第61話 【断章】少年の初恋
太陽が真上から少し西に傾き、半日がかりの魔法試験が終わった後――
少年シグルトは、『医務室』と書かれた札が掲げられる扉を無造作に開けた。
担当教諭は今頃、試験会場で魔法を覚えたての新入生らを相手に、魔力を回復させる応急処置に奔走しているはずだから、この部屋に大人はいないはずだ。敬意を払ってノックをする必要などないだろう。
扉を開けると、ふわり……と穏やかな風が吹き込んできて、窓にかけられた純白のカーテンが内側へとゆったり膨らむ。
静まり返った昼下がりの、絶好の昼寝日和と言っても差し支えない条件がそろったその部屋の中――いくつかのベッドが並ぶエリアの一つ――唯一カーテンが閉ざされ、誰か生徒が寝ていることがわかるそれへと少年は迷わず近づき、無造作に手をかけた。
「おい。――試験、終わったぞ」
天井に備え付けられたレールが耳障りな音を立てて、一息に目隠し用のカーテンが開け放たれた。
「いやん。エッチ」
「ざけんな。わざわざ起こしに来てやったんだぞ。感謝しろ」
シーツを引き上げながら、ふざけたことを言い放った腐れ縁の幼馴染に、青筋を浮かべながら文句を言うと、目の前の少女は軽く肩を竦めてシグルトの言葉を流した。
「起きてるなら自力で戻って来いよ。教師に何言ったのか知らねぇけど、どうせサボるための嘘だったんだろ」
「失礼ね。起きたのはついさっきよ。試験、思ってたより時間がかかったのね。もっと早く終わるかと思ってた」
ふぁ……と欠伸をしながら身体を伸ばすマナリーアに、シグルトは半眼で嘆息する。
嘘だったことを否定しないということは、やはり、本当に仮病だったらしい。第一位階の天使の加護をもらっているくせに、この怠け癖はいかがなものか。
「何よ、その顔。別にいいでしょ。試験そのものをサボったわけじゃないもの。単位はちゃんと出るわ」
「そういう問題じゃねぇだろ。新入生たちは慣れない魔法使って、酷い奴は倒れることもあるし、未熟な奴に至っては魔法を暴発させたり暴走させたりもする。お前は魔法が得意なんだから、残って他の生徒のフォローしてやればいいだろ」
「何でよ。それが面倒くさいから、さっさと終わらせて、引っ込んでたんじゃない。そーいうのは、正義の味方シグルト先輩がやってくれればいいんじゃないですかね~?」
「治癒系の魔法は圧倒的にお前の方が得意だろ、っつてんの。ったく……慈悲を司る治天使様が泣いてるぞ」
ギッとベッドに腰掛けて嫌味を言うが、マナリーアは堪えた様子もなく肩を竦めただけでそれを流した。
試験は、通常の魔法授業の成績が良い順に行われる。
シグルトが言った様に、怪我人や予期せぬトラブルが起こりうる可能性があるため、治癒をはじめとした上位天使の力を借りる魔法を使えるほどの上級者から先にテストを行い、後半の生徒の試験フォローをするためだ。
「そんなこと言ったって、結局いつも、なんだかんだで大きなトラブルなんか起こらないじゃない。多少のことが起きても、教師だってシグルトだっているわけだし――第二位階の天使の加護を持ってる上級生もいるし。そりゃ、さすがにこの医務室に血まみれで運び込まれてくるくらいのトラブルが起きたら、あたしも手伝うわよ。でも、どうせ今回も、何事もなく平和に終わったんでしょ?」
ノーコン生徒が明後日の方向に魔法をぶっ放す――くらいのトラブルは毎回あるが、当然教師らもそれくらいは予見済みだ。
試験の際は、生徒たちにはしっかりと距離を取って待機する場所を指定し、魔法でトラブルに対処できるほどの成績者たちも周囲に点在させ、どの方向に何が起きても誰かが対応できるようにしている。
第一、特待クラスしか集められていない試験なのだ。練度に差異はあれど、試験場には誰も彼も魔法を使えるものしかいない。
この厳戒態勢下で、自分の魔法が必要になるほどのトラブルなど、起こるはずがなかった。
そう考えたマナリーアは、成績上位者の特権で早めに試験を終えた後、『月のもの』のせいで貧血気味だと言って医務室へと引っ込んでしまった。
瞳を伏せて悲痛な顔で恥ずかしそうにコソコソと耳打ちされた男性教員は、少女が随分早く初潮を迎えていたことに一瞬驚愕したようだったが、本当かどうかの証明など出来るはずもない。その上、それを理由にされては、治癒魔法でどうにかすることも出来ない。
結局、渋い顔で医務室行きを許可するしかなかったのだ。
「それが、そうでもなかったんだよ」
「えっ!?嘘、マジで!?」
深いため息とともに告げられた幼馴染の言葉に、マナリーアは流石に顔を青ざめさせながらシーツを跳ね除けて聞き返す。
「いや、まぁ、結果としてはどうにかなったから、お前が必要になるようなヤバい事態になったわけじゃないけど――でも、一歩間違ったら、マジでヤバかったと思う」
シグルトは、昼間の出来事を思い出す。
部外者から見れば、生徒たちの待機場所の意図などわかるはずもないだろう。安全に配慮されつくしたその試験場の意図を、一般生徒を中心に教えている教師に汲めと言う方が無理な相談だ。
結果として、通常であれば人がいるはずのない場所に、最悪のタイミングで、魔法を使えぬ部外者がのこのこと現れてしまったことになった。
「何よ、何があったのよ」
さすがに少し罪悪感があるのだろう。マナリーアは、上ずった声で詳細を促した。
「部外者が、見学に来てたんだよ」
「部外者?」
「そう。後から聞いたら、特待クラスに編入してくる生徒らしい。編入前に、学園の見学に来てたらしいんだけど――たまたま空いてるのが、特待クラスを殆ど受け持たない教師しかいなかったらしくて」
「――!」
マナリーアとて、馬鹿ではない。シグルトの説明で、すぐに何が起きたかを悟った。
「だ、大丈夫だったの!?」
「あぁ。――ビビったよ」
その時の光景は、よく覚えている。
あの時、シグルトは別の生徒のフォローに入っていたから、未熟な生徒によって魔法が明後日の方向に放たれた瞬間は見ていなかった。――当たり前だ。見てたらすぐに、あんなことになる前に防いでいた。
『あっ――危ないっっ!』
叫び声と共にザワッ――と背後で不穏なざわめきと妙な緊張感が走った空気を敏感に感じ取り、すぐさま振り返った。――己の方に魔法が飛んできたと思ったからだ。
だが、違った。――事態は、そんな程度では済まなかった。
視界に飛び込んでくる情報を、脳が瞬き一つする間に処理していく。
標的である魔晶石を大きく外れて飛んでいく魔法。――地面に引っかき傷のようなものが無数に付けられていくのを見て、風の魔法なのだと一拍遅れて判断する。
砂埃を上げてそれが進む先に、どう見ても部外者――つまり、魔法など使えないであろう第三者――がいた。
しかも、そのうちの一人は、恐怖に腰を抜かして尻餅をついているではないか。――あれでは、逃げたくても逃げられない。数瞬後には、真正面から魔法が直撃するだろう。
その瞬間、フォローに入っていた生徒も教師も全員が青ざめていた。
咄嗟に手を掲げて、呪文を唱えようとしている者。予期せぬ出来事に絶句して立ち尽くすしか出来ぬ者。
(駄目だ――呪文を唱える暇なんかない!)
シグルトは咄嗟に両手を向けて魔力を練る。
無詠唱の魔法は、通常の授業では禁止されている。――暴走の危険性が高すぎて、失敗する確率が余りに高いためだ。百戦錬磨で最前線にいる聖騎士ですら、よほどの時でない限り、無詠唱での魔法展開はしないと授業で習った。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
(俺が無詠唱で展開できる魔法で――第四位階の風の突進型魔法を防ぐことが出来る効果を持つのは――!)
脳が人生で最速と言っても過言ではない速度で情報処理を始めるが、頭に浮かんでは消える選択肢はどれもこれも有効とは言えないものばかりで、血の気が引く。
瞬きを一つしたら、既に魔法は対象者の目前に迫っていた。
見れば、情けなく尻餅をついた教師だけではなく、戦闘には向かなさそうな上等な執事服に身を包んだ若い紳士と、つばの広い帽子をかぶったワンピースの少女がいるではないか。
(おい――!誰か――!!!誰でもいいから――!)
目の前が絶望に塗りつぶされて、せめて誰かが対処してくれと心から祈る――が、きっと、他の生徒も教師たちも、シグルトと同じ状況だったのだろう。
「っ……!」
シグルトは、咄嗟に地面を蹴って駆け出した。
今更、人間の脚で駆け寄ったところで、到着できるのは魔法が直撃した後だろう。この身を盾にすることすら出来まい。
そんなことはわかっていたが、何かをせずにはいられなかった。せめて、直撃後すぐに治癒魔法を展開して応急処置に当たることくらいは出来る。
もしも最悪の事態になった時に、最も頼れる幼馴染がこの場にいないことを恨みながら、とにかく夢中で地を蹴った。
一瞬遅れて、同様のことを思いついたのか、複数人が走り出したようだが、意味はないだろう。
誰一人、予期せぬ事象になすすべなく実のある行動を出来ぬその中で――少女がすっと前に手を掲げるのが分かった。
最初――魔法に対する本能的な恐怖で、防御姿勢を取ったのかと、思った。
上等そうなワンピースに身を包んだ小柄な少女の恐怖を想い、事の重大さを改めて認識――するより、先に。
ドンッ
地面が、揺れた。
あり得ない速度の、魔法展開。
呪文は聞こえなかった。――無詠唱、だろう。
(な――)
目の前の光景が理解できず、絶句し、思わず足を止めてしまう。
土壁に阻まれ、霧散した風の魔法の余波でふわり……と生暖かい風が周囲に満ちて、少女が被っていた帽子が宙に舞った。
そのままトサ……と小さな音を立てて、シグルトの足元に着地する。
帽子の下から現れたのは、息を飲むほど美しい造形をした、人形のような美少女だった。
年の頃なら、シグルトらと大して変わらないだろう。
色素の薄いアイボリーの髪を風に遊ばせながら、倒れている教師を助け起こし、優しい声をかけている。
(魔法で――防い、だ……?あのタイミングから、無詠唱で、あんなに完璧な、魔法展開を――?)
教師も、上級生も、正天使の加護を持つ自分ですら出来ない芸当を、この少女は何食わぬ顔でやって見せたと言うのか。
それを可能にするには、単純な魔法の技術だけでは足りない。
咄嗟の状況に、己の能力の中で最適な魔法はどれかを検索し、展開する――その判断力は、実戦を何度も経験しない限り、難しいだろう。
それを、自分と大して歳の変わらぬ少女がやってのけたことに驚いて――おそらく、周囲の人間も全員が同じことを考えていたのだろう――思わず、その場で立ち尽くしたまま呆然と少女を見つめた。
そんな視線に気づいたのだろう。顔を上げた少女は、予想以上に注目を集めていたことに驚いたようだ。
びくりと肩をはねさせた後、頬を染めてオロオロと視線を揺らし、頭へと手をやってから、ハッとした顔で地面をきょろきょろと見回した。
(……嘘だろ)
有事の際に、とんでもなく冷静な判断を下せるくせに――どうして、この状況ではそんなに慌てて困惑しきった顔をしているのか。
そのアンバランスさが少し可笑しくて、少女が探しているであろう足元の帽子を手に取り、近づいた。
部外者を守ってやれなかった謝罪の言葉の一つでもかけようと思って、化け物みたいな魔法能力を見せつけた少女の素性を知りたいという興味本位も手伝い、声をかけた。
――その瞬間、だった。
『ぁ――ありがとうっ!』
目の前に、太陽が現れたかと、思った。
恐ろしいほど冷静に魔法を展開した天才の横顔でも、注目を浴びてオロオロと慌てる頼りなさそうな顔でもない。
たとえるなら、そう――
「――天使――」
「――は??何言ってんの、アンタ」
少し遠いところを見ながら、ぽつり、と呟いたシグルトの言葉に、マナリーアは思い切り眉を顰めて怪訝な顔を返す。
「皆が憧れるような、本当の天使、ってのは――ああいうのを言うんだろうな……」
「は?……ちょ、何よ。大丈夫?熱でもあんの?」
あらぬ方向を見ながら、ぽーっと心ここにあらずな様子で急に意味不明なことを言い出した幼馴染を前に、マナリーアは困惑しながら少年の額に手を当ててやる。――どうやら平熱らしい。
「……アリアネル、っていうらしいんだ」
「は?」
「天使の名前」
「……はぁあああ???アンタ、本当に頭大丈夫?」
噛みしめるように言ってのける幼馴染に、マナリーアは半眼で聞き返す。
自分が知る限り、彼はそれなりに優秀な頭脳を持っているはずなのに、一体どうしてしまったと言うのか。
思い切り馬鹿にしたような表情で見てくるマナリーアへと視線を戻したシグルトは、じっとその顔を見つめた。
活発な少女の性質を表すような、生命力にあふれる若草色をした大きな瞳。今日見た天使と同じくらいで切りそろえられた、栗色の長い髪。色白と言える肌を持っているが、その顔色を見る限り、病弱とは程遠いほど健康的だ。
確かにそれは、第一位階の治天使の加護を賜るだけあって、一般的な女児と比べれば、十二分に整った造形をしていると言えるだろうが――
「な……何よ」
急に顔をまっすぐに見つめられて、居心地が悪くなって聞き返すと、少年は「はぁっ……」と肺の中の呼気を全て吐き出すような特大なため息を吐いた。
「なっ……!?何よ何なのよ失礼な奴ね!!!こんな美少女マナリーア様を前にして!」
「いや……ないわ。ないない。お前、本当にあの天使と同じ性別なのかよ。その程度で美少女とか、マジで鼻で笑うわ」
「はぁあああああ!!!!?ちょ、アンタ、そこに直りなさい!ぶん殴る!」
本当に鼻で笑いながら言ってのけた幼馴染に、顔を真っ赤にしながら激怒する。
ベッドに座ったままの体制からボスボスと腰の入らない拳を何度も叩きこんで来るマナリーアに笑いながら、シグルトは立ち上がった。
急に現世に舞い降りた天使と見紛う美少女は、病弱なのか唐突に倒れてしまったから、早く強くなって自分が守ってやらなければと強烈に心に誓ったものだが――この気兼ねしなくてよい昔馴染みは、そんな心配は無用らしい。
「まぁいいや。ホラ、行こうぜ。残りの座学はお前も出るだろ」
今日出逢った天使は、例えるなら王城に住まう美しい姫。
自分は、その姫の住まう世界を護るために戦う、勇者だ。
その昔、竜から国を守って褒美に姫を下賜された先祖の話を思い出す。
あの絶世の美姫を褒美に嫁に出来ると言われれば、自分もきっと、どんな死地へも向かえるだろう。愛らしい天使の笑顔を護るため、愛しい少女が待つ地へ生きて帰るため、どんな戦場でも歯を食いしばって戦える。
だが――戦場で実際に背中を預けて、泥臭い姿を見せることが出来るのは、この気兼ねしない幼馴染の方なのかもしれない。
少年シグルトは、人生で初めての恋に気付いて、次に天使に会える日はいつになるのかと、指折り数えて待つことになるのだった――
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