第215話 敵地潜入③

 大好きな父が見送ってくれるなど全く予想していなかったアリアネルは、ご機嫌な様子でゼルカヴィアの私室に入る。

 巨大な紫色の魔方陣が浮かぶ部屋には、相変わらず神々しさすら纏う美の化身たる父と、滅多に会うことの叶わない”お兄ちゃん”が待っていた。

 父がいるなら、動きやすいようにと一つに括った髪に、先日シグルトに買ってもらった太陽の花を模した美しい髪飾りを身に着けて来ればよかった、などと下らないことを後悔する。


「魔方陣が消えては元も子もない。作戦内容の確認は移動先で行おう」


 魔王の低く響く美声が告げて、躊躇うことなく足を踏み出すと、魔方陣の中にその長身が消えていった。

 

「はぁっ……今日もパパ、相変わらず最高に格好いいね……!お出かけ用のお洋服もマントも昔から似合い過ぎてる……!」

「貴女も相変わらずのようで、何よりですよ」


 目にハートを浮かべているのではないかと錯覚するほど恍惚とした表情で、うっとりと長身が消えた魔方陣に向けてため息を漏らす少女に、”影”は苦笑する。


「貴女の能天気さに、救われました」

「へ?何が?」

「私は、ゼルカヴィアと違って、魔王様が苦手なのですよ」


 少し困った顔で明かされた衝撃の事実に、ぱちくり、と竜胆の瞳が驚きに瞬かれる。

 

「えっ……なんで!?あんなに格好いいのに!?」

「格好いいかどうかはこの際関係ないでしょう……」


 造物主が手ずから造った力作中の力作と言える完璧な美貌を持つ父に、見惚れることはあっても、苦手だと言う感情を抱くことがあるなど、アリアネルの理解の範疇を完全に超えている。

 

「ゼルカヴィアと違って、私は魔王様のお役に立てるような存在ではありませんから」

「えっ!?そんなこと言ったら、私なんかもっと役に立ってないよ!?」

「まぁ……それを言われると、頷きそうになりますが」


 少なくとも、”影”にはゼルカヴィアの記憶を踏襲しているという強みがある。戦闘能力や魔族への威光という観点ではゼルカヴィアに遠く及ばないが、執務に関しては、他者の前に出なければ問題なく同レベルでこなすことが出来るだろう。

 その点では確かに、アリアネルよりも幾何か魔王の役に立てる存在と言えるかもしれない。


「そう考えると、貴女はつくづく凄いですね。人間と言う分際で、戦闘能力も、頭脳も、決して魔族には敵わないのに、魂の輝きという一点突破の強みと魔王様の気まぐれのみで、あの御方のお傍に控えることを許されている」

「……ぅん?褒めてる?けなしてる?」

「褒めていますよ。私の記憶にある限り、そんな存在はついぞ現れませんでしたから」


 言いながら、”影”は壁に掛けてある魔剣を手に取る。ゼルカヴィアの愛用している武器を、”影”もまた扱うらしい。


「さて、忘れ物はありませんか?」

「うんっ!どんなことがあってもいいように準備しろってゼルに言われてたから、戦闘準備もばっちりだよ!」


 胸を張って、自信満々に答える少女を、最終チェックと言わんばかりに"影"は頭から足の爪先までザッと眺める。

 髪の毛は不器用なアリアネルが出来る唯一の髪型である一つ結びでまとめられ、服装は普段の訓練でも身に着けている、すっきりと動きやすいパンツスタイル。その上から、戦闘になることを想定してか、磨き抜かれた鋼の半身鎧を身に着けていた。

 目視で確認出来る武器の類は、腰に差した短剣タガーだけだ。彼女の愛用の巨大斧は、いつものように学園で支給された魔晶石の中に封じて持ち込むつもりだろう。潜入という隠密行為であることを念頭に置いて、機動力と隠密性を重視した装備にしたようだ。


「見たことの無い半身鎧ですね。この作戦のために新調したのですか?」

「うん。この前、太陽の樹の下にいるパパとお話ししたときに、学園で支給されたのを着て行こうと思うって言ったら、万が一神官に目撃されたらややこしくなるって、止められちゃった」

「まぁ、そうでしょうね」

「でも、ヴァイゼルもいないし、どうしよう……って困った顔してたら、その場で呆れたみたいにため息ついて、指先ひとつでぴったりサイズの鎧をプレゼントしてくれたの!動きも阻害しないし、何よりすごく軽いんだよ!さすがパパだよね!」

「全く……多忙を極めて不機嫌な割合が増えている最近の魔王様に、臆せず物を強請ねだれるのは、世界広しと言えど、貴女だけでしょうね……」


 ひくり、と太陽の樹の下での二人のやり取りを想像して頬を引きつらせる。相変わらず、怖いもの知らずの少女だ。絶対に魔族には真似のできない行為を、無垢な笑顔であっさりやってのける。

 

「魔法を込めた水晶も、持っていますね?」

「うん!ポーチの中に、なるべく沢山詰めたよ!指輪と首飾りも、ちゃんと持ってる」


 掌をどや顔で差し出して、藍色の指輪を見せつける。

 ”影”は苦笑してから、ぽん、と少女の頭に手を置いた。


「戦闘準備が万端なのは良いことですが――約束してください、アリアネル。現地で危険なことがあったら、無理に戦うことなく全力で逃げると」

「え……う、うん」

「神官相手ならともかく、天使との戦闘など、考えてはいけません。今の私では、天使から貴女を守り切ることは出来ませんから……万が一の時は、作戦失敗でもいいのです。無理をせず、全力で逃げるのですよ」

「うん……」


 ゼルカヴィアも”お兄ちゃん”も、相変わらず過保護だ。

 長い睫毛に縁どられたくっきりした瞳に宿る心配の色を見て取り、アリアネルはこくり、と素直に頷いた。


「では、参りましょう。魔王様がお待ちです」


 頷いた少女に満足そうな笑みを漏らして、”影”は魔方陣へと足を踏み出す。


「ぁっ……ま、待って!」


 アリアネルは、咄嗟に青年の背中に手を伸ばし、服を掴んで引き留める。


「?……どうしました、アリアネル」

「あのっ、さっきの話――も、もしかしてお兄ちゃん、パパのこと、怖いの……?」


 伺うように下から覗きこんで来る少女に、困ったような笑みを浮かべる。


「怖い――という訳ではありません。少し……あの視線に晒されるのが、苦手なだけです。大丈夫ですよ。貴女が気に掛けるようなことは――」

「じゃ、じゃあ、私が先に行く!お兄ちゃんは、私の後から来て!」


 ぐっと足を踏み出して、まるで青年を背に庇うように魔方陣の前を陣取る。

 きょとん、と”影”は驚いたように目を瞬いた。


「向こうでも、私がパパの隣にいるようにするから、お兄ちゃんは私を挟んでパパとは反対側にいて!無理してお話とかしなくていいからね。私は、パパとお話しするの大好きだから、全然、大丈夫だからねっ」


 安心させるように少し大きな声で言い募り、笑顔で”影”を振り返る。


「昔、約束したでしょ?――大丈夫。お兄ちゃんは、私が、絶対に守るよ!」

「――……」


 元気よく眩しい笑顔で言い切るアリアネルは、どうやら冗談を言っているわけではないらしい。

 ぽかん……と間抜けな顔で少女を見つめていた”影”は、我に返った後、ぷっ……と噴き出した。


「あっ!笑った!酷い!そーゆーとこ、ゼルみたいだよね、お兄ちゃんって」

「いえ、すみません。さすがに、そこまで頼りなくはないでしょう、私も」


 むくれて不満の意を表すアリアネルに、クスクス、と堪え切れないように声を上げて笑う。

 

「ですが……そうですね。一時期、何が気に入らないのか横になるとギャン泣きして絶対に寝なかった頑固な赤子のせいで、毎晩抱っこ状態で夜が明けるまでゆらゆら揺れ続けたあの苦労の借りを、そろそろ、少しは返してもらっても良い頃合いかもしれません」

「あーっ!本当にゼルみたいなこと言い出した!お兄ちゃん酷い!」


 ぷくーっとむくれる頬は、おくるみスワドルに包まれ烈火のごとく泣き叫んでいたあの頃よりもずいぶん膨れるようになったが、それでもまだまだ小さく、可愛らしさを残している。

 愛しく懐かしいものを見るように瞳を優しく緩めた青年は、気を取り直したように少女の隣に立つと、穏やかに笑んで手を差し出した。


「さぁ、行きましょう、アリィ。余計な気を回さなくても構いませんよ。貴女が隣にいてくれれば、魔王様も全く怖くはありません。貴女の前では、あの人もただの不器用な親馬鹿になり果てますから」

「もうっ……そんなこと言ってると、パパに怒られるよ?」


 アリアネルは苦笑して、青年に差し出された手を握る。

 ゼルカヴィアと全く変わらない青年の大きな手は、少女を安心させるように小さな手を温かく包み込み、優しく魔方陣の中へと導くのだった。

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