第56話 いざ、敵陣へ④
明らかに生徒を見る教師の目とは言い難い下衆な視線で、男はアリアネルをじっとりと上から下まで舐めるように眺め回す。
本能的な嫌悪感に、アリアネルはゴクリと唾を飲んで、視線を合わせぬようサッと顔を俯けた。
「いやぁ……あの山奥の屋敷については、私もよく知っていますよ。アレが出来たとき、街では散々噂になったものだ」
「……ほぅ。そうだったのですか」
「えぇ。どう見ても、大富豪が建てたとしか思えぬほどの立派なお屋敷ですし――興味本位で屋敷に向かおうと、山に分け入り、屋敷を目指しても、一向に辿り着かぬ。さながら、化け物が棲む不気味な屋敷なのでは――と」
「……ほう。なかなか、愉快な噂が立っていたのですね」
つぅっと口の端を笑みに吊り上がらせて、ゼルカヴィアは答える。
ドキドキとアリアネルは心臓を暴れさせながら、ぎゅっと己の手を握り込む。
人間たちが屋敷を目指そうとしても辿り着けないのは、屋敷の周りに結界が張られているからだ。
その昔、ワトレク村に張られていたのと同じ、内外の出入りを制限する結界――その権限を持っているのは、屋敷を統括するミュルソスのみ。
ミュルソスが許可した者だけが、許可されたタイミングだけ、結界を自由に行き来出来る仕組みだ。
当然、噂を耳にして興味本位で屋敷を目指すような人間など、結界に阻まれて決して屋敷にはたどり着けまい。
「そうは言われましても……困りましたね。あの山は、慣れぬ者は迷いやすいというのは事実です。事前に申告してくだされば、迎えの者を遣りますので、屋敷に招くことも出来ますが……しかし、そもそもあの山は、丸ごとすべて、お嬢様名義の私有地となっております。興味本位で勝手に踏み込んだという方たちは、きちんと法によって罰せられたのでしょうか?」
「っ……いや、それは私もさすがにあずかり知らぬところだが」
チクリ、とやり返されて、教師は鼻白む。
「だが、しかし――家名がない、というのは、さすがに筋が通らないだろう――!」
「……おや。おかしなことをおっしゃるのですね」
指を突き付けて威勢よく叫んだ教師に、ゼルカヴィアは首をかしげて微笑む。
「ここは、天使様の加護があれば身分の貴賤なく門戸を開いているのではなかったですか?家名を持たぬ、貴族の出身ではない庶民でも入れると――例え
ゼルカヴィアの反論に、ぐっと言葉に詰まってから、教師は唾を飛ばして反論する。
「違う……っ!あれほどの豪邸を建てられ、山の敷地を丸ごと未成年の娘にポンと買い与え、執事付きの専用馬車で移動するような家の者が、貴族の血を引いていない、というのはおかしな話だろうと言っているのだ!」
「……ふむ。なるほど」
にやり、とゼルカヴィアは笑みを深める。アリアネルは、どうしてこの魔族はそんなにも余裕綽々なのかとハラハラするばかりだ。
「特待クラスに相応しいか否かは、その魂の善性で決まる!偽りを申告して入学するようなものは、その資質を満たさないと見なして、ここで追い返す必要がある!」
「ぜ……ゼル……」
こっそりとアリアネルはゼルカヴィアを伺う。
これは流石に分が悪いのではないか――という問いかけだったのだが、ゼルカヴィアは涼しい顔で冷静に言い返した。
「何を言われようと、お嬢様に、名乗るべき家名はございません」
「そ、そのような――」
「私は存じ上げませんでしたが――屋敷が出来ただけで、市井ではよほどの噂になっていた模様。でしたら、きっと、我らの旦那様についても、様々な噂が飛び交っているのでは?」
「っ!」
教師は息を詰まらせて言葉を飲み込む。
どうやら、何か心当たりがあるらしい。
「まぁ、所詮は噂話。勿論、ここに移り住んで来るだけでも、様々な公的な手続きは必要ですからね。どうしても、事情を詳らかに話した者もおりますが、個人の事情ですから、決して吹聴しないように、と念を押して強く頼んだのですが――」
意味深な協調をすることで、口止め料的なものを手渡したことを暗に匂わせる。
「ですが、人の口に戸は建てられぬ、ということでしょうか。残念なことです。そのご様子では、まことしやかに囁かれる様々な噂が、教員の皆様の耳にも届いているらしい」
「ぁ……いや、その……」
嘆くように頭を振りながら言うゼルカヴィアに、教師は勢いを失って指さしていた手を所在なさげに引き戻そうと――して。
パッと白い手袋に包まれた手が、それを引き留めた。
「な――」
「ですが、困ったものです。――本当に、お嬢様には、名乗るべき家名は、ないのです」
手を握ったまま重ねて、念を押すように一言一言区切りながら、圧を強めに訴える。
初老の男が汗をにじませて顔をひきつらせた隙に、サッとゼルカヴィアがもう片方の手を男の掌に重ねた。
「――!」
「正天使様の加護を賜るお嬢様が、偽りを申し上げて平然としているような者のはずがございません。瘴気がほんの微かに生じるだけで、息苦しくなると言うのも、これ以上なく天使様に愛されている証。何より――この愛らしさ。造形の見事さ。どう見ても、天使様の寵愛を一身に賜っているとしか言えないでしょう?」
蕩けるような笑みで、最後に親馬鹿の極みのような一言を付け足すのは何なのか。
――明らかに男に何かを握り込ませている手が、全てを台無しにしている。
「……ぁ……ぅ……」
ぎゅっ、と白い手袋に包まれた手が、教師の掌を包むようにして、無理矢理拳を握らせる。
中身は外から見えないが――きっと、握り込まれた硬質的な金属の感触と大きさで、それが何かは容易に想像がつくだろう。
「我々従者は、天使様の加護を賜っておりませんから、いつもお嬢様の眩しさに目を潰されそうなくらいです。我々一般人に出来ることと言えば、旦那様と、旦那様の寵愛を一身に受けるお嬢様の便宜を図り、どんな手を使ってもあらゆる障害を除き、生き易い環境を整えて差し上げることだけなのです」
拳を凝視したまま目を見開き押し黙る教員に、笑顔で言い切って、そっと手を離す。
「入園を――認めて、頂けますね?」
「は……い……」
呆然とした顔で、瞬きすら忘れて拳を見つめたまま頷いた教員に、ゼルカヴィアはにこり、と笑いかけたのだった。
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