第155話 神殿⑦

「っ――!?」


 急に部屋に響いた声に、アリアネルは驚きに息を詰めながら一瞬で臨戦態勢へと移行し、腰のポーチへと手を伸ばした。

 そのまま、迷うことなく学園から支給された魔晶石を引き抜き、早口で呪文を唱えると、大きく飛び退りながら死角からの襲撃を警戒するように壁に背中を押し付けた。


解呪ディスペル!」


 叫ぶと同時に魔力が放たれ、手の中の魔晶石へと収束する。

 その瞬間、封印の魔法によって物理法則を無視して石の中に封じられていた武器が、石から吐き出されるようにしてアリアネルの手の中へと現れた。

 いつか、厳しくも心優しい武技の師が花の模様をあしらってくれた、身の丈ほどもある、巨大な斧。


「誰――!?」


 警戒レベルをMAXまで引き上げて、鋭い声を投げるが、部屋の中には何処にも人影など見当たらない。


《あぁ、そのように警戒せずとも良い。心地良い聖気を振る舞ってくれた相手に、危害を加えたりはせん》


「っ、どこにっ……!」


 せわしなく竜胆の瞳を左右に移動させるが、声はガランとした部屋に不気味に響くばかりだ。


(落ち着いて――……!?ってことは――!)


 聖気や瘴気といったものは、人間には見ることも感知するも出来ない。

 それが出来るのは、それらを糧とし、毒とする、人外の生き物のみだ。


 そう考えれば、聖気をと表現する生き物は、すぐに見当がつく。


「っ……!」


 バッとアリアネルは勢いよく上空を見上げた。

 一見、何もない、天井。

 距離感が狂うほどに高いその天井を見上げると、ゆらりっ……と空気が揺らいだのがわかった。


 目を凝らすと、揺らいだ空気の狭間から、ぼんやりと人影が出てくる。


《あぁ……素晴らしい。この場に顕現が叶うのは、何百年ぶりか。そなたが部屋に入って来てからのわずかな時間で、部屋中を聖気で満たすとは……なんと強く、美しく、温かな聖気よ。腐ったこの施設に、まだこのような未来ある人の子が残っていたとは》


「な……」


 アリアネルは、出て来た人型の影を見て、思わず絶句する。

 その人型の背に純白の羽があったから――では、ない。

 そんなことは、見上げる前から想像がついていた。

 それよりも――


「く……鎖……?」


 ぽつり、と少女の桜色の唇から、小さな声が漏れる。

 思わず、構えていた巨大な斧を降ろして、茫然と頭上を見上げた。


 視線の先――大きな純白の翼を持つ天使は、身体を光る鎖で雁字搦めにされた姿で、天井に張り付けられていた。


 今まで、幾度となく資料で見たことのある、天使の特徴の一つ――薄手の白い簡素な衣は、光る鎖にきつく縛られていることがわかるくらいに締め上げられ、窮屈そうな皺を造っている。

 ほんのわずかな身じろぎすら許されないほどの、拘束。

 とても人工物とは思えぬ、不思議な光の鎖はおそらく、封天使の魔法による、魔力の拘束だ。

 鋼鉄のそれとどちらが強力なのか――一瞬だけ考えてから、アリアネルは首を振ってその愚かな考えを打ち払う。

 人力によって造られるそれと、人間を導く第三位階の天使の力によって造られるそれは、比べ物になどならないだろう。

 大人しく拘束を受け入れるしかない目の前の天使は、恐らく第四位階よりも下の天使なのだと推察が出来た。

 

「あ……あの……大丈夫、ですか……?」


 痛ましい姿を晒す天使に、アリアネルは思わず問いかけてしまう。

 彼が――鎖の下に除く厚い胸板が、平らな所を見るに男性型の天使なのだろう――どうしてこんな姿でこんな場所にいるのかはわからない。

 一般市民に開放されている区画と違い、ここは瘴気がうっすらと漂うような場所だ。

 下位の天使にとっては猛毒となりうるそれが渦巻く場所に、第四位階以下の天使が鎖でつながれて放置されている――ということは、何か、そうされるに相応しい罰を犯したのかもしれない。

 だが、それでも、寿命という概念が存在しない天使にとって、ギチギチに締め上げられたまま、死なない程度に息苦しい瘴気が渦巻く場所に放置されるというのは、想像以上に苦しいことなのではないか、と思えたのだ。


 助け出そう、とまでは思い切れないが、善性に振り切れている魂を持つアリアネルは、少なくともこの痛ましい姿を晒す相手を前に、回れ右をして見て見ぬ振りをすることは出来ない。

 相手に敵意がないことを確認し、手にした武器を再び魔晶石に収めて、困った顔で天井を見上げた。


《我を案ずるか。優しい子だ。きっと、そなたを目前にすれば、その魂は太陽のように温かく眩しい輝きを放っているのだろう。この目が光を宿さぬことをこれほど悔やんだことはない》


「え?あっ――!」


 言われてよくよく目を凝らして遠くにある天使の顔を認めてから、アリアネルは小さく悲鳴に似た声を上げる。

 彫りの深い整った顔立ちをした天使の眼もとには、躊躇うことなく横一文字に、刃で切り裂かれた醜い傷跡が残っていた。

 

(ひ……酷い……!)


 一度気付いてしまえば、あまりの痛々しさに目を背けてしまいたくなる衝動をぐっとこらえて、アリアネルは息を飲む。


「どうして、そんな姿で――」


《それは、そなたが天界で暮らすときに、聞けばよい。愛に溺れた愚かな天使の末路として、正天使が嬉々として語ってくれるだろうよ》


「愛……?もしかして、誰かを、造物主よりも深く愛してしまったの……?」


 アリアネルは、蒼い顔で問いかける。

 かつて天界にいた処刑執行人だった命天使はもういない。名前を口にして、魔法の力でその命を奪うことが可能な父は、もういないのだ。

 もしや、これが、父がいなくなった後の天界の”罰”の在り方なのだろうか。

 

「それをしたのは、正天使……!?正天使が、貴方の眼を斬りつけ、封天使の魔法で、瘴気が漂うこの場所に縛り付けたっていうの――!?」


《ほう……珍しいことがあるものだ。あの天使に敬称を付けぬ人の子を見たのは、ここに封じられてから、初めてかもしれん》


「――!」


 ハッと思わずアリアネルは息を飲みこんで両手で口を押さえる。


《そして、人の子らには伝わっていない、造物主と我ら天使の制約を知っていると見える。そなた、一体何者だ……?》


 ごくり、と唾を飲んで、ゆっくりと慎重に後退る。

 失言だった。


 盲目の天使は、低い声音で、ゆっくりと口を開く。


《よくよく魔力を探れば、そなた、まだ、加護がついているな……?道理で、いつものように、忌々しい瘴気を纏った神官の気配がないと思った。迷い込んだ猫のようなものか……?》


「っ……」


 じりじりと壁を伝うようにして、ゆっくりと出口へと向かう。

 天井に張り付けられた翼を持つ男は、醜い傷がついた顔を不思議そうに傾けた。


《しかし、不思議なこともあるものだ。そなたに加護を付けたのは誰だ?光を映さぬこの瞳ですら、仄かに眩しさを感じるほどの光――きっと、目を付けるならば高位の天使だろう。これほどの輝き……察するに、遠い昔に現れた、あの、天界にも届く眩しさを持つ人の子と同等か。だが、不思議だ。この部屋にそなたがやってくるまで、我は全くその光に気付かなかった。いくら視力を失ったとはいえ、これほど強烈な輝きであれば、都に入った段階で、存在くらい感知できそうなものだが――》


「っ……!」


 アリアネルは、無言のままダッと駆け出し、一息で出口へとたどり着く。

 ドアノブに縋りつくようにして、無心で扉を開け放ち、足がもつれないよう全速力で駆け抜けながら、口の中で必死に呪文を唱えた。


「我、重力を司る魔族に乞う。この身を風に舞う木の葉のごとく、地上の理から解き放て――!」


 息がしやすいこの区画には、十分に瘴気があるはずだ。

 ある種の賭けでもあったが、今は悠長に指輪の魔法に頼っているような時間はない。


(甘かった――!天使は皆、敵だって思わなきゃいけなかったのに――!)


 バクバクと心臓が音を立てているのを聞きながら、ふっと重力という自然の理から解き放たれるのを感じる。


「っ、ぇいっ……!」


 賭けに勝ったことを確信して、頭の中に叩きこんだ施設の見取り図を思い浮かべながら、渡り廊下から躊躇することなく一息に身を躍らせる。

 間違いがなければ、この真下は一般開放されている大衆広場から少し研究施設の区画に入った先の、植え込みになっているはずだ。

 多少泥がついたり傷を負ったりするかもしれないが、天使に素性がバレてしまうことに比べれば些細な問題だろう。


 アリアネルは、生まれて初めて遭遇した天使を一度も振り返ることなく、一目散に空中へと身を投げ出したのだった。

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