第219話 大地を司る天使①

 そっと中の様子を伺い、誰もいないことを確かめると、扉の隙間から滑り込むようにして二人は侵入する。

 パタン……と細心の注意を払って音を最小限にとどめて扉を閉じてから、アリアネルは消音の魔法を解いた。


「なるほど……ここが、『天使降臨の間』ですか」


 ”影”は周囲に鋭い視線を投げながら、注意深く室内を観察する。

 

「天使の姿は見当たりませんが、一体――」

「大丈夫。今はまだ瘴気が多いから顕現出来ないんだと思う。私がこの部屋にいて、扉が閉まって密室状態なら、そのうち聖気が満ちて、姿を現してくれると思うよ」


 アリアネルは説明しながら、以前天使が拘束されていた天井を見上げる。

 目には見えなくても、そこにきっと天使がいると信じて、声をかけた。


「あの、天使さん。私、去年、ここへ来たんですけど、覚えていますか?」

「っ、アリ――!」


 直球の質問を投げかける少女の名前を呼びそうになり、"影"は慌てて口を押さえる。万が一、作戦が失敗したときに、少女の名前が敵に伝わってしまうことを恐れたためだ。

 ”影”がそんなことを考えている間にも、アリアネルはまっすぐに天を見上げて、真摯に話しかける。


「私たち、貴方に聞きたいことがあって来たんです。良かったら、姿を現してくれませんか……?」


 それは、一般人が天使に向けるような過度な敬意を払う言葉ではない。あくまで、初対面の相手に対する礼儀としての丁寧な言葉、という程度だ。

 ただでさえ天使を崇める者しかいない神殿内で、そんな言葉づかいをしては部外者であることをより印象付けるだけだろう。天使が素直に出てきてくれるかは賭けになる。

 だが、嘘の一つも吐けない魂では、これが限界なのだろうということも”影”は十分理解していた。


(いざとなれば、天使を魔界へ連れ帰る心づもりも必要でしょうね……封天使の魔法は、古参魔族並みの実力を持って押し切るしかないとのことでしたが、ヴァイゼルが造ったこの魔剣なら、鎖を断ち切れる可能性があるかもしれません)


 ぎゅっと魔剣に手をかけて、警戒を緩めないまま”影”はアリアネルが見つめる先を共に見据える。


《あぁ……先日の、心地よい聖気を発する娘か。そなたの聖気は変わらず穏やかで温かく、瘴気で弱った身体に染みる》


 どこからともなく声が響いた――と思ったとたん、ゆらりっ……と二人が見つめる先の虚空が、奇妙に揺らいだ。


「――!」

「アリィ!下がりなさい!」


 咄嗟に、魔剣を構えた”影”がアリアネルを背に庇って立ちはだかる。この国ではありふれた愛称で呼ぶことで、名を知られることを避けたらしい。


「お、お兄ちゃん!」


 自分が”影”を守ると何度も約束していたアリアネルは、まさか青年に庇われるとは思っておらず、困惑した声で自分が前に出ようと画策するが、ゼルカヴィア同様、服の下の鍛え抜かれた鋼のような身体は少女の力ではびくともしなかった。

 青年の長身の向こうには、昨年見たときと変わりない様子で、橙に淡く発光する鎖に雁字搦めにされた盲目の天使が宙に釣られている。


《ふむ。今日は、一人ではないのか。目の見えぬ我には、其方らの姿はわからぬが――妙な共連れだな。聖気は愚か、瘴気も感じない。人間であれば、微かではあってもどちらかの気を絶えず発しているものだ。人間ではないとしても――気配を探るに、天使でも、魔族でもないようだ。当然、竜という訳でもあるまい。何者だ……?》


「貴方には関係のないことです。質問に答えなさい。――地天使の居場所を知っていますか」


 硬い声でゼルカヴィアは天使の言葉を一蹴し、鋭く問いかける。

 アリアネルは尋問のような口調を咎めてか、「お兄ちゃんっ……」と小さく抗議の声を出して背中から服を摘まんできたが、無視した。


《地天使の居場所……?知っているも何も――》


 鎖に捕らわれた天使は、警戒心をあらわにする”影”の声を気にも留めず、軽く首をかしげて口を開く。


《我こそが、大地を司る天使だ》


「「なっ――!」」


 予想外の答えに、少女と”影”は同時に絶句する。


 正確に言えば、ゼルカヴィアはその可能性を考えないわけではなかった。かつて魔王にも「捕らわれた天使が地天使である可能性もある」と告げていた。

 ただしそれは、「奇跡的に」という枕詞を付けるくらいには、荒唐無稽だと思っていた。

 

《心地よい聖気の人の子よ。我に何用か?救いを求める清らかな子の頼みは、可能な限り聞いてやりたいと思っているが、生憎、見ての通りの様だ。自由の利かぬこの身で叶えられる望みであれば良いが……》


 地天使は、困った顔をしながらも、アリアネルを安心させるように穏やかな口調で微笑みを浮かべて見せる。

 彼が、人間に対して好意的な性格だというのは、どうやら本当らしい。


《この場に留め置かれてから長らく、息苦しい瘴気のせいで顕現すら困難な中、人の子に我の存在を認知されることは少なかった。数百年ぶりに心地よい聖気を馳走してくれた礼だ。我に叶えられることであれば、何でも聞いてやろう》


「あ、ぅ、えっと……」


 地天使が好意を持って協力を申し出ているのは、アリアネルが規格外の聖気を放つ魂を持つためらしい。無条件で何でも聞く、と言ってのける理由も、これほどの眩しい魂が望むことが、悪巧みであるはずがないと確信しているためだろう。

 ”影”は、下手に自分が口を出すよりもアリアネルに直接交渉を任せた方が賢いと判断し、戸惑っている少女に尋問役を担うよう、視線だけで促す。

 こくり、と少女は強張った顔で頷いて、考えながら口を開いた。


「あの……貴方が、魔石を作っていたのですか?」


《魔石……?》


「竜の魔法の源となる魔水晶に似た石です。魔水晶の劣化版のようなものと思っています。パパ――えっと、貴方たちが命天使と呼ぶ人が、魔水晶のような特殊鉱石を造る魔法は地天使の固有魔法だから、魔石も貴方にしか作れないのではと言っていて――」


 アリアネルの言葉に、地天使は驚いたように身体を揺らす。

 ギッ……と橙の鎖が耳障りな音を立てた。


《なんと――其方は、命天使様と言葉を交わせるのか!?》


「へっ!?あ、うん、は、はい」


 終始穏やかだった天使が、急に声を荒げたことに驚きながら、こくこくと頷く。

 盲目の天使は「おぉ……」と感動の声を漏らした後、醜い傷跡の付いた瞼からハラハラと美しい雫をこぼした。

 

《あぁ……一万年ぶりにその名を耳にした……命天使様は、ご健勝であられるか》


「え?う、うん……元気、だと、思います……」


《そうか……それは、よかった。一万年前のを境に、命天使様は変わり果ててしまったと聞く。それ以来だ。天界と魔界の軋轢が強まり、魔族を滅するためという大義名分を得て、正天使の横暴が激しくなっていったのは――》


「あの事件……?」


 涙を流しながら語る地天使の言葉に、アリアネルは眉を顰めるが、それを遮るように”影”がずいっと前に出た。


「昔話を聞かせて時間稼ぎでもしているつもりですか。貴方の言う通り、現代に至るまで天界と魔界の軋轢は強まり続け、今や一触即発の緊迫状態です。それに拍車をかけたのが、貴方が作ったと思しき魔石――魔族の中に埋め込み、夢天使の魔法できっかけを与えて強制的に飢餓状態にすることで、瘴気酔いによる暴走状態を生み出し、強力な魔族の数を効率よく減らしていく……貴方たち天界側の陰謀は、既に殆ど見破られています」


《な――》


「貴方が魔石を生み出していたというならば、諸悪の根源であることに変わりはない。今、ここで、貴方の首を刎ねれば済む話ですね」

「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!パパは、地天使を殺すのは混乱を生むから駄目だって――」

「悠長なことを言っている場合ですか。相手は天使ですよ。既に、我らに気付かれぬよう、味方の天使を呼んで時間稼ぎをしているだけかもしれない。人を疑うことを知らない貴女の性質は、時に美徳でもありますが、今はただ危機感が足りないと言わざるをえません。我らは侵入者であり、彼らの敵なのですから」


 アリアネルの進言もあっさりと切り捨てて、”影”は魔剣をしっかりと構える。

 橙色の鎖は動きを拘束するだけで、魔法を制限したりはしないという魔王の言葉を信じれば、どこから反撃が来るかわからない。慎重に目測を定め、重力を軽くして一足飛びに距離を詰め、一息で首を刎ねなければならないだろう。

 密室の中、アリアネルが発した聖気に押しやられて薄くなった瘴気でどこまで重力を操作出来るか目算しながら、青年が低く腰を落としたとき、捕らわれの天使が静かに口を開いた。


《……そうか。私が作ったあの石は、そんなことに使われていたのか》

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