第178話 夢天使④
突然脳裏に響いた主の声に、内心の動揺を押し殺せず息を飲む。
(魔王様!?しまった、時間をかけ過ぎたか……!?)
視覚を遮られている今、時間感覚は完全に狂っている。
緊張故に時間が長く感じられているだけだと思っていたが、もしや、魔王がしびれを切らすほどの時間が経っていたのか。
それとも、ルミィとオゥゾの戦いでどちらかが倒れた気配を察したのか。
あるいは、ゼルカヴィアがこちらへ来ている不在の隙をついて、魔界で予期せぬ緊急事態が起きたのか――
一瞬で脳裏を様々な可能性が過り、ごくりと唾を飲むと、主はいつも通り冷ややかな声で告げた。
『お前には失望した』
「な――!?」
やはり、時間をかけ過ぎたのだろうか。
弁明しなければと、息を飲み、言葉が口を衝く前に、魔王は脳裏に淡々と声を響かせる。
『よくもこの一万年――この俺を、魔界中の魔族を、謀ってくれたものだ』
「――!」
ひゅ――と喉の奥が不穏な音を立て、弁明のために用意していた言葉が一瞬で霧散する。
まるで冷や水を頭から浴びせられたような錯覚と共に、ざぁっと全身から血の気が引いていった。
『在りし日にお前が俺に膝を突き、誓った言葉は偽りだったか』
「ま、おう、様――」
『やはり、お前を傍に置いていたのは間違いだった。どれほど忠誠を口にし、魔族らしく振舞おうとも、お前がこの魔界において異分子であることに変わりない』
「待っ――お待ちください!」
喉に張り付いたように掠れる声で必死に音を紡ぐ。
バクバクと、心臓があり得ぬ強さで脈打ち、暴れ出した。
(何故――何故だ、細心の注意を払って魔法を重ね掛けて来た!どこで、いつ、だれが――魔王様が自力で記憶操作に気付き、真実にたどり着くことは考えられない……!)
機能しなくなった視界の代わりに、脳が在りし日の記憶を――魔王に記憶操作を施した記憶を、最新のものから順に遡るようにして勝手に再生する。
一番最近の記憶は、アリアネルが神殿に忍び込んだ日の夜だ。
少女が口を滑らせ、『聖なる乙女』の話題を出した際、あからさまに話題を切り替えたゼルカヴィアを不審に思い、魔王は青年を厳しい顔で問い詰めた。
仕方なく、アリアネルを部屋から追い出し、二人きりで腹を割って話す――と言って、ゼルカヴィアはそのまま魔王に魔法をかけた。
アリアネルが『聖なる乙女』の塔の話をしたという記憶ごとすっぱりと、なかったことにした。
そのまま、偽りの記憶を差し込んで、ゼルカヴィアを疑ったことすら忘れさせてしまった。
その後、アリアネルと廊下で遭遇しても、いつも通りの涼しい顔で魔王を説得したと嘘を吐いた。その程度で痛める心など、持ち合わせてなどいなかった。
(やめろ――やめろ、思い出すな――)
その前は、いつだったか。――確か、アリアネルが随分と幼い頃だった。
少女の無邪気な質問のせいで、なぜ完全な人型ではない魔族も作ろうと思ったのか、という記憶を呼び覚ましかけた魔王に、手助けをする振りをして、さも魔王を心配しているかのような顔をしながら、忘却の魔法を重ね掛けた。
その不都合な記憶は――ある人間の女の記憶に紐づくことを、知っていたから。
(やめろ――!)
するすると、魔王と過ごした一万年を辿るようにして、過去の記憶が芋づる式に脳裏を駆け巡っていく。
一体何度、魔王を偽り、魔法をかけて、真実を覆い隠してきただろう。
何度も何度も魔法を重ね、意識の奥底に記憶を沈めて、そのたびに別の記憶を差し込んで、矛盾を生じさせないようにしてきた。
記憶は、完全に消滅させない限り、何かの拍子で思い出すことがある。
奥深くに沈めるばかりでは、いつ何かのきっかけで思い出すかわからない。
だから、矛盾が生じないように、細心の注意を払って偽りの記憶で上書きしてきた。
少しでも真実に辿り着く助言をしそうな周囲の者の記憶すらも弄りつくした。
信頼をしてくれていたはずの古参魔族らの記憶も全て差し替えて、どんな綻びも許さぬよう、日々の振る舞いを徹底した。
(仕方がなかった――仕方が、なかったんだ――!)
数千年前――魔王城に勤める同胞を前に、口裏合わせを頼んだ光景が蘇り、頭が割れるような痛みを発する。
むかむかとした吐き気がこみ上げて来て、身体を折って唾を吐いた。
――違う。
自分だけは騙せない。
あの日も、全員から同情がたっぷり詰まった目で見られた。厳しさが服を着て歩いているような性格をしたヴァイゼルですら「致し方ない」と言ってのけた。
その言葉に安堵して、見ない振りをして、己の行いを正当化して、それ以外の手はないのだと言い聞かせて――
――それでも、自分だけは、騙せない。
(記憶を消せばよかった――!奥深くへ沈めて、浮かび上がらぬよう封じ込めるのではなく、あの御方の中から、全て跡形もなく消し去ってしまえば、よかった――!)
そうすれば、疑われるリスクを冒して何度も魔法をかけ直す必要などなかった。
一度かき消してしまえば、決して真実にたどり着かれることはないのだから。
だが、どうしても出来なかった。
それだけは――どうしても。
『お前は、弱い男だ。そして、どこまでも甘い。やはり、お前は半端者だ。どれほどお前が望もうと、そのように振舞おうと、決して俺が造った純粋な魔族たちと同じにはなれない』
「っ――」
冷ややかな声は、的確にゼルカヴィアの心の弱いところを鋭い刃で抉る。
「全て――思い出して、しまわれた……の、ですか……」
どこから記憶を修復したのかは、わからない。
だが、記憶が深層心理の奥深くに残っている以上、絶対ということはあり得ないのは事実だ。
ミュルソスやルイスといった、真実を知る古参魔族に掛けた魔法の効力が弱まり、彼らから真実が漏らされたのか。
あるいは、魔王本人が違和感を感じ、己の記憶に封天使の”解呪”の魔法をかけたのか。
(記憶を封じる魔法が、封天使の魔法と酷似していると告げたのは、私自身ですからね。己で己の首を絞めましたか。愚かなことです……)
絶望と共に瞳を閉じて、だらりと身体から力を抜く。
仮に、封天使の魔法で封じた記憶が蘇るのだとしても――魔王は、そんなことをしないと、思っていた。
一万年をかけて築いてきた信頼は、きっと彼の中からその選択肢を排除するはずと、信じていたかった。
(馬鹿馬鹿しい……先に魔王様の信頼を裏切ったのは私自身の癖に。自分に都合の良いところだけは、信頼を得たいなどと――)
『失望した』という魔王の言葉が蘇り、ふっと自嘲の笑みが漏れる。
最後に脳裏に蘇ってきたのは、生涯で最初に魔王に魔法をかけた日の光景だった。
それは、魔王の私室。
確か、夜の遅い時間だったように思う。
あの頃の魔王は、地獄の苦しみの最中にいた。
苦しみのあまり、手負いの獣のように近づく者全てに鋭い視線を投げるばかりの彼に、唯一近づくことが許されていたのが、ゼルカヴィアだった。
あの日も、深夜に寝室を訪ねたゼルカヴィアの気配に気づき、すぐに浅い微睡みから目覚めたのに、青年の姿を認めると、そのまま再び眼を閉じた。
それは、信頼の証だったのか。
――眠る前にお前の顔など見たくない、という意思表示だったのか。
今となってはわかりようもないが、瞳を閉じた魔王へと近づき、手を翳した。
己が今から成すべき行為を想えば、さすがに、手が、吐息が、震えた。
いつまでも出て行かない青年を不審に思ったのだろう。
一度閉じた瞳が、再びゆっくりと開かれる。
魔界には存在しない、抜けるような夏の空を思わせる、真っ青な美しい瞳に、自分の姿が映っていた。
そのまま、全能の神に手ずから造られた完璧な美を象った唇が、ゆっくりと音を紡ぐ。
それは、あれから一万年――二度と聞くことが無くなった、言葉。
「――――ゼル……?」
形のいい朱唇が紡いだ音に、心臓が刺しぬかれたような痛みを発した。
ぐっと唇を噛んで無理矢理その痛みを追い払い、無言で魔力を解き放った。
魔王の蒼い瞳が揺れて、サッと顔色が変わる。
「な、にを――」
「何も。――何も、ありません。何も、無かったことになります」
身体を起こそうとする魔王を制しながら、震える声で続ける。
「ご安心ください。……貴方はこれから、ただ、己の『役割』を果たせばいい。何もかも忘れて、ただ、魔界の王として――公平で、公正で、何者にも囚われず、正義のために歩みを進める強者であればいい」
強張った唇から紡がれる声は、叩けば音がしそうなほど固かった。
「大幅な記憶の改竄は、深い眠りを引き起こします。……大丈夫。眠って、起きたら、もう、貴方を煩わすものは何もありません」
「待……て……」
魔王はぐっと抵抗を示すようにゼルカヴィアの袖を握るが、そのまま身体を起こすことは出来ずに寝所へと倒れ込んでしまう。
瞼が重くなり、視界がかすんでいくのがわかった。
「私も、忘れます。今まで過ごしてきた時間は、全部、無かったことにしましょう。それが、幸せです。……貴方も、私も、きっと」
何故だろう。――年甲斐もなく、泣きたい気持ちになった。
「明日から私は、誰よりも魔族らしく、魔族の中の魔族としてふるまう、貴方の右腕。そして貴方は、私が生涯を捧げてお守りする、至上の主」
自分で自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
魔法が完成したのだろう。掴まれていた袖からふっと力が抜けて、魔王の蒼い瞳は再び瞼の裏へと消えていった。
「これから、よろしくお願いしますね。――魔王様」
笑ったつもりなのに声は震えて強張っていた。
そっと乱れたシーツを掛け直して、部屋を出る。
あの夜から、ずっと――ずっと、世界を騙し続けてきた。
誰にも造り上げた偽の記憶を壊されないように、細心の注意を払って、幾千年――忠実な右腕として、魔王の信頼を得るため、必死になった。
それが、偽りの記憶の中のゼルカヴィアが、魔王の傍に居続ける、唯一の方法だったから。
(それも今日で……終わり、ですか)
終わりは何とも、あっけない。
綻びは、自分の甘さだ。
魔王の中に沈めた記憶の欠片を、跡形もなく消し去る
それが出来なかったのは――ひとえに、己の、甘さ故。
その甘さが招いたのがこの結末だというのなら、座して天命を受け入れるべきだろう。
『お前は、俺の信頼を裏切った』
「……はい」
『一度ではない。何度も、何度も、この一万年、手酷い裏切りを行った』
「はい。……おっしゃる通りです」
不思議と安らかな気持ちで、断罪の言葉を受け止める。
これが、終わりなのだろうか。
もしも自分の命の終わりが、魔王の手によるものならば――それは想定外ではあったが、幸せでもある。
他の魔族らのように造られた命ではないゼルカヴィアは、魔王の固有魔法で命を絶たれることはない。
故に己が死ぬときはきっと、魔王のため、魔界のために敵地へ赴き、戦いの中で敗れるのだと思って生きてきた。
魔王の手にかかって死ぬと言うのは、これ以上なく魔族らしい死に方で――どこか、羨ましさすら感じていたように思う。
『俺は裏切りを許さない』
「はい。……はい。存じています」
伊達に、一万年――一番傍で、仕えてきたわけではない。
『どうして――とは問うまい』
「はい」
全知全能に限りなく近い存在として造られた彼は、きっとゼルカヴィアの行動原理くらいたやすく察しているだろう。当時、どうしてそんなことをしでかしたのかも、わざわざ説明する必要などないはずだ。
脳裏に直接語り掛けてくるのは、まぎれもない、一万年仕えた尊敬すべき主だ。
全てを見通すような聡明な頭脳を持ち、公平で、公正で、誰にも何にも捕らわれることなく――
「――……?」
そこまで考えて、ふと、疑念がよぎる。
(……おかしい)
閉じていた瞳をゆっくりと開き、顔を上げる。
視界が機能しないせいで、世界は何も映さなかったが、ぐっと手にしていた魔剣を握り込む。
語りかけてくる魔王は、どこまでも魔王らしい魔王だ。
今朝、言葉を交わした魔王そのままだ。
だが――もしも、本当にゼルカヴィアが恐れていた通りに、彼の記憶が戻ったのだとしたら――
『最期に、選ばせてやろう。俺の手にかかって死ぬか、責を負って自身の手で死を選ぶか』
数度眼を瞬いた後、ゼルカヴィアはふっ……と口の端に笑みを刻む。
「私を魔族の一員として死なせていただけるのであれば――何卒、魔王様のご自身の手で」
安らかな声音の宣言に、一瞬、沈黙が流れる。
『……そうか。では、望み通り、この手で殺してやろう』
「はい」
死を目前にしたというのに、晴れやかな顔で、ゼルカヴィアは返事をする。
『我、ゼルカヴィアの名において命ず。――抗うことなく、死の運命を受け入れろ』
魔力を帯びた声が脳裏に響き――ゼルカヴィアは、つぃっと口角を上げた。
「残念。――絶対に、御免ですね」
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