第154話 神殿⑥
そろりそろりと、神経を研ぎ澄ませながら人の影がないことを探り、安全を確認してから、一気に長い廊下を走り渡る。
時刻は昼飯時だ。
その名前からわかる通り、儀式的な意味合いでも研究的な意味合いでも重要と思われる『天使降臨の間』で、昼食を取ろうなどと考える愚か者は居るまい。当然、神官用の食堂施設がここから離れた位置にあることは、事前に頭に刻み込んだ見取り図で確認済みだ。
足音を殺しながらたどり着いた重厚な扉にそっと耳を当てて中の様子を探ると、案の定ひっそりとして人気はないようだった。
(本当は、パパに高位の天使の魔法は使うなって言われてたけど――状況が状況だもん。仕方ないよね)
心の中で魔王の言いつけを破ることに言い訳と謝罪をして、アリアネルはそっと扉に手をかざして、周囲に聞こえぬよう呪文を唱える。
「我、封印を司る天使に乞う。固く閉ざされし扉、我が前に開け――」
解錠の魔法は、第三位階の天使の魔法だ。
扱う者の性質によっては、際限なく悪用されかねないこの魔法は、使いこなすには魔力操作が特に難しいことで有名だ。
父の言いつけで高位天使の魔法を殆ど今までの人生で使ってこなかったアリアネルは、学園で習っただけの呪文を諳んじながら、初めて使う魔法に緊張して頬を強張らせる。
固唾をのんで見守ると、一拍遅れてカチンッ……と小さな音が響き、無事に解錠が叶ったことを悟った。
ホッと安堵の息をついてから、もう一度だけ周囲に人影がないことを確認してから扉の中に滑り込む。
「わぁ……すごい……」
滑り込んだ先、目の前に広がる光景に、アリアネルは思わず小さく感嘆の声を漏らした。
かつて教師が授業で言っていたように、確かにその部屋は、芸術的な価値も計り知れない。
神殿の敷地内に置かれた石像が彫像界の父と崇められる巨匠アダンの作品ばかりであるように、この部屋の天井一杯に広がるフレスコ画もまた、名のある著名な芸術家の手によるものなのだろう。
「っと……見惚れてる場合じゃなかった。えぇと、怪しそうなところは――」
我に返って、キョロキョロと部屋の中を見回す。
見取り図で確認した情報を元に考えると、午前中に見学した礼拝堂の半分以下の広さしかないはずだが、椅子などが一切置かれていない伽藍とした空間は、高い天井と相まって、広さの感覚を狂わせる。
「天使降臨の間が開かれるのは、勇者が魔界に赴く前に正天使から神託を与えられる以外は、基本的に一年に一度、春の時期だけ――その年に新しく神官になった若者を受け入れる儀式と、年齢などのやむを得ない理由で神殿を去ることが決まった神官を見送る儀式が行われるって、先生は言ってたけど……」
かつて神殿に従事した経験があるらしき選択授業の教員に質問した内容を思い出しながら、アリアネルは恐る恐る足を踏み出す。
「確か、この部屋には一人しか入れないって――天使様の声を聴ける僥倖に預かれるのは選ばれた人間だけだとか云々……」
しゃがれた声の老教師は、『私は残念ながら、入る時も出るときも、儀式で天使様の声を聴くことは出来なかったのですが』と苦笑しながら教えてくれた。
詳細を聞くに、対象者は一人でこの部屋に入り、天使を讃える決まり文句を唱えて、沙汰を待つらしい。一定時間が経っても何も聞こえなければ、外から合図をされて、それで終わり。
そんな中で、ごくまれに、部屋の中で天使の声を聴く者がいるらしい。
主にそれは、魂の清らかさを認められ、眷属となるに相応しい、とお墨付きをもらう神託なのだそうだ。
神官になったばかりの若者でそれを聞いた者は、天使に選ばれし天の声を聴ける存在として、一般の神官とは隔離された場所で、特別な研究内容を任されるらしい。
神殿を出る際に声を聴いた者は、在職の神官にその功績を褒められた後に、その後の人生に困らぬだけの国からの保証を受ける手続きを受けるんだとか。王城へ向かい、国王から褒美をもらうという噂もあるようだ。
「"決まり文句"っていうのを唱えないと駄目なのかな?でもそれは、神殿に入ってから教えてもらえるからって、先生にはぐらかされちゃったんだよね……」
可愛らしい桜色の小さな唇をツンと尖らせて、不服そうにアリアネルは部屋の中央に歩み出る。
「うぅん……礼拝堂みたいに祭壇や彫像があるわけでもないし、入り口以外に扉はないみたい。ゼルにも見取り図を見せて聞いてみたけど、構造的に隠し部屋はなさそう、って言ってたしなぁ……」
部屋のちょうど真ん中には、他の大理石とは色味の違う円形の石が嵌められている。
そこから上を眺めて、見事なフレスコ画を見てから、この芸術を害さないように仕掛けを作るのは難しそうだと判断してアリアネルは足元へと視線を向けた。
「天井も壁も何もない。あるとしたら、階下……?でも、見取り図を信じるなら、下の階の書庫につながってるだけだと思うんだけど……その間に、何かあったりするのかな?この不思議な色の石とか、あからさまに怪しいし」
言いながら、ぺたん、と地面に座り込んで床に触れてみる。
ピカピカに磨き上げられた他の大理石とは、手触りからして違うらしい。どうやら、石の上に何か色を塗布したわけではなく、材質そのものが異なるようだ。
「石……大地……といえば、地天使?ダメもとで、地天使の魔法で、この石を割ってみる?……いやいや、さすがにそんなことしたら、地割れみたいな大きな音が出ちゃうよね。困ったな……皆の役に立ちたいのに」
しゅん、と思わず声が沈む。
一番怪しいと思われたこの部屋が空振りなのだとしたら、今日のところは一旦収穫無しという事実を受け入れ、帰るしかないだろう。昼休憩とて有限だ。いつまでも広場に現れなければ、シグルトとマナリーアが訝しむ。
(落ち着いて、アリアネル。考えるの。……降り立った時から、私がこんなに息がしやすいことを考えると、ここには瘴気が満ちているはず。ってことは、天使にとっては猛毒の場所ってこと。勇者一行に神託――という名の死後の眷属契約――を与える儀式は、第一位階の正天使が現れるんだろうから、例外。正天使だけは、魔界の瘴気の中でも、本調子に振舞うことは出来ないけど顕現することくらいならできる、ってパパも言ってたし)
そろり、と石の床を撫でて、頭を回転させる。
(でも、毎年恒例の、春の受け入れと見送りの儀式は違うはず。それが本当に、パパが言ってた”寵愛”を与えるに相応しいかどうかの、天使側の見極めの場なのだとしたら――ここの瘴気の濃さがどれくらいかはわからないけど、加護を与えた天使が、その人間を眷属にするために現れるなんておかしい。天使にとって、瘴気は猛毒なんだから)
そもそも、都合よく儀式の日に天使がこの場に顕現するなど、人間と天使が手を組んででもいない限り不可能だ。
アリアネルのような特殊な事例を除いて、基本的には目視出来る距離にいなければ、魂の輝きは天使にも見えないという。
普段、日常のほとんどを天界で過ごし、必要に応じて『役割』を果たすために人間界へと降りるだけの天使が、いちいち己がかつて加護を与えた人物の動向を毎日把握しているとは思えない。
夜がなく、天気という概念もなく、ただ毎日眩しい太陽の光が降り注ぎ、平穏な毎日が過ぎていくだけの天界では、季節や時間という感覚は殆どないだろう。
ずっと薄暗い世界に暮らす魔族らも、同様に今の人間界がどんな季節で、どういう発展を遂げているか、などということには大した興味を持たないのだから。
「だから、天使や魔族には、人間基準の時間の流れで、毎年訪れる特定の一日を覚えておくっていうのは難しいんだよね。パパも、魔族の皆も、私の誕生日を覚えるの苦手みたいだし……」
唯一それを忘れず覚えていてくれるのは、頻繁に人間界の動向を探りに行くゼルカヴィアだけだ。
彼は、新月の度に密命をこなしているせいか、”ひと月”という人間界の時間の単位に敏感なのだろう。
今から考えれば、ゼルカヴィアに育ててもらえたことは、非常に幸運だったと言わざるを得ない。
そうでなければ、アリアネルは誕生日という概念すら知らずに育ち、年齢を数えるということも出来ず、学園への入学に適正な時期もわからなかったに違いない。仮に入学できたとしても、その後の日常生活で、『お嬢様ゆえの世間知らず』では済まされないほどの常識はずれな行動の数々に、悪目立ちして怪しまれてしまっただろう。
皮肉屋の青年が『人間の風習というのは、理解しがたいものですねぇ』などと言いながらも、毎年ロォヌに事前に食事を豪華にするように申し伝えてアリアネルの好物ばかりを用意させ、財政を管理するミュルソスに了承を得て人間界でアリアネルが喜びそうなプレゼントを当日までに入手し、城中の魔族に裏でこっそりと通達して、すれ違うたびに『誕生日おめでとう』と言ってもらえるような今の”アタリマエ”は、ゼルカヴィア以外の魔族に育てられていたとしたら、決して叶わなかったはずだ。
とはいえ、ゼルカヴィアが毎年そんな風に手を回している様に気付いていないわけでもないだろうに、少女が一番誕生日を寿いでほしい魔王だけは、素知らぬ顔でいつも通りの日常を過ごすのだが。
「ぅ……なんか、関係ないことで傷つきそう……いや、いつか、パパにも絶対、『誕生日おめでとう』って言ってもらうけど!!来年こそは!」
つい数か月前に顔を合わせた際に、誕生日どころか少女の年齢すら把握していなかった父を思い出してくじけそうになるが、持ち前のポジティブさで気持ちを切り替え、ぐっと拳を握って顔を上げる。
誕生日を祝ってもらうと言うことは、誕生を喜んでもらうということだ。
アリアネルが生まれてきてくれてよかったと、今日の日までの健やかな成長を喜んでくれることと同義だ。
ともすれば、いつアリアネルが死んでも構わない――とでも言いだしそうなあの鉄面皮の父親に、『おめでとう』と言ってもらうことは、つまり、アリアネルの存在を全肯定してもらうことに等しい。
――大好き、と言ってもらうことに、等しいのだ。
「しょうがない。今日はもう諦めて――」
帰ることにしようか、と制服の裾をパンパンと払ってから立ち上がった瞬間だった。
《――あぁ、待つがよい。類まれなる眩しき魂の持ち主よ》
「っ――!?」
誰もいないはずの広間に、謎の声が響いたのは。
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