第18話 おでかけ②

 虚空に転移門を開いた後、足を踏み出す前にゼルカヴィアは膝を降り、手を繋いでいたアリアネルと目線を同じにして竜胆の瞳をまっすぐに見る。


「さぁ、アリアネル。もう一度、約束をしましょう」

「はい!……ぜるの手を、はなしません!」

「それから?」

「あんまりきょろきょろ、しません!おぎょうぎよく、します!」

「その通り。そして?」

「もしも近くに白い羽を持った人がいたら、すぐにぜるにおしえます!」

「素晴らしい。完璧ですよ、アリアネル」


 片手を上げて宣言した少女の頭をよしよしと撫でて褒めてやると、アリアネルは嬉しそうに満面の笑顔を向けた。


「さぁ、帽子を被って。初めての人間界は、きっと貴女には眩しすぎます」

「はぁい」


 手にしていた帽子を両手で被って、アリアネルはキャッキャと嬉しそうにはしゃいでいる。


「ちゃんと、昨日渡したネックレスも身に着けていますか?」

「うん!今日のアリィ、おしゃれさん!」

「そうですね。おでかけ仕様です」

「お姫様みたい?」

「そうですねぇ……お姫様みたいになりたかったら、おしとやかにしなくては」


 ぴょこぴょこと手をつないだまま我慢できずに飛び跳ねている少女に苦笑しながら告げると、ハッとした顔でアリアネルは気を付けの姿勢を取る。どうやら、彼女なりの”おしとやか”の表現らしい。


(だいぶ瘴気に慣れてきたのですから、転移先も瘴気が濃い街を選んでいますが――人間界に出て、正天使がアリアネルを取り返そうとやってきたら堪ったものではありません。魔王様が魔力を込めてくださった魔水晶のネックレスもありますし、事前準備は万全でしょう)


 最初に人間界にアリアネルを連れて行くことを相談したとき、魔王は渋い顔をした。

 彼が真っ先に心配したのは、正天使の介入だ。

 どうやらアリアネルは、魂の善性の強さのあまり、天界から見ても一目でわかるほどに、存在が眩しく見えるらしい。

 この三年、魔界で暮らして多少瘴気に慣れたとはいえ、彼女の善性が損なわれたわけではない。未だに無邪気で、嘘を吐くことすら出来ない無垢な存在だ。

 濃厚な瘴気が渦巻く魔界に正天使が踏み込んでくることなどありえないが、多少瘴気が濃い程度の人間界となれば別だ。特に第一天使ともなれば、己の魔力を消費して人間界に姿を現す”顕現”が出来る。

 王都のような聖気塗れの場所ほど容易く顕現出来るわけではないだろうが、いつぞやのワトレク村のような地獄絵図のような場所でもない限り、安心は出来ない。

 

『子供にこの水晶を身に付けさせろ。正天使の加護の上から、俺の結界を薄く張る効力を付けた。人間界でもしばらくは天使の目を誤魔化せるだろう』


 第一位階の正天使が顕現し、襲ってくるとなれば、いかにゼルカヴィアといえど、太刀打ちできない。

 魔王は、アリアネルを護るためではなく、己の右腕に火の粉を降りかからせないために、水晶を与えたのだ。


(天使の介入は、これで防ぐことが出来るでしょう。行先は王都から離れた田舎を選びましたし、よほど運が悪くない限り、王都の神官などいないでしょうが――いかにも天使が好きそうなこの愛らしい美貌と、邪気のない聖気の塊みたいな性格で、悪目立ちするわけにはいきません)


 天使が加護をつける対象が、美しい造形をしているというのは、世界の共通認識だ。「天使の加護を賜ったよう」というのは、人の容姿を褒める最大級の賛辞になるくらいに。

 アリアネルには少しサイズが大きすぎる帽子は、日光だけではなく、その天使のような人目を惹く相貌をも衆目から隠してくれるだろう。万が一、神官のような勘の鋭い者がいる可能性を考えて、自衛の手段をとっておきたい。

 幼い頃に加護を賜り、多少なりとも魔法を使える神官たちだが、仮にどれほど優秀だったとしても、所詮は人間に過ぎない。ゼルカヴィアには取るに足らぬ存在だが、ほんの少し目を離した隙に、天使の加護を賜るに相応しい存在だと言って、拐かしに遭ってはたまらない。打てる手は全て打ち、万全の状態で臨みたかった。


「では、行きますよ」

「うん!ぜると、おでかけ!」


 勇ましく握った片手を突き上げて、嬉しそうに宣言したアリアネルに苦笑を刻んで、手を引きながら魔方陣へと足を踏み出す。

 ヴン……と耳慣れた音と共に、景色が一瞬で切り替わった。


「ひゃ――!」


 魔方陣から出た瞬間、網膜を焼いた閃光に、アリアネルは腕で目を覆って小さな悲鳴を上げる。


「目を閉じなさい、アリアネル。眩しいでしょう。ゆっくりと、少しずつ、開くのですよ」

 

 日中でも、せいぜいが曇り空程度の明るさしかない魔界で暮らしてきたアリアネルには、陽光の眩さは未知のものだ。

 ぐっと帽子を深く被せて視界をなるべく暗くしてやりながら、ゼルカヴィアは少女に指南する。


「ぅ……ぅぅ……」


 何度か目を擦っていたアリアネルは、言われた通り素直に薄目を開けて、ゆっくりと光に視界を慣らしていく。

 最初は、目が眩んで全てが真っ白だった視界に、少しずつ、彩が生まれていった。


「ぁ――わぁ――!」


 目の前に広がる光景を正しく認識出来た瞬間、アリアネルは歓声を上げた。


「お花畑!」

「あっ!――待ちなさい、アリアネル!」


 子供というのは、本当に油断も隙もない。

 何の予備動作もなく急に繋いでいた手を振り払い、全力で走り出したアリアネルを呼び止める。


「ぜる!ぜる!!!お花!!お花だよ!!!絵本で見た、お花畑!」


 そこは、街道から外れた森の中。――花畑と呼ぶにはささやか過ぎるその場所は、アリアネルにとっては夢のような場所に違いなかった。

 陽の光が差さない魔界には、花など咲かない。――花を愛でる存在もいなければ、瘴気を糧に生きる魔物しかいない世界では、植物が食物連鎖に組み込まれることもない。

 唯一魔界にある植物に近しいものと言えば、度重なる勇者一行の侵略にうんざりした魔王が、人間たちが王都から開くことができる唯一の転移門の座標の傍に据えた、人間を食べて瘴気を発する凶悪な見た目をした植物型の下級魔族くらいだ。

 見た目も凶悪で可憐とは程遠いそれと違い、色とりどりの花弁を開かせ、華奢な茎ごと陽光の下で花々がそよ風に揺られる光景は、魔界では決して見られぬ風景。

 絵本の中にしか存在しないと思っていたその光景に、絵本好きのアリアネルが感激したのも無理はない。


「こら!手は離さないと約束したでしょう!」


 花が咲き誇っている場所に駆けていき、くるくると嬉しそうに回りながら喜びを全身で表すアリアネルを嗜めながら、ぎゅっと小さな手を摑まえる。

 やはり、この自由極まりない幼児を相手に、事前の約束などなんの意味もなかった。街からだいぶ離れた場所に転移門の座標を置いたのは正解だった、とゼルカヴィアは己の判断の正しさに安堵する。


「ぜる!ぜる!このお花、摘んで帰ってもいい!?」

「まだ駄目です。帰る時に、好きなだけ摘ませてあげますから、まずは用事を先に済ませますよ」

「えぇ~……お花、摘みたい!!」

「我慢しなさい!画材を買いに来たのでしょう。日が暮れては、店が閉まってしまいます。後で必ず遊ばせてあげますから、今はまず街へ行くのです」


 ぶぅ、とむくれるアリアネルの手を引いて、ゼルカヴィアはずんずんと森を歩き出す。幼児に付き合っていては、何一つ用事を完遂出来ない。


「ぜる、ぜる」

「はいはい、次は何ですか」


 最初の約束など完全に頭から抜け落ちているのだろう。きょろきょろと森の中を興味深げに見回すアリアネルに返事をする。


「ここ、まぶしいね!」

「そうですね」

「あちこち、キラキラ、してる!あと、床が茶色くて、ふかふか!音がするの。おもしろいよ!」

「そうですね」

「あ!あのひらひらしてるの、何!?」

「蝶です。蝶々、とも言います」

「ちょうちょ!……あっちで動いたのも、ちょうちょ?」

「あれは鳥といいます。蝶よりだいぶ大きいでしょう?」

「あれが、鳥さん!絵本に出て来た!お歌が上手なの!」

「はいはい、そうですね」

「りすさんもいる?」

「どこかにはいるかもしれませんね。――探しませんよ?まずは街へ行くと言っているでしょう」


 見るものすべてを指さして質問攻めにする幼女に答えながら、ゼルカヴィアは目的地を目指す。

 こんな下らないやり取りが出来るのも、今のうちだけだ。せいぜい、ここらで体力を使い切っておいてほしい。出来れば街では、目立たないように眠っていてほしいくらいだ。


「いつもみたいに、息が苦しくない!」

「そうですか。……この辺りは、人がいませんからね。瘴気も聖気も、どちらも希薄なのでしょう」


 すぅっと深呼吸をするアリアネルに伝えると、ぎゅっと小さな手がゼルカヴィアを引っ張った。


「?……どうしましたか?」


 もしや、トイレなどと言い出さないだろうな――出かける前に行ったばかりなのに――などと不穏に思いながら振り返ると、アリアネルは帽子の下からまっすぐにゼルカヴィアを見上げた。


「ぜる。――連れてきてくれて、ありがとう!アリィ、おでかけ、すっごくたのしい!」

「――……」

「アリィ、ぜるのこと、だいすき!」

「……はいはい。早く行きますよ」

「わ!」


 アリアネルの小さな歩幅に合わせるのが馬鹿らしくなって、ひょいっと慣れた手つきでアリアネルを抱きかかえると、ゼルカヴィアはずんずんと森の中を歩く。


(全く――嫌になるくらい、太陽の下が似合う子供ですね)


 陽の光が差さない魔界とは対照的に、夜がないと言われるのが天界だ。

 夜は魔界の象徴であり、太陽は天界の象徴でもある。


 魔界には存在しない色とりどりの植物に囲まれて笑う、アリアネルの眩しい笑顔も、弾んだ声も――真っ白な光の世界で、太陽に負けないくらい輝いて見えて、改めてこの子供は魔界に似つかわしくないと実感させられた。

 燦々と降り注ぐ陽光の下で、天使の祝福を受けて、幸せそうに、嬉しそうに、無邪気に笑っているのが、何より似合う少女。

 狭い部屋に閉じ込められて、息苦しい瘴気に当てられて、生まれながらの”悪”として作られた魔族に囲まれているような存在ではないのだ。


 ましてや――魔王の右腕たる自分に、こんなに眩しい笑顔を向けていい存在では、ないのだ。


「あっ!ぜる、今、向こうに何かいた!りすさんかな!?」


 きゃっきゃと抱えられたまま嬉しそうにおしゃべりするアリアネルの声を聞きながら、ゼルカヴィアは胸の中にじわりと広がる黒い靄を持て余していた。

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