をとがらせるが、魔王は意見を変えるつもりなど無いようだった。


(天使としての力など無くてもわかる。……この魂の輝きは、規格外だろう)


 物理的な眩しさなど感じていないはずなのに、眩しそうに眼を眇めてアリアネルを見る。

 くるくると表情を変える少女は、人の悪意になど染まらぬ善性の魂を持っているはずだ。

 瘴気の濃度が最も濃い魔王城の中ですら、彼女は天使の魔法を使うことが出来る。

 つまりそれは、彼女の身に収まりきらぬほど大量の聖気を、常に大気中に発しているということだ。

 十三年以上も魔界で暮らし、人を欺き瘴気を生ませることに長けた上級魔族らに囲まれて生きてきたはずなのに、未だに聖気を大量に発する魂を持つならば、恐らく生涯変わることのない性質と言って差し支えないだろう。


「正天使に加護をつけられたのは、私が赤ちゃんだった時なんでしょ?さすがに覚えてないけど……もしもこれから先、十五歳以上になったら、正天使にキスされるのはなんか嫌だなって」

「……正天使に」

「うん。パパにしてもらえるなら、それが一番嬉しいのになぁって……思ったのに」


 ぶーぶーとむくれながら呟くアリアネルの顔を、青い瞳がじっと見つめる。


(……そうか。今まで、わざわざじっくりと考えたことなどなかったが、正天使の加護がついているということは、この人間が赤子の頃に、あの忌々しい男が――)


 そこまで考えると、ググッと綺麗な眉間に深い皺が寄った。


「……パパ?」


 急に不機嫌なオーラを発した父に首を傾げるアリアネルは、無垢という言葉が服を着て歩いているかのような少女だ。他者を疑ったり利用したり、そんなことは頭の片隅にすら思い描けないのではないだろうか。

 だが、記憶の中にある二代目正天使は、第一位階に属するというのに、この少女と対極にあると言っても過言ではない。

 人間という存在を軽視し、侮り、己の行動こそが正義だと断じて、それ以外の人物の行いは全て切り捨てることすら厭わない。

 なまじ、優秀な頭脳を持たせたことが仇となり、そんな問題のある行動を繰り返しても、大局では不都合が生じないことがほとんどで、それならば、と魔王も看過してきた過去がある。


 能力だけならば、なんの問題もないのだ。

 ただ、少し性格面に、難があるだけで。

 狡猾で、自己中心的な、自己愛の強い性格――アリアネルと正反対のその性格の持ち主が、過去、広い世界の中から眩い光を放つ少女を見つけて、加護を与えたという。


「……来い」

「へ?」

「近くへ来いと言っている」

「!」


 ぎゅっと眉間に皺を寄せたまま、不機嫌な声で尊大に命令されても、アリアネルは嬉しそうに立ち上がる。

 基本的に、他者の悪意に鈍感なのだろう。

 が、自分を害すような何かをするはずがないと思っているに違いない。

 それどころか、あの気難しい父が、近くへ寄ることを許してくれるのだと思えば、太陽のような笑顔がはじけるほどの幸福なのだ。


「どうしたの?」


 近づいて掛けられた声は案の定、嬉しそうに弾んでいる。笑みの形に緩められた竜胆の瞳は、魔王への全幅の信頼をこれでもかと訴えていた。


「言われて思い出した。確かに昔、お前はキスをするだの名前を呼ぶだのに拘っていたな」

「あ!思い出してくれた?ふふ……嬉しい!」


 ぱぁっと目の前で、眩しい笑顔がはじけた。

 眼を眇めて眺めつつ、脳裏には昔の光景が広がる。


『知ってる?キスは、大好きな人に、大好きだよって伝えるためのものなの』


 まだ自分のことを愛称で呼んでしまうような、この世に生まれ出でて数年の幼く脆弱な生き物は、何万年もの月日を生きる魔王に、偉そうに”キス”の意味を教示して見せた。


『アリィはパパが誰を好きでも、嫌いでも、関係なくパパのことが大好きだけど、もしも――もしも、いつか、パパがアリィのことを好きになってくれたら――アリィの名前を呼んで、優しくキスをしてね』


 蕩けるような笑顔で告げたあの日の少女は、何故か今もよく覚えている。

 

『く、唇にキスするのは、お互いのことが世界で一番『大好き』って確認する意味があるんだって、ゼルが教えてくれたもん!他の誰よりも特別で、大切で――一生、ずっとずっと一緒にいるよって約束するキスだって、教えてくれた!』


 魔王の感覚では、つい数日前に聞いたのではと思うくらいの最近――少女は、顔を真っ赤にして、家族への親愛のキス以外のキスの意味を、これもまた偉そうに説いてきた。

 よく見ると、あの時から比べれば、少女は随分と成体に近づいている気がする。

 背が伸びた。顔が大人びた。魔王が造り出した魔族や天使と引けを取らないほどに、美しく成長した美少女。

 それでも――大好きな父を前にして笑うときの笑顔だけは、十年経っても何一つ変わらない。

 

「?……パパ……?」


 すっと無言で魔王は少女の顔へと手を伸ばす。

 男らしい節のある大きな手が、するりと少女の頬を辿った。


「ぇ――な、なに……!?」


 魔王の方から手を触れてくることなど、記憶の中でも片手で数えられるくらいしかない。

 ドキン、と心臓を撥ねさせ、真っ赤な顔で固まるが、蒼天を思わせる瞳はじっと少女の美しい顔を観察していた。


(――この、頬に。あるいは、額に)


 真っ赤に頬を染めて、浮足立つ気持ちを持て余してアイボリーの髪を意味もなくくるくると指先で弄りながら嬉しそうな光を隠しきれない素直な竜胆の瞳を見て、考える。

 そこにあるのは、初めて少女を見たときから何一つ変わらない、何物にも染まらぬ純白の無垢な魂。

 

『あのねっ……パパ、大好き!』


 一緒に過ごした期間は、たかだか十数年――そんな、魔王にとっては瞬きをする程度の短い時間で、一体何度、その言葉を聞いただろう。

 小さな体で精いっぱい腕を伸ばして魔王の身体に抱き付いては、頬に口付けを落として、五月蠅いくらいに何度も繰り返した少女。


 世界で一番清らかな魂を持つ少女がする、尊い行為と同じことを――あの、狡猾で自己愛の強い、忌々しい正天使が、よりによって彼女本人に行ったのだ。


 そう思うと――無性に、許しがたいほどの苛立ちがこみ上げてくるのは、一体なぜなのか。


「……風呂は」

「へっ!?」

「もう、風呂には入ったのか」

「え?う、ううん、まだだけど――」

「そうか。……念入りに顔を洗え。頬と、額は特に念入りに」

「え!?な、なんで!?ごめん、汚かった!?」


 アリアネルは先ほどまでとは別の意味で赤くなり、距離を取る。

 喜怒哀楽の感情の起伏が乏しい父が、今日は少し、怒りのバロメーターが高い気がするのは気のせいだろうか。


「神殿、と言っていたか。……確か今は、神官と呼ばれる人間しか入れぬ一画と、一般の人間も入れる区画とで別れていると、ゼルカヴィアから聞いた」

「う、うん」

「一般の人間が入れる区画では、十分に注意することだ。加護がついている間は、正天使であっても寵愛を与えることは出来ないから、最悪の事態にはならないだろうが――死後、天界には行きたくないと駄々をこねるならば、なるべく聖気が強いところには留まるな。天使が顕現しやすく、ちょっかいを掛けられやすい」

「うん、わかった!――って、あれ……?」


 不機嫌そうな眉間の皺を指の腹で押しながらため息に乗せて告げる父の言葉に勢いよく頷いてから、アリアネルはきょとん、と眼を瞬く。


 父の言葉に、違和感があった。


「一般人……が、入れるところ?神官しか入れない場所、じゃなくて……?」


 聖気が強い場所に行くな、というなら、それは、神官しかいない研究施設の方ではないのか。

 その疑問に、魔王は軽く顔を顰めて返した。


「お前たち人間の間でどのように伝えられているかは知らん。だが、覚えておけ。俺が天使として生きた最後の頃ですら、既に神殿は腐敗が始まっていた」

「え――」

「聖気に満ちた王都の中で唯一、鼻に衝くような瘴気を纏う人間が息衝く場所――それが『神殿』の真実だ」

「――――……」


 ごくり、と思わず音を立てて生唾を飲み込む。

 歴史の生き証人が見てきた真実は、ここでもまた、人間界の”常識”との食い違いがあるようだった。

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