第132話 再会②
薄い寝間着に厚手のショールを羽織り、アリアネルは静かな魔王城の廊下を歩く。
まっすぐに向かうのは、何度も通いなれたゼルカヴィアの私室だ。
哀しくて、苦しくて、気持ちの置き場所がないとき――こんな時に、話を聞いてくれるのは、ゼルカヴィア以外に思いつかない。
(もしかして、怒られちゃうかな……)
扉の前まで来て、ノックしようと手を上げたところで、躊躇する。
昔からゼルカヴィアは、アリアネルがどれほど家族のように慕っていると告げても、いつだって『自分は家族ではない』とはっきりと否定する。
ゼルカヴィアは、魔族だからだ。
どれほど魔王と重ねた年月が長かろうと、そこに揺るがぬ絆があろうと、ゼルカヴィアが魔族である以上、魔王とは切っても切れぬ主従の関係がある。
仮に魔王が、アリアネルを殺せ、と厳命したとしたら、説得を試みることくらいはしてくれるかもしれないが、最後は従わぬわけにはいかないだろう。
それが、この魔界に生きる人ならざる者たちの絶対の掟なのだから。
(ゼルはいつも頭のどこかで、『魔族としてあるべき姿』を描いてる気がする。だから、私が弱音を吐いても、魔族という立場からどう助言するべきか、考えながら話してる――……)
ぎゅっと扉を叩こうとした手を引き戻して胸の前で握り込む。
鋼の魔族ヴァイゼルの暴走を嘆き、死を悼む気持ちには寄り添ってくれるだろう。それは、魔界に生きる者としては正しい感情の動きだから。
だが、共に学び舎で時を過ごしたリアネの死を嘆き、シグルトとマナリーアの命を脅かされた恐怖を抱く心に対しては、どうだろうか。
そんな感情は持ってはいけないのだと――魔王の娘として相応しくない、と正論で諭され、叱られてしまうのではないだろうか。
「っ……」
ぎゅっと唇をかみしめた後、息を詰めて首を振る。
(それでも、いい。……今日は、きっと、独りで眠れないから)
自分がこの魔界で異質な存在であることなど、己が魔族ではなく人間なのだと知らされた日から、百も承知だ。
それでも、この複雑な胸の内を打ち明ける先は――どの魔族でも、魔王でもない。やはり、ゼルカヴィアしかいないと思えるから。
勇気を振り絞って、アリアネルは小さな手でそっと目の前の扉を叩いた。
◆◆◆
トン トン
控えめに扉を叩くと、部屋の中で気配が動いた。どうやら、まだ部屋の主は起きていてくれたらしい。
「……誰でしょうか。こんな夜更けに、不躾な」
警戒するような、固い声音が部屋の中から返ってくる。
「ぁ、あの――アリアネル、だよ。ゼル……ちょっと、お話ししても、いい……?」
「アリアネル……?一体どうしたと言うのですか」
怪訝そうな声が響き――そのまま扉が開くのを待つが、待てど暮らせど、一向に空けられる気配はない。
「あの……開けて、くれない……?」
「駄目です。話なら、明日でもよいでしょう。第一、子供はもう寝る時間です」
「ぅ……こ、子供じゃないもん」
「子供ではないというなら、なおさらです。私は、そんなはしたない女になるような育て方をしたつもりはありませんよ。こんな夜更けに男の部屋を尋ねるなど、一体どういうつもりですか」
「ぅぅ……」
なんだか今日のゼルカヴィアの毒舌は、いつにもまして絶好調だ。
「ゼル、お願い。……眠れないの」
「子供ではないと言ったのは貴女でしょう。もう、絵本を読み聞かせて添い寝をしてやらねば寝られないような年齢ではないはずですよ」
「そう、だけど……でも……」
へにょ、と泣きそうに眉を下げてアリアネルは立ち尽くす。
心が弱っているときに、唯一頼れる先だと信じた相手に冷たい言葉を投げかけられるのは、辛く哀しい。
「眠れないというなら、なおのこと、私にはどうしようもありません。眠りの魔法は天使の管轄です。ベッドに入り、自分で魔法をかければよいでしょう。すぐに入眠し、次に起きたときは朝になっていますよ」
「っ、そうかもしれないけどっ……そうじゃ、なくて――」
歯がゆい思いに、声が震える。
辛いとき、苦しいとき――それを吐露して、一緒にこの重荷を手分けして持ってほしいと思うのは、許されぬことなのだろうか。
アリアネルは、ゼルカヴィアを、家族だと思っているのに――
「……やれやれ。全く、人の部屋の前で、何をめそめそしているのですか」
「ぅっ……ひっく……だって……!」
扉を隔てていても、アリアネルが涙を流す気配に気付けるのは、世界中を探してもきっと、ゼルカヴィアだけだろう。
乳児期から一番長い時間を過ごした彼は、ほんの少しの声の震えだけでも、少女の喜怒哀楽の気配を敏感に察する。
そんな彼だからこそ、今夜は一緒にいてほしい――そう思うのに、気持ちが一方通行なことを思い知らされて、アリアネルはぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
いつもそうだ。
ゼルカヴィアも魔王も――アリアネルが『大好きだ』と口にしてどれだけ近寄って行っても、最後の最後、どこかで超えることのできない一線を明確に引いている。
所詮、生きる世界の違う者同士なのだから、分かり合うことなど出来ない――そう言外に告げられているようで、今日みたいな心が弱っている日には、大層堪える。
「全く……先日、十三歳になったのではなかったですか?呆れるほどに、お子様ですね」
「ぅ……」
容赦なく浴びせられる言葉に、何も言えずに俯くと、ぽたぽたと落ちた雫が、廊下に染みを作っていく。
それを見ながら、惨めな気持ちを持て余し――それでも、回れ右をして部屋に帰る気持ちにもなれなくて、根が生えたように立ち尽くしていると、部屋の中から特大のため息が聞こえた。
「いつまでそこにいるつもりですか」
「だって――だってっ……!」
歯に衣着せぬ毒舌を駆使するゼルカヴィアに、何も言い返せない。
肩にかかったショールを摘まんで俯いたアリアネルは、ゆっくりと口を開いた。
「嫌……帰りたくない」
「アリアネル……」
「部屋に入れてくれなくてもいいから――ここで、お話ししてもいい?」
涙声で宣言して、扉の前に座り込む。部屋の中で、青年が戸惑う気配が伝わった。
「まさか、朝までそこにいるつもりですか?この真冬に?自殺行為ですよ」
「大丈夫。ショールも持ってきたもん」
「そういう問題では――」
「いいの。……お願い。今日だけだから」
いつになく頑なに拒否をしてくるゼルカヴィアに、アリアネルも頑なに主張して扉に背を預けた。
これが、ゼルカヴィアが引いた『超えられない一線』なのだろうか。魔族と人間との間で揺れるアリアネルの心に寄り添うことは出来ない、という明確な意思表示なのかもしれない。
だが、それでも、いい。叱られ、呆れられてもいい。扉越しでもいい。
同じく家族と慕っていても、魔王にはこの弱音を吐くことは出来ない。
これを吐露できるのは、ゼルカヴィアにだけだから。
「……全く。貴女は変なところで頑固ですね。それとも、やはり人間だと留飲を下げるべき場面でしょうか。全く以て理解不能な行動です」
「うん。……いいよ、それでも」
「やれやれ……」
魔王のようなことを言い出すゼルカヴィアに、きっぱりと告げると、再び大きな嘆息が部屋の中から響いた。心の底から呆れられているらしい。
「どうしてよりにもよって今日なのでしょうか。少しは空気を読むと言うことを知らないのですかね、貴女は」
「……?ゼル……?」
何かぼやきが聞こえて、思わず背の扉を振り仰ぐ。
少しの沈黙の後、ゼルカヴィアの落ち着いた声が響く。
「アリアネル。……周囲に、誰かいますか?」
「え……?い、いないよ。こんな夜更けに――皆眠ってると思うよ」
きょろきょろ、とあたりを見回して確認するが、魔族の影も気配も何もない。ただ、しん……と静まり返った廊下が広がるだけだ。
「そうですか。……それでは、周囲を警戒しながら、中に入って来なさい」
「えっ!?」
「不意に誰かが廊下を通りかかっても、決して部屋の中を覗かれないように注意して――扉は少しだけしか開けてはいけませんよ。滑り込むように部屋の中に入るのです」
「?……う、うん。わかった」
硬い声で妙な言いつけをされて、怪訝に思いながらも頷く。
頑なに、これ以上踏み込んで来るなと引かれていた一線を、踏み超える許可が出たのだ。今は、つべこべ言わずに言われた通りにすべきだろう。
アリアネルは急いで立ち上がると、もう一度四方八方見渡して、廊下に誰もいないことを確認してから、そっと金属製のドアノブをひねる。
慎重に、ゆっくりと扉をわずかに開いてから、するりと言われた通り滑るように部屋の中に入った。
「――!」
部屋に入って扉を閉め、室内へと視線を投げた瞬間、息を飲む。
「やれやれ。……全く。寄りにもよって、どうして月に一度の、このタイミングで、貴女は面倒なことを言い出すのでしょうね」
「ぁ――ぁ――」
部屋の中で、呆れたようなため息を吐いた青年を前に、言葉を失う。
パチパチと暖炉に燃える赤い火に照らされている顔に、ゼルカヴィアのトレードマークの眼鏡はない。
深緑の瞳も、宵闇の長髪も、何もかも、ゼルカヴィアを象徴する特徴はない。
蜂蜜色の輝く短髪と、黄色掛かった緑色の瞳。眼鏡がないせいか、いつものゼルカヴィアよりも瞳が大きく見えて、印象的だ。
彼の姿を見たのは、いったいいつぶりだろう。
――十年近く前だったはずだ。
「この姿で会うのは、久しぶりですね。――アリアネル」
少し困ったように苦笑する青年を前に、ひくっ……と喉が音を立てる。
懐かしさが胸に溢れて、熱い衝動と共に、一瞬で涙腺が崩壊する気配を感じた。
「っ――”お兄ちゃん”!!」
叫びながら、アリアネルは苦笑して佇む青年の胸へと全力で飛び込んでいくのだった。
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