第16話 アリアネル⑤
「さぁ、今日はここまでです。眠りましょう」
「えぇ!?アリィまだ眠くない!もう一冊――」
「駄目です。夜更かしは許しませんよ」
布団の中にアリアネルを引っ張り込みながら、己も一緒に横になる。
ベビーベッドを卒業してから、そのまま一人で眠らせようとしたのだが、大きくなるにつれて、何故かアリアネルの寝つきが悪くなり、少女の生活リズムが一時期、大きく崩れてしまったのだ。
人間が成長するには夜の睡眠が大事――と知識を得たゼルカヴィアは困り果て、子供を寝付かせるのに有効とされるあらゆる手段を講じた。
その一つが、絵本の読み聞かせであり、少女が寝付くまでの添い寝である。
(昼間の運動量が足りないのかもしれませんが、瘴気に慣れていない今のアリアネルには限界がありますし、難しい所ですね。とはいえ何故か、私と触れ合っていると、安心したように眠りに就くのはありがたいです。……体温が温かいのでしょうかね?絵本を読み聞かせているうちに寝落ちていることもありますし)
まだ不服そうに少し頬を膨らせている少女をなだめるように、トントンと慣れた手付きで背中を優しくリズミカルに叩きながら、ぼんやりと考える。視線を遣れば、見慣れた部屋の風景が飛び込んできた。
アリアネルの成長に伴い、魔王に頼んでスペースを拡張してもらい、簡易遊具が所狭しと並んだこの部屋を、もはや執務室と呼んでいいのかわからない。
滑り台だのブランコだの、運動能力を損なわないように、出来る限りの工夫はしているが、彼女の成長を思うなら、本当は外に出て目一杯駆け回らせてやるのが良いのだろう。
魔界に太陽がないのも、人間にとっては生活リズムを崩す大きな要因かもしれない。
「さぁ、子守唄でも歌って差し上げましょうか」
「えぇ~……ぜるのお歌は下手っぴだから笑っちゃって寝られないよ」
「む……失礼な」
確かに、歌を歌う機会など、日常生活であるはずもないゼルカヴィアが、子供を寝かしつけるための子守唄という習慣に頭を悩ませたのは事実だ。必死に努力してみても、ケタケタと少女の笑い声が響くばかりで、安眠からは程遠いから、滅多なことでは歌わなくなってしまったが。
「それより、お話をしてほしいな」
「絵本はもう、今日はおしまいだと――」
「絵本じゃなくていいから。……ぜるのお話、ききたい」
もぞ、と身じろぎをして、アリアネルは魔族の温もりを求めるようにして、広い胸に小さな顔をうずめる。
「私の話、ですか?」
「うん。……ぜるは小さいころ、どんな絵本が好きだった?」
「……私が生まれたときには、絵本などというものはありませんでしたよ」
「そうなの?……じゃあ、どんな子供だった?」
「難しい質問ですねぇ……」
苦笑を滲ませた声で、穏やかに背中を叩きながら回答を濁す。
この話をアリアネルが理解するには、予備知識が必要だ。魔族とは、人間とは、天使とはどんな存在か――命を生み出す魔王とは、どんな存在か。
明確に教えたことはないはずだが、何となく、自分がゼルカヴィアやロォヌといった魔族とは異なる存在だということは理解しているのだろう。最近、アリアネルはふとした瞬間に、不安そうにゼルカヴィアや己のことについて質問してくることが増えた。
(どこかで一度、きちんと教える必要がありそうですね。……タイミングが難しいですが)
アリアネルは人間で。ここは、魔界で。ゼルカヴィアは魔族で。
――十五になったら、少女は勇者と戦い、用が済めばその後は何の保証もないこと。
魔王はきっと、目的を果たせば当たり前のような顔でこの少女を見捨てることだろう。
いや――目的など、果たしても果たさなくても関係ないのかもしれない。
これはあくまで、魔王の”お戯れ”。
永遠を生きる魔界の王が、気まぐれに思いついた、忌々しい天使と人間への意趣返し。
(いっそ、魔族の一員だとでも偽って育てた方が良いのでしょうか。それならば、魔王様に一方的に処分されるとしても、『そういうものだ』と受け入れられる――いえ、どうでしょうね)
今まで何度も目にしてきた、魔王の手によって処分された魔族たちの亡骸を思い浮かべて、ゼルカヴィアは顔を顰める。
彼らは皆、恐怖に顔を引き攣らせ、絶望を色濃く死相に反映させていた。
敬愛する魔王の手で無情に殺されるその時――笑顔で安らかに死を迎えられた魔族は、誰一人いない。
例えアリアネルに嘘を教えて洗脳したところで、彼女の死に際が安らかかどうかは別問題だ。
(馬鹿なことを――私は、何を考えているのでしょうね。時が来れば処分することが確定している存在を前に、その最期の時がせめて安らかであるにはどうしたらよいか、などと……)
「……ぜる……?」
「いえ。……なんでもありませんよ」
腕の中で不安そうに舌足らずな声で呼びかける少女に、瞳を閉じて考えを振り払い、誤魔化すように頭を撫でる。
「昔過ぎて、忘れてしまいました。何千年も――ずっと、ずっと、昔の話ですから」
数の概念が生まれているとはいえ、せいぜい両手で数えられるくらいだろう。平易な言葉で優しく伝えると、アリアネルはもぞ、と身じろぎをした。
「そう、なの?……ぜるも、忘れたり、するの?」
「はい。……一体私を何だと思っているのですか」
「だって――ぜるは、記憶を、操れるんでしょ……?」
「――――……」
しん……と束の間の沈黙が降りる。
「そうですね。……ですが、自分自身にその力は使えないのです」
「そう……なの?」
「第一、アリアネルが言うようなことは、他人相手でも出来ません。記憶に深く刻み込まれたものを、強制的に忘却させたり、事実とは異なる記憶と差し替えたり。そうしたことは出来ますが、覚えておきたい記憶を忘れないようにする、などというのは、私には不可能なのですよ」
とん、とん、と優しいリズミカルな音だけが部屋の中に響く。
敢えて難しい単語を平易に直さずに言葉を紡いでやると、アリアネルの瞼がゆっくりと降りてくる。やっと睡魔が訪れてくれたらしい。
「忘却は、この世に生を受けた者にとって、最大の幸福です」
「こうふ……く……?」
「はい。……天使も、魔族も――皆、『忘れる』という行為があるおかげで、気の遠くなるほど長い時間を生きることが出来る。辛い記憶を、いつまでも覚えておきたくはないでしょう」
「でも……楽しい、きおく、は……」
「一緒ですよ。いつまでも楽しい記憶を持っていることが、必ずしも幸せとは限りません」
「なん……で……」
「さぁ。何故でしょうね。――もう、おやすみなさい。おしゃべりは、また明日にしましょう」
ちゅ……と柔らかな口づけがアリアネルの額に落とされる。
ふわりと触れた幻のような優しい口付けに、アリアネルはふにゃりと笑むように瞳を閉じて――そのまま、すぅっと眠りの世界に落ちていく。
「……おやすみなさい、アリィ。良い夢を」
少女が完全に寝入ったことを確認してから体を起こし、象牙色の髪を撫でて告げる。
太陽も星も月も、何一つない暗闇の世界で、小さな命に束の間の幸せを願うように――
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