第186話 夢の終わり⑤

「ニンゲンは――殺ス――!」

「ぁ――」


 紅蓮の瞳がアリアネルを捉え、その長身から尋常ではない魔力が溢れだす。

 未だかつて見たことがない程の莫大な魔力量に、思わずアリアネルは固まって声を失った。

 オゥゾが放てる最高威力の魔法を練ろうとしていることが、嫌でもわかったからだ。


(駄目――だった……)


 自分の説得など、何の意味も、なかった。

 オゥゾを正気に戻すことは出来ず、このまま、無意味に殺されるしかないのだろうか。


「アリアネル!」

 

 己の無力に絶望し、佇むことしか出来ない背中に、ゼルカヴィアの声がかかるが、反応できない。

 ただ、目の前にいる、慣れ親しんだ青年の燃えるような瞳を呆然と眺め――


 ドンッ……


「――ぇ……?」


 小さな衝撃音と共に、目の前の青年が小さく揺れる。

 それと同時に、周囲の瘴気を悉く集めて練り上げられていた莫大な魔力が、一瞬で宙に霧散した。


「オゥ……ゾ……?」


 呆然と、唇から震える声が零れ落ちる。

 一瞬、キン――と耳鳴りがして、周囲の音がかき消えたような錯覚がした。


「っ……がはっ……」


 苦悶の声と共に、青年の口からごぼり、と鮮血が溢れだした。

 視線を降ろせば、青年の胸から、鋭い刃が生えている。

 鋭く尖った――水で出来た、鋭く薄い刃。


「ル……ミィ……」

「……馬鹿オゥゾ。死ななきゃわからないなんて、ね」


 炎の魔族が視線だけで振り返ろうとするのを許さず、氷のような冷たい声が飛ぶ。

 己の長杖に刃を生やすようにして後ろから青年の身体を貫いた美女は、あっさりと無情に武器を引き、胸から刃を抜いた。


「オゥゾ!」


 刃が抜けるのに合わせて傷口から鮮血を噴き出した青年に、アリアネルは悲鳴のような声を上げて慌てて駆け寄った。

 高温の炎に煽られカラカラに乾いていたはずの地面が、見る見るうちに溢れ出す血液で泥濘んでいく。

 力無く頽れた青年の頭を抱き抱えるようにしながら、アリアネルは顔を上げて、冷ややかな目で見下ろす美女を仰いだ。


「ルミィ!どうして――」

「私たちは一心同体。互いの足りないところを補い合って生きる存在モノ。――片割れオゥゾがしでかした不始末の尻拭いは、私の仕事だわ」


 びゅっと慣れた手つきで長杖を振るえば、付着した血液が飛び散り、水の刃が一瞬で掻き消える。

 

「は……さ、すが、相棒……俺のこと……よく、わかってるじゃねぇか……」

「オゥゾ!」


 掠れた声にハッと手の中を見下ろすと、先ほどまで虚ろだった瞳には、見慣れた光が帰ってきていた。


「やっぱ……お前、が……本物、だったん、だな……」

「当然でしょ」

「情け、ねぇ……こんな、に、なるまで……正気に、戻れねぇ、なんて……」

「全くだわ。本当に、馬鹿な男ね」

「ルミィ!」


 窘めるようなアリアネルの声に、オゥゾはふるふると首を振って制止する。

 

「いいんだ、アリィ……言葉なんてなくても……俺たち、は……わかってる……」

「でもっ……」


 涙で言葉を詰まらせるアリアネルに、力無く笑って、ゆるりと紅の瞳を巡らせる。

 視線の先には、無感動な瞳を湛えた魔王が、静かに佇んでいた。


「魔、王様……申し訳……ありま……せ……」

「フン……遺す言葉があれば、聞いておく」

「パパ!」


 アリアネルの声を再び制して、オゥゾはゆっくりと血を吐いたばかりの口を動かす。

 命の灯が消えかけているのは明らかだ。わずかな時間に、臣下として為すべきを成さねばならない。


「俺が天使、に……埋められた、と……思しき、石、は……きっと……腹の、辺り……です……」

「そうか」

「右胸に……イアスの、死体から……取り出した……石も……」

「あぁ」


 最期の最期まで、臣下としての役割を果たす――それが、造られし存在である、オゥゾの存在意義。

 頭ではわかっていながらも、どうにもやるせなくて、アリアネルはポロポロと大粒の涙を流した。


「アリィ……泣くな……泣くなよ……」

「だって……だってっ……!」


 こんなにも瘴気が濃い空間では、人間のアリアネルが使える治癒魔法の効果など期待できない。

 治天使の名前を使って命じることが出来る魔王ならば、あるいは――などと考えたところで、意味がないこともわかっている。

 一度、魔王の命令を無視して暴走したオゥゾが、回復した後にもう一度暴走しない保証はない。

 今、正気に戻れた理由が何なのかすら、わからないのだ。――もう一度暴走した後、正気に戻す方法が確立されたわけではないなら、魔王は決してオゥゾを癒してもう一度懐に入れることはないだろう。

 魔王が、どこまでも非情に臣下を切り捨てることを知っているアリアネルは、どうしようもない現実を前に、己の無力を噛み締めて泣くことしかできなかった。


「俺は……アリィが、笑ってんのが……好きだ……」

「オゥゾっ……」

「アリィが笑ってると……真っ暗な魔界に……太陽が、出たみたいに、明るく、なる気がして……つまんねぇ、毎日も……楽しくて……抱きあげてやるだけで笑うアリィが……可愛くて……」

「っ、ぅ……ひっく……」

「だから……泣くな、よ……アリィが泣いても……俺は、もう――”抱っこ”して、やれねぇから、さ」


 嗚咽を漏らす少女の頬に手を添えて、不器用に涙を拭う。

 それは、先ほどアリアネルに魔法を放とうとした見知らぬ手ではなく、何度も愛情を持って少女を抱き上げてくれた、優しく温かい青年の手だった。


「……最後に、問う」


 静かに声をかけたのは、魔王だった。

 翳み始めているだろう視界の中、ゆるりと視線が向けられるのを待って、王は静かに問いかけた。


「先程、その人間を殺そうとしたとき――」


 その身に、莫大な魔力を背負った、あの瞬間。


「――黒炎を発動しようとしたのは、何故だ」

「!」


 アリアネルは驚いてオゥゾを見やる。

 天使との戦に備えて付与されたと言う、奥の手とも言える魔法を、人間相手に放とうとしたその理由は――


「俺は、馬鹿、だから……色々、何も、わかんなかった、けど……」


 はっ、と力無く吐息で笑いながら、オゥゾは言葉を紡ぐ。

 頭の中に響く魔王の命令と、ルミィや魔王やゼルカヴィアといった見知った姿をしている敵と――目の前にいる、少女。

 頭の中の魔王は、人間は例外なく全員殺せと命令していた。

 目の前の、赤子の頃から愛着を持って触れ合ってきた少女も、躊躇なく殺せと言った。


 何が真実か、わからなくなっていたあの瞬間――


「黒炎、だったら……絶対、本物の魔王様、は……拒否、してくれるって……信じ、てた……」

「オゥゾ――……」


 本能には逆らえない。魔王から人間を殺せと言われれば、危害を加えず見逃すことは絶対に出来ない。

 だが、それでも、目の前の少女を害したくない。


 何が真実かはわからなくても――オゥゾは、魔王の、非情なまでの矜持に、賭けた。

 目の前にいる魔王が本物でも、頭の中の魔王が本物でも――絶対に、人間界で黒炎を発動することだけは、許可をしないはずだ。

 世界を正しく導く役割を担う、己が長年一途に仕え続けた絶対の主君は、その一線だけは決して違えることはないと、信じていた。


「あとは……きっと、最後は……ルミィ、が……俺を……殺して、でも、止めてくれる、って……知ってた」

「……馬鹿ね」


 軽快に笑い飛ばそうとしたのだろうか。オゥゾは苦し気に咳き込み、血を吐く。

 ひゅーひゅーと喉から洩れる呼気は弱々しく、もはや命の期限が幾ばくも無いことは明らかだった。


「最後に、ルミィに遺す言葉はないのですか」


 眼鏡を押し上げながら、ゼルカヴィアが催促する。

 アリアネルや魔王に言葉を遺してばかりで、肝心のルミィに対しての言葉がない。

 誰より強固な絆を築いてきた片割れにこそ、言葉を遺すべきだろうと推察しての配慮だったが、オゥゾはハッと吐息だけで弱々しく笑った。


「いらねぇよ……俺たちの間に……言葉、なんて……」

「……そうね。私たちは、誰よりも互いのことを……わかってる」


 もはや、殆ど見えなくなっているだろうに、それでもゆるりと顔を巡らせ、美女の声がした方に向かって、オゥゾは唇を動かす。

 

「次の……炎の……魔族とも……うまく、やれよ」

「ふん……貴方に心配されることじゃないわ」


 ルミィの可愛くない返事に、オゥゾは満足したらしかった。

 ニカッと見慣れた笑みを浮かべ、伝えたかった最期の言葉を、音に乗せた。


「じゃあな、相棒。お前と過ごした、数千年――悪くなかった、ぜ」

「……そう。……私もよ。馬鹿オゥゾ」


 美女の返事を、聞き届けたのか、否か――

 古来より人間界を恐怖の渦に巻き込んできたという最恐の魔族は、ふっ……と最期の命の灯をかき消したのだった。

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