第59話 いざ、敵陣へ⑥

 ざわっと訓練場が騒然となる気配。

 見慣れぬ少女と、執事服の青年――どう見ても部外者とわかるそれらに、攻撃力の高い魔法が迫っているのだ。

 風を司る天使は、第四位階だったはずだ。その力を借りる魔法が、脅威でないはずがない。

 土煙を上げながら、瞬く間に迫ってくる魔法を見ながら、アリアネルはぱちり、と眼を瞬いて、思った。


(――――遅い――……)


 なんだ、これは。

 蠅が止まりそうな魔法展開ではないか。


 今までアリアネルが目にした、自分以外の誰かが放つ天使の魔法と言えば、魔王が手本として見せてくれたものしかない。

 あの、芸術のように鮮やかで、美しく、無駄のない魔法展開に比べて、この、お粗末極まりない魔法は何だ。


 ――これが、聖騎士養成学園とやらが誇る、特待クラスの生徒の魔法なのか。


(……えっと。防いだ方が、いいよね?)


 チラリと一瞬視線をやるのは、腰を抜かしたらしい教師の方だ。

 ゼルカヴィアなど、放っておいても自力で何とかするだろうし、自分もまた、放っておいても勝手に加護が発動して防いでくれるだろう。

 だが――この腰を抜かして青ざめ、情けない醜態をさらしている初老の男は、どうだろうか。


(えっと、風の魔法……切り裂く能力が付与されているっぽい魔法。……竜の羽ばたきの方が、よっぽど威力も大きくて速かったけどなぁ)


 考えても仕方のないことを考えながら、すっと片手を前に掲げる。せいぜいかまいたち程度のこの魔法に、脅威を感じる方が難しいが、腰を抜かしている年長者は労わってしかるべきだろう。

 

 顔面を蒼白にしたらしい教師や、近くにいた生徒たちが慌てて近づいてくるのを視界の端に認めながら、地面に引っかき傷を無数に刻み迫る不可視の塊に向かって、魔法を放つ。

 ――無詠唱で、あっさりと。


 ドンッ


「「な――!?」」


 聞こえたのは、誰の声だったのか。

 判別は出来なかったが、それは驚きの声だったのだろう。


「な……な……」


 一番驚いているらしいのは、隣で腰を抜かしている教員だ。

 突如、何の予兆もなく下から生えるようにして現れた、巨大な土壁を凝視して、かくかくと足を震わせている。


 土壁に阻まれ、霧散したらしい風の攻撃魔法の余波だろうか。ふわり……と周辺に生ぬるい風が吹いて、アリアネルの帽子を攫って行った。


「……大丈夫ですか?」


 風に遊ぶアイボリーの長い髪を抑えながら、アリアネルは尻餅をついた教員に手を伸ばし、助け起こす。


「あ……あぁ……」

「よかった。怪我はないようですね」


 にこり、と笑んでから、ゆるりと周囲を見渡すと、いつの間にか人垣が出来ていた。


「ぇ――」


 視線が辿る先から順に、どよめきとざわめきが広がっていく。

 そんなに注目されるようなことをした覚えはない。アリアネルは戸惑い、あたふたと周囲を見回して、顔を隠せる帽子を探した。


「あの――これ、か?」

「ぁ――」


 横から、にゅっと鍛えられた腕が伸びて来て、見覚えのある帽子が差し出される。聞こえた声は、まだ、声変り前の少年らしい高い声。


「ありがとうっ!」


 受け取りながら、ほっとしたはずみで、いつも魔界でしているように、演技など忘れた満面の笑顔をはじけさせる。


 帽子を渡してくれた少年は――太陽をはじくような金髪と、群青色の瞳をした少年は――驚いたように息を詰めたあと、かぁっと頬を赤く染め上げた。


「……?」

「お手柄ですよ、お嬢様」


 少年の反応の意味が分からず疑問符を上げていると、ぱちぱち、と手を叩きながらゼルカヴィアの声が後ろから飛んだ。


「お嬢様――?お前、生徒じゃないよな」

「あ、う、えっと……は、はい。アリアネル、と言います」


 ゼルカヴィアの『お嬢様』呼びに、己の設定を思い出して、慌てて猫をかぶった口調でそっとワンピースの端を摘まみ、礼をする。


「帽子を拾ってくれて、ありがとうございました」

「あぁ、いや――それは、全然……っていうか、むしろ、うちの生徒のせいで迷惑を――」


 言って、チラリと少年は分厚い土壁へと眼をやる。


(無詠唱――だった、よな……?)


 土を司る天使は、第六位階――確かに、高位とは言い難い天使だが、無詠唱で、あの魔法展開スピードは驚異的過ぎる。しかも、出来上がったのは、即席とは思えぬほどに分厚く頑丈な、土壁だ。

 はたして、魔法学の教員たちでも、同じ芸当が出来るかと言われれば、怪しい所だとすら思う。


「いえ。見学をしていただけなのに、試験の最中にも関わらず、気にかけていただいてありがとうございます。どうぞ、お気になさらず続けてください」


 こんなにも大勢の人間に注目されているのは居心地が悪くて、帽子を深くかぶってすごすごと下がろうとする。何やら視界の端で、助け起こした教員と、試験の責任者らしき教員が話をしているのが見えた。


「ちょ――ま、待ってくれ」


 端の方に行こうとした少女の手を、慌てたように少年が取って引き留める。


「はい……?」


 ふわり……と振り返ると同時、風にアイボリーの長い髪が揺れる。

 帽子の下から微かに覗くのは――天使の寵愛を受けるに相応しい、白皙の美貌。


 ドキン……と少年の心臓が、今までにない大きさで脈打った。


「あ……ぁの……?」


 少年が手を取ったことで、周囲の生徒たちがどよどよっと再びざわめく。何やら、とんでもない注目を浴びているような気がする。


(ぁ――うわ、やだ、なんか……息苦し――き、気持ち悪い、かも……)


「アリ――お嬢様?」


 後ろから、少し硬質的なゼルカヴィアの声が飛ぶ。

 

「見学してたんだろ?そんな端っこじゃなくて――」

「あの、は、放してくださ――」


 頬を染めた名残はそのままに、きょろきょろとあたりを見回して見学に相応しい場所を探してくれようとしてくれている少年の申し出を、震える声で断る。

 駄目だ。

 何だろう。――めちゃくちゃに、息苦しい。


(だめ――こんなんじゃ、パパの、役に立てな――)


「お嬢様!」


 ゼルカヴィアの声が響いて、ガッと身体を抱き寄せられる気配がした。


(ぁ――……ゼル、だ。ゼルの――腕の、中……)


 物心ついたときから馴染んだ体温と安心感に、ほっと息を吐く。

 胸板に頬を寄せて深呼吸すると、苦しかった息が少ししやすくなったような気がした。


「どうした!?だ、大丈夫か!?」

「……申し訳ありません。少々、無理が祟ってしまったようです」

「い、医務室に――」

「いえ。……本日は、ここでお暇させてください。入園の手続きなどは、また、後日」


 きっぱりと言い切ってから、ひょいっとゼルカヴィアは少女の身体を抱き上げる。


「ゼル……」

「大丈夫ですよ。……家に、帰りましょう」


 執事の皮をかぶっているはずの狡猾な魔族の青年は、アリアネルの前でだけ、穏やかな養育者の顔に戻る。

 見慣れた青年の優しい顔に、ほっと息を吐いて、アリアネルはゆっくりと瞳を閉じた。

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