第177話 夢天使③

 ルミィが生み出した朱い水とオゥゾの蒼炎が正面からぶつかることで立ち込める水蒸気から逃れるようにして、ゼルカヴィアは二人の戦闘範囲から大きく飛び退りつつ、口の中で呪文を唱えた。

 水蒸気から逃れた先でも、二人が激突する音が響く。よほど激しくやり合っているらしい。

 それを背中に聞きながら魔力を練り上げると、カッと腹のあたりが仄かな熱を持った。


(なるほど、確かにいつもと比較すれば魔力の増幅量が段違いですね。空腹を催すのも納得です)


 魔水晶が、人ならざる存在モノの魔力増幅器として機能することは当然知っていたが、その用途で推奨を利用するのはゼルカヴィアも初めてだ。

 魔王が定めた力のバランスを壊すその行いは、魔王への叛心ありと見なされ、粛清対象となるリスクも孕む。

 まして今は、魔石という魔水晶のまがい物による陰謀説が濃厚になっているところだ。魔王への忠誠を示したい魔族は、全力でその存在を拒否するのが普通だろう。先ほどのルミィのように。

 

(ですが、戦に置いて情報は宝です。情報戦での敗北は、そのまま魔界勢力の敗北へとつながります。それだけは、避けなければならない。――ここは、魔王様に粛清されるリスクを負ってでも、事件の元凶を突き止め、排除すべきです……!)


 血液すら凍らせそうな冷たい視線を玉座から放る魔王の姿を思い出し、ゼルカヴィアはぐっと拳を握り締める。


 傍に誰も寄せ付けぬ孤高の王は、己が生み出した魔界の同胞全てから、絶対の忠誠を恣にしているくせに、決してその想いに応えることはない。

 どこまでも公平で、公正。

 魔王のためならば命を捨てると言ってのける大勢の臣下を前にしても、それが世界のためにならぬというならあっさりとそれらの臣下を切って捨てるのが、あの王だ。

 そんな彼はきっと、天界と正面を切って対立することを良しとしない。

 天使は、世の中を円滑に回すのに無くてはならぬ存在だからだ。


 だから、どれだけ正天使の策略で勇者を差し向けられても、ただ魔界にやってきたそれを撃退するばかりで、魔界勢力を自ら率いて人間界を脅かすことなどしなかったし、積極的に天使に関わることもなかった。

 今の正天使が、天界を統べるには相応しくないと思いながらも、それを生み出した過去の自分の責任を感じ、甘んじて受け入れている。

 

 それが、あの冷徹な男のあるべき姿だからだ。

 と造物主に与えられた役割に忠実に、魔王は常に中立を保ち続ける。


(だから、私の『役割』は、誰よりも魔族らしくあること――魔王様の代わりに、魔界の利を誰よりも考え、魔族のために、魔族の繁栄を第一に考え動くこと――!)


 拳を突き上げ、口の中で唱え終えた魔法を頭上へと放つ。


神門バベル!」


 ゼルカヴィアの声が広がるのと同じ速度で、視界に映る範囲全てに、白銀の光が広がっていく。

 空間を捻じ曲げる能力を持つ偏屈な辺境の上級魔族の名で行使される魔法は、人ならざる存在を一切拒絶する門を生成する魔法だ。

 普段のゼルカヴィアであれば声が届く範囲までしか展開が出来ないそれも、魔水晶の力を借りれば、視界いっぱいに広げることが出来るらしい。


(これで、顕現せずに空間に紛れていた天使がいたとしても、術者わたしが魔法を解かない限り、天界へ逃げ帰ることは出来なくなったはず……!)


 これが、魔王ではなくゼルカヴィアがこの場所へ来た意味。

 魔王が遵守している役割上、決して成し得ぬ『魔界を第一に考えた天界勢力との戦闘行為』を積極的に仕掛け、魔界の勝利をもたらす。

 それは、魔界の王を至上の主と戴き、決して彼の意向に逆らうことが出来ぬ一般の魔族には不可能な行為。

 

 名で行動を縛られることがなく、強制的な主従関係を強いられぬゼルカヴィアにしか出来ない――彼が、己で己に課した、彼だけの『役割』。


「ルミィ!」


 濛々と立ち込める水蒸気の中で未だ激しい戦闘音を響かせる方向に向かって叫ぶ。


!」


 一刻を争う事態に、事前の打ち合わせなど一切なかった。

 故に、ゼルカヴィアはルミィへと意味深な言葉を吐くことでしか、考えを伝える術がない。


「我、魔界を統べる王に乞う!」


 ゼルカヴィア朗々とした声で呪文を唱えると、戦闘音が一瞬止み、視界の端で朱い水流が先ほどの倍の量で呼び出され、堅牢な檻のような形になって火の魔族へと一直線に向かっていく。

 ゼルカヴィアが具体的に何をしようとしているかまではわからないだろうが、それでも彼の意図を精一杯汲んで、オゥゾを抑え込もうと画策したのだろう。


 頼もしい部下を持ったことに感謝しながら、ゼルカヴィアは呪文を続ける。


「万物から光を奪い、視界を奪い、常闇の世界へと誘え――!」


 数年前に、魔王の手で粛清された闇を司る魔族の魔法を、魔王の力を借りて行使する。

 呪文を締めくくった途端に、ヴァッ――と羽虫の群れが通り過ぎるような耳障りな音を立てて、絶望を伴う闇の魔法が広がっていった。


 それは、魔法効力の範囲内にいる生物全てから物理的な視覚を一切奪う魔法。

 ただ空間を闇で満たすのとは異なり、どれほど時間が経っても目が闇に慣れると言うことはない。


(術者を殺すか、私の意志で魔法を解かない限り、決してこの闇が晴れることはない。さぁ、天使よ、どう出る――!?)


 この作戦がうまくいくかどうかは賭けだ。

 視界を奪ったこの世界では、オゥゾが操る炎すら視界に映らない。第二位階に属すると言う光天使の魔法をもってしても同様だ。

 だが、ただ視力を奪っただけで、魔法を封じたわけではない。やみくもに攻撃魔法を無差別に放てば、当然敵を攻撃できるだろう。


(だが、ここまで瘴気が濃い空間では、敵が威力のある高位天使の攻撃魔法を温存もせず使うとは思えない。となれば、残される選択肢は、物理攻撃のみ。物理攻撃を仕掛けようと思えば顕現せざるを得ず、直接接触があれば捕らえることも、攻撃することも出来る――!)


転移門ゲート


 早口で呪文を唱え、何もない虚空へと腕を伸ばす。

 視覚が機能しないため、いつもの紫色の魔方陣は視認できないが、息をするように何度も行使した魔法を失敗するはずもない。

 虚空に腕を伸ばした先――空間を捻じ曲げた先で、目当ての固く冷たい触感を引き当て、無造作に引き抜く。


 ずず……と唸るような小さな音が耳に響き、手に馴染んだ重みを確かめながら開いた転移門ゲートを閉じた。


 それは、かつてヴァイゼルの魔法で造らせた、ゼルカヴィアの愛剣。

 魔力を帯び、鋼の何倍もの切れ味を誇る魔剣だ。


「ふぅ……さて、どこからでもかかって来なさい」


 召喚した魔剣の柄を握り直しながら、ゼルカヴィアは神経を研ぎ澄ます。

 視覚に頼ることは出来ない。

 空気の微かな揺らぎ、鼓膜を揺らす微細な振動、向かい来る魔力の波動――そうしたものを感じ取り、反撃に転じなければならないのだ。


 おそらく、敵も出方を伺っているのだろう。

 永遠にも思える緊張の瞬間が続き――


『――ゼルカヴィア』

「っ――!」


 脳裏に、聞き馴染んだ低い声が直接響いた。

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