第28話 正天使③
「――――」
しん……と部屋の中に静寂が舞い降りる。
パチリ、と部屋に備え付けられた暖炉が小さな音を立てた。
「……そうですね。加護は、身体が成熟しないうちに外敵によってその命を脅かされないようにと、天使が付与するものらしいので……人間界で生まれているであろう貴女の代わりの勇者候補が十五歳を過ぎ、魔界へと攻め込んで来るまでは、魔界に身を置き、優秀な戦士兼人間界のスパイとして暮らしていくことを、魔王様もお許しになるでしょう」
代わりの勇者候補が今何歳で、どこにいるのかについては、まだ調査中だ。
故に、アリアネルが勇者と戦うことになるのが何歳の時のことなのかは明言出来ないが、それでも、必ずその日はやってくる。
魔王が天界にいた頃から幾星霜――骨の髄まで恨みが募っているとしか思えぬほど執拗に魔王を狙う正天使の執念は、伊達ではない。
「勇者が来て、戦って――その後は?」
「――――」
「ゼルは最初に、勇者に負けないように強くなれ、って言ったけど――勇者に勝ったら、その後、アリィはどうなるの?」
答えに窮し、ゼルカヴィアは口を閉ざす。
当然とも言えるアリアネルの問いかけに――彼は、明確な回答を示すことができない。
「それは……」
「だって、アリィは人間なんだよね?じゃあ――アリィが死んだら、アリィ、正天使の眷属になるの?」
「……はい???」
少し、予想と違う問いかけを受けて、ゼルカヴィアは目を瞬いて聞き返す。
アリアネルは、むっと口を尖らせて、不服そうにぼやく。
「アリィ、絶対に嫌。パパをいじめる正天使の手下になるってことでしょ?」
「手下――ま、まぁ、そうですね」
「そのうち、人間の子供に加護をつけて、『アリィの代わりに魔族の皆と戦って』って言わなきゃいけないんでしょ?ゼルとか、ロォヌとか――何より、パパをいじめろ、って言うってことだよね?」
「そう……なります、ね……」
「ヤだ!!絶対、ぜ〜〜ったい、ヤだ!!!」
ぷくっと小さな頬をはち切れんばかりに膨らませて、不満を募らせるアリアネルに、毒気が抜かれる。
「ねぇ、ゼル。アリィ、ずっと魔界にいたい」
「――……」
「天使の仲間になんか、なりたくない。パパも、ゼルも、魔族の皆も、大好きだよ。アリィは人間で――皆とずっと一緒に生きることは、出来ないかもしれないけど。それでも、アリィ、皆が、大好き」
「アリアネル……」
うる、と竜胆の瞳が水滴を湛えて潤む。
少女なりに、生きる世界が違うことを受け入れながら――精一杯の主張を繰り返す。
「頑張って、アリィ、勉強するよ。パパの役に立てるようにする。勇者にも、負けない。だから――アリィが頑張って、パパの役に立てるようになったら――天界に行かなくてもいい?魔界の皆と、仲良しのままでいてもいい?」
「……そう……ですね……」
不安そうに瞳を揺らして、ゼルカヴィアの袖口を掴むアリアネルの力は、とても弱々しい。
胸が締め付けられそうになりながら、ゼルカヴィアは想像する。
(もし、アリアネルが死んだ後――正天使の眷属になる、として……)
「――――それは、天地がひっくり返ったとしても、許し難いですねぇ……」
「!?」
画集にあった、二代目正天使の姿を脳裏に思い浮かべ、ビキッと額に青筋が浮かぶ。
この、手塩にかけて育てた幼子が、世界で最も忌々しい存在に攫われ、眷属として言いなりにさせられる未来など――ゼルカヴィアには、どうしたって受け入れようがなかった。
大好きな魔族たちと敵対などしたくない、とこの美しく大きな竜胆の瞳に涙を浮かべているのに、あの邪悪な笑みを浮かべる正天使の命令で、少女が無理に魔族討伐に加担させられる姿を想像すれば――たとえ自分の力では敵わないと知っていたとしても、問答無用で正天使に全力の戦いを挑んでしまう自信がある。
「ぜ……ゼル……?」
急に怒りを露わにしたゼルカヴィアを恐る恐る見上げる少女に苦笑して、そっと頭を撫でてやった。
(……そろそろ、認めましょうか)
きっと、どれほど言い訳をしたところで――真実は、覆らない。
ゼルカヴィアは、魔王の命に背き、この脆弱な人間の子供に、情を移してしまったのだ。
今更、彼女を無情に殺すことも、この愛らしい顔を悲しみに暮れさせることも出来ないくらいに――
「……魔王様に、お願いしてみましょう」
「え……?」
「もちろん、貴女が、魔王様のお役に立てるような、優秀な人材になることが必須条件ですよ。ですが、それが叶ったとしたら――十五を過ぎた後も、どうにか、貴女がそれまでと変わらず、安らかに生きる術がないか……と。生きている最中も、死後の世界でも――永遠に、貴女の笑顔が曇らぬようにするにはどうしたら良いか、と。魔王様に懇願してみますよ」
「本当……!?」
「えぇ、本当です。約束します」
パァッと涙の色を消して顔を輝かせたアリアネルの小さな小指をとって、優しい約束を交わす。
“パパ”の優しさを盲目的に信じているアリアネルは思い至っていないのかもしれないが――勇者を倒した後、用済みだと言って魔王に殺される可能性は、まだ十分にある。
(そうならぬよう、嘆願しましょう。……私が、彼女の記憶を消して、人間界に戻してしまっても、結果は同じですからね)
記憶を司る力は、こういう時に便利だ。
記憶を全てかき消してしまえば――その人物は、死んだも同じ。
それまでの人生が掻き消えるのと、同義だからだ。
「仮に、どうしても魔王様にご納得いただけなかったとしても――私が、絶対に、正天使の元にだけはやりません。約束します」
「本当?」
「えぇ。やりようなど、いくらでもあるのですから」
にっこりと笑うゼルカヴィアが浮かべるのは、悪を背負うにふさわしい魔族の笑み。
外的要因で、魂を汚すのは、魔族の十八番だ。
彼女が死ぬ前に、その魂を汚してしまえば、少なくとも天使に彼女を捕られることはない。
「さぁ、そのためにも、今日は眠りなさい。明日から、またビシバシと鍛えていきますよ。魔王様のお役に立ち、魔王様に少しでも気に入られるような存在になってくださいね。アリアネル」
「うん!……アリィ、明日も、頑張る!」
天使の笑顔で魔族に微笑んで、アリアネルは元気よく宣言する。
静かに燃える暖炉の火だけが、二人をそっと見守っていた。
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