第187話 夢の終わり⑥
「ゼルカヴィア」
周囲に陰鬱な空気が漂うのを切り裂くように、魔王はいつも通りの様子で右腕を呼びつける。
すぐにゼルカヴィアも、いつも通りに魔王の傍へと控えた。
「は。ここに」
「俺は戻る。火の属性を天界に奪われるわけにはいかない。予定通り、今造っている魔族をオゥゾの後継としてすぐに仕上げる」
ぴくっ……とルミィの細い肩が一瞬揺れるが、美女はただ長い睫毛をそっと伏せるだけで、何も声を発することはなかった。
「この場の後始末は任せる。オゥゾが広げた炎は、ルミィが消せ。お前はその子供を蒼炎の向こうにいる人間どもの群れに送り返し、記憶の辻褄を合わせろ」
ルミィもゼルカヴィアも、従順に返事をする。
魔法は基本的に、使役者が死んでも効力を失わない。今も、周囲にはオゥゾが無差別に放った炎が渦巻いていた。
(私が、勝手なことをしたから、ゼルに迷惑かけちゃった……)
ぐすっ……と鼻を鳴らして、アリアネルは亡き腫らした眼をこする。
後悔はしていない。きっと、何度やり直しても、アリアネルは周囲の人間に訝しまれる危険を冒して、この場所へと乗り込んでくるだろう。
だが、天使との戦いで疲れているゼルカヴィアの手をさらに煩わせてしまうのは事実だ。
「それから、オゥゾの始末についてだが――」
そっとゼルカヴィアに近寄り、魔王は低く指示を出す。轟々と周囲で燃え盛る炎の勢いにかき消され、アリアネルの耳にその内容までは届かなかった。
「ぇ……し、しかしそれは――!」
「問題があるのか」
「い、いえ、その……ですが前例がなく、成功する保証は――」
「では、試してみせろ。オゥゾの身体はいつもの場所ではなく、一度城に送り返せ。ミュルソスには伝えておく」
「で、ですが魔王様――」
途切れ途切れに聞こえる二人の問答が気になって、アリアネルは顔を上げて振り返る。
ゼルカヴィアは困惑した顔で魔王に何かを訴えているようだった。
「アリィ」
「えっ?ぁ……ルミィ……」
二人のやり取りに気を取られていたアリアネルは、ハッと息を飲んでいつの間にかそばに来ていた美女を見上げる。
「ありがとうございます、アリィ。ここまで来てくれて」
「ううん。ルミィこそ……ありがとう。私の呼びかけに応えて、力を貸してくれて」
「アリィのためなら、いつでも力を貸しますよ。オゥゾもそう言っていたでしょう?」
「そう……だね」
しんみりと寂しい気持ちになってしまい、そっと俯く。
少女の腕の中、満足げな表情で事切れた青年魔族は、いつだって白い歯を見せて笑いながら、そう言ってくれていた。
「最期に、アリィに会えて、言葉を遺せて――きっとオゥゾも、喜んでいます」
「そう……かな」
「はい。私たちは、互いのことを誰より良く理解していますから」
それならば、なぜ、オゥゾをその手に掛けたのか――
尋ねたい気持ちはあるが、そんなことを問うのは無二の相棒を失ったばかりのルミィには残酷なのではという配慮で、アリアネルは何も言葉を紡ぐことが出来ず、下唇を噛みしめた。
背後では、魔王とゼルカヴィアのやり取りも終わろうとしているようだった。
「最初から、期待はしていない。試みるだけ試みろ、というだけだ」
「はい……魔王様が、そう、仰るのであれば」
「わかればいい。……では、俺は戻る。お前たちも、すぐに行動に移れ。ぐずぐずして、万が一にも他の天使が横やりを入れてくるようなことがあれば、面倒くさい」
ゼルカヴィアとのやり取りを終えると、魔王は振り返ることもなく無詠唱で紫の魔方陣を展開し、いつもの無表情でその中へと足を踏み入れて姿をかき消した。
「パパ……」
「さぁ、アリアネル。聞いていたでしょう。すぐに貴女を元の聖騎士団たちの元へと送り返します。周囲の記憶を弄って――そうですね。瘴気に当てられて倒れ込み、陣の奥で寝込んでいた、とでもしておきましょうか」
ぐっとアリアネルの腕を掴んで立たせながら、ゼルカヴィアは眼鏡を押し上げ、淡々と次にやるべきことを頭の中で整理していく。
「ルミィ。オゥゾの身体は一度、ミュルソスの元へ送ってください。魔王様が事情はお話しくださるようです。それから、この地域の炎の始末は全て貴女に任せます。……消す人間の記憶が多くなると、面倒です。作戦遂行の際には、決して人間たちに姿を見られないように」
「はっ」
戦闘衣装に抜群のプロポーションを包んだ美女は、膝をついて命令を拝受すると、すぐに行動へと移る。
相棒を失ってすぐとは思えないほど、きびきびとした動きだった。
「ゼル……」
「さすがに、貴女がそもそもここへ来ていなかった――とするのは、消す記憶が膨大になり過ぎますからね。記憶を弄るのは、今日、貴女が私に
ゼルカヴィアの顔は、有無を言わせぬ厳しさがある。
天使の介入を恐れている、というのは魔王の言葉を思い出せばすぐに思い至った。
視線を遣れば、ルミィも厳しい顔で、オゥゾの死体を送り返す
今、ここで、いつまでも蹲って帰ってこない死者を悼む時間はない。
どれほど親しくしようが、アリアネルとオゥゾが築いた絆は、十年程度――数千年の時を重ねてきたルミィやゼルカヴィアとは比べ物にならない。
その彼らが、前を向いて、やるべきことをしているのだ。ここで甘えたことを口にすることは、とてもできなかった。
「……わかった」
「聞き分けが良くて何よりです。偉いですよ、アリアネル」
こくん、と涙を堪えた頷いた少女のアイボリーの頭を、複雑な表情を湛えながら、そっと撫でてやる。
「大丈夫。魔界へ帰ってきたら、いくらでも付き合ってあげますから」
「うん。……あのね、ゼル。お願いがあるの」
アリアネルは、大好きな長身の青年をまっすぐ見上げて、真摯に頼む。
「私がこれから、どんなに哀しそうにしてても、辛そうでも――お願いだから、私から、オゥゾの記憶を消したりしないでね」
「アリアネル……」
「お願い。約束、だよ。絶対、絶対だよ。オゥゾのことを思い出すと、きっと何度も泣いちゃうし、暗い顔をしちゃうと思うけど――でも、絶対に、記憶を消したりはしないで」
少女の声は、酷く強張っていた。
その願いが、どこまでも本気であることを感じさせるように――
「……わかりました。約束しましょう」
言いながら、ゼルカヴィアはかつて幼い少女に教えたように、そっとその細い小指を取って己の小指と絡めた。
「うん。約束、だからね!」
「はい。約束、です」
きゅっと絡められた小指に縋るように、潤んだ瞳でアリアネルは念を押す。
辛くても、苦しくても、彼との想い出を全て無かったことにしたいわけではない。
オゥゾとの別れは哀しくてやり切れないのは事実だが――彼と過ごした十年の月日は、まぎれもなく楽しく幸せな、温かな陽だまりのような思い出ばかりなのだから。
「行きましょう。私も、まだ大仕事が残っています」
「うん!」
小指を絡めた約束事は、決して違えぬ誓いなのだと、幼いころに教わった。
記憶を司る魔族は、普通の魔族よりも記憶力が良い。たった十年ほど前に幼女に教えた儀式についても、きっとよく覚えているはずだ。
絡めた小指を解いて、縋るようにしっかりとその手を握り締めると、抵抗することなくそっと優しく握り返してくれる。
まるで本物の『家族』のように、優しく、力強く、大きな手で包み込んでくれる、昔から変わらないゼルカヴィアの温もり。
(私には、ゼルがいる。パパも、お兄ちゃんもいる。ルミィも、ミュルソスも、ロォヌも、ミヴァも――お城の魔族の皆がいる。……きっと、大丈夫)
本当は、状況が許すならば、大声を上げて泣き叫びたいほど哀しい。
だけどきっと、魔王城に戻ってからならば、ゼルカヴィアはそんな少女の心もしっかりと受け止めて抱きしめてくれるだろう。少女の涙を拭って、強く生きる術について、きっと、優しく教えてくれる。
ミュルソスはいつもの優し気な笑みで頭を撫でてくれて、ルミィは一緒にお風呂に入ってくれるだろう。ロォヌは温かな心を落ち着かせるお茶を淹れてくれて、ミヴァは心配そうに寄り添ってくれるはずだ。
いつもと変わらない魔王は、アリアネルがお茶会に現れれば、花茶を啜りながら、どんな弱音も黙って聞き流してくれるだろう。
どんなに哀しく辛いことがあっても、アリアネルは、周囲の大好きな人たちに囲まれて、強く、大きく成長する。
だから、記憶を消す必要などないのだ。
オゥゾと過ごした思い出は、どれも決して無くしたくない、宝物のような日々ばかりだから。
今にも潰れそうな小さな胸を抱いて、アリアネルはぐっと涙を拭う。
せめて新しい雫がこぼれないよう、無言で奥歯をしっかりと噛みしめたのだった。
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