第153話 神殿⑤

 小さな子供くらいなら軽く吹き飛ばされてしまうのではと思うくらいの強風が吹き抜け、アリアネルは象牙色の髪を押さえながら、そっと片手を掲げて父から貰った指輪を見つめた。

 そのまま、ゆっくりと瞳を閉じて、学校で習った通りに解呪の呪文を口の中で唱える。耳元で唸る風の勢いに集中を乱されぬよう、神経を研ぎ澄ました。

 脳裏に描くのは、猫顔の愛らしい友人の姿。アリアネルのために、と言って、必死な形相で、全身の毛を逆立たせながら、最高純度の魔力を捻出して、この小さな藍色の水晶へと封じ込めていた。


解呪ディスペル


 呪文を締めくくると同時に、ぶわっ……と生暖かい空気が指輪から放たれ、アリアネルを包み込む。


(あぁ、やっぱり――息がしやすい)


 王都へ足を踏み入れた瞬間からずっと感じていた息苦しさから解放され、大きく深呼吸をする。目には見えないが、ミヴァが込めてくれた魔法によって生み出された瘴気が、この身を包んでくれているのだろう。

 ふぅ、と吐息を吐いた後、アリアネルはすぐに気持ちを切り替え、視線を鋭くする。

 ミヴァが込めてくれた魔法は、三回分のみだ。一回たりとも無駄には出来ない。

 力強く足を踏み出しながら、口の中で呪文を唱えた。

 

「我、重力を司る魔族に乞う。この身を風に舞う木の葉のごとく、地上の理から解き放て――!」


 呪文が完成した途端、踏み出した足が地面を蹴る抵抗が消失する。いつものように歩いていただけにも関わらず、地を蹴った脚は、重力から解き放たれたかのように凄まじい勢いで身体を前方へと射出した。

 勢い余って転ばないように、必死に足を動かす。


(塔の端――目標まで、三歩!)


 体感速度から目測で距離を測り、覚悟を決める。

 見取り図が正しいのなら、この手法は間違っていないはず。


(大丈夫っ……大好きなパパと、何度も、何度も、練習した!魔族の魔法なら、私はいま生きている人間の中で、誰より上手に行使できる!)


 幼いころから、忙しい合間を縫って気まぐれに訓練に付き合ってくれた父の顔を思い出し、勇気をもって足を踏み出す。

 ぴったり目測通り三歩目で、塔の一番端に辿り着いた。


「っ、えいっ――!」


 ダンッ

 勇気を持って踏み出した最後の一歩は、雲に一番近い位置から少女の身体を下界へと解き放つ。

 父を象った天使像に見守られるようにして、アリアネルの身体は呪文の通り木の葉のごとく、軽々と風に乗った。


(天使みたいに空を飛べない魔族が困らないようにって、パパが造った中級魔族――逢ったことはないから名前は知らないけど、この魔法は何度も練習したから、ちゃんと使える自信がある!)


 思えば、魔王に魔法を習い始めてから比較的早い段階でこの魔法を教わった気がする。

 元天使の魔王は、移動の際には空中を飛ぶことがよくあった。戦闘訓練と称して竜の棲み処に連れて行かれるときはたいてい、その険しい山脈を踏破する面倒を嫌って、アリアネルの小さな体をひょいと抱えて、あっさりと空中に飛びあがるのだ。

 そんなある日、いつもの優雅な空中浮遊の最中に、魔王は重力を司る魔族の存在を教えてくれた。


 石造りの建物を一瞬で作るのは、大地を司る天使の魔法だ。魔界では、魔王以外には決して行使できない。

 つまり、魔王城から離れた領地で暮らす魔族らは、地道に岩肌から採掘した石を運んで積み上げるしか、自分たちの棲み処を造ることすら出来ないのだ。

 故に魔王は、重力を司る魔族を造ったのだと言う。

 採掘した岩を軽くし、一度に大量に運搬が出来るように。

 万が一、工事現場で高所から落下するような事故が起きても、深刻な事故にならないように。

 ――治癒の魔法は、天使の魔法だから。


(パパの、魔族の皆を想う優しい心が生んだ魔族の魔法――そして、魔法の訓練中に万が一私が落下したときに、自分で自分の身を守れるようにって教えてくれた魔法――!)


 一度だけ、魔王が魔法の訓練中に急に体調を崩して、あわや墜落の危機に陥ったことがあった。

 あの翌日、魔王は真っ先にこの魔法をアリアネルに教えたのだった。


 勿論、「何かあった時はこれで身を守れ」などと言って教えてくれるような魔王ではない。

 意図を説明することなどなく、いつものように淡々と、鼻を鳴らしながら何食わぬ顔で教えてくれただけだったが、アリアネルは大好きな父の分かりにくい優しさをしっかりと受け取っていた。

 

「っ……!風、強っ……!」


 凡そ人間では成し得ぬ飛距離を飛びながら、アリアネルは風に負けぬよう必死に目を凝らす。

 ぐんぐんと、目的の座標――天使降臨の間があるとされる建物へと続く廊下が近づいてくる。

 常人であれば、恐怖で気を失う程の高度からの落下。当然、通常であれば、大理石に激突して無惨な死に様を晒すだけだろう。それ故、そんなルートでの侵入を警戒などしている筈もない。――学園で配られた資料にさえ、重力を司る魔族の存在は記されていなかったのだから、尚更だ。

 だが、今のアリアネルは木の葉程に身軽な存在。恐れることなど何もない。


「っ、と――!」


 危なげなく着地と同時に転がるようにして受け身を取って全身で衝撃を逃がす。幸い、大きな物音が立つようなことはなかったらしい。

 しばし息を殺して周囲を伺い、人が集まってくる気配がないことを確認してから、アリアネルは安堵の息を漏らしてそっと建物の中に侵入した。


(水晶に込められているミヴァの魔法はあと2回。帰るときにまたここから飛び降りる必要があるから、そのときに一回使うとして――気分が悪くなったときや緊急事態が起きたときに使えるのは一回だけってことになる。慎重に使わなきゃ)


 ごくり、と息を呑んでから、そっと深呼吸してみる。

 ここは既に研究施設の一画だ。

 学園の卒業生や厳しい試験を経て、神官として勤めることが認められたものしか往来しない場所のはずだが――


「一般開放区画よりも、息がしやすい……」


 ポツリ、と感想を口の中で呟いてから、大きな竜胆の瞳がキリリと釣り上がる。

 どうやら、天使のお膝元たる『神殿』には、一般市民に秘匿されるべき重大な秘密があるようだった。

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