第14話 アリアネル③

 コポコポと水が流れる音がして、ガチャリ、と扉が開く。


「ちゃんと手を洗いましたか?」

「うん!ちゃんとおてて拭いた!」


 ドヤ顔で両手を突き出し見せてくる幼女に、ハイハイと頭を撫でて褒めてやりながら、再びその紅葉のようなふくふくとした小さな手を軽く握る。


「体調は大丈夫ですか?気持ちが悪くなったり、息がしにくくはないですか?」

「うんっ!アリィ、まだ、だいじょうぶ!」


 こくんっと大きく頷くと、象牙色の豊かな髪がぱっと散る。


(まだ大丈夫……少しは苦しい、ということでしょうかね。善性の塊は、気軽に嘘もつけないらしい)


 健気に天使の笑みを浮かべる幼女と、毎日暮らしてもう三年。乳児期には、最終的に微妙な泣き声の差異で、ミルクかおしめか眠いのかを判別できるほどになっていたゼルカヴィアには、アリアネルが本心でどのようなことを考えているか、手に取るようにわかる。

 アリアネルは、嘘をつくのが下手だ。――いや、吐けない、と言った方が正しい。

 何かを偽ろうとするときは、自分から嘘を吐くことは決してないが、相手が誤解したことを積極的に正すことをしない、という行動に出る傾向にあることは、この三年の月日で十分に理解していた。


(魔王様は、可能ならば人間界に潜り込ませて――などと言っていましたが、この調子のまま育たれては、任務が完遂できるかは怪しい所ですね)


 さすがに、『魔王に拾われ魔界で育てられた正天使の加護を受けた人間』などという事実は、荒唐無稽すぎて誰も想像できないだろうから、正体が明るみに出る心配はほとんどないが、自分から積極的に悪意を持って嘘を吐けないというのは、要らぬ厄介事を巻き込む可能性がある。


(全く……本当に、赤子のころからとんでもなく手のかかる娘ですね)


 行きと違ってアリアネルの口数が減ったのは、瘴気で苦しくなっているからかもしれない。

 それでも決して弱音を吐くことなく、ぎゅっとゼルカヴィアの手を握り締めて、唇を引き結んで懸命に歩く様は、健気と評するに値する。


 子供が頑張ろうとしているのを、大人が勝手に手助けしてはいけない――

 いつぞや育児書で読んだ一説を思い出して、忍耐強く幼女の歩幅に合わせながら、ゼルカヴィアは額に汗を浮かべるアリアネルを注意深く観察する。

 昨日は、片道だけでギブアップしていた。――だが、今日は随分と頑張っている。

 生まれた瞬間から成熟した存在として造り出される魔族と違って、人間の成長と言うのはとても興味深い。


「頑張りましょう、アリアネル。あと少しです」

「うんっ……!アリィ、がんばる!」


 励ましの声をかけると、ふーっと深呼吸して気合を入れ直すアリアネルは、とても素直な頑張り屋だ。

 辛抱強く、子供の成長をじっと見守っていると――


「ゼルカヴィア様。ちょうどいい所に」

「――っ!?」


 急に声をかけられて、驚いて振り返る。

 そこには、アリアネルの食事を任されている魔族ロォヌが立っていた。


「ロォヌ……どうしましたか」

「本日の、その人間の食事ですが……先日ゼルカヴィア様より頂いた食材の一部が、思いのほか早く腐敗してしまいまして、当初の献立を作れません。事前に栄養価を考えられての献立と聞いておりますので、どうしたものかとご相談したく、お部屋に伺おうと思っていました」

「そうですか、それはわざわざありがとうございます」


 そんなもの、現場最適で柔軟に対応するか、伝言メッセージの一つでも飛ばせばよいものを――という本音は飲み込んで、報連相をきちんと励行した部下に形ばかりの労いを与える。

 このロォヌは、まだ生み出されて三年もたっていない、いわばひよっこ魔族なのだ。多少のことは目を瞑ってやるべきだろう。


(魔王様も、どうせお造りになるならもう少し柔軟性のある者を――いえ、偉大なる魔王様の創造にケチをつけるわけではないのですが)


 眼鏡を押し上げ、心の中で言い訳する。

 瘴気を糧に生きる魔族は、人間のような食事をとる必要がない。当然、料理を作れる魔族など存在しなかった。

 ミルク程度ならば、ゼルカヴィアでも調達し与えることが出来るが、さすがに毎日の食事ともなれば話は別だ。まず、離乳食とかいう訳の分からない存在に躓くところから始まった。

 魔王に、人間の生態と発育を伝え、判断を仰いだところ――少し呆れた顔をされたが、自分が育てろと言い出した手前、面倒だとも言えなかったのだろう。

 まさかの、アリアネルのためだけの魔族を一体、その偉大なる力を持って生み出して見せたのだ。


 人間の食事を調理するためには、人間が使う道具を使わなければならない。――つまり、ある程度の人型が取れねばならない。

 結果、アリアネルのためだけに創造された魔族ロォヌは、無駄に中級魔族相当の力を持っているらしい。瞼の閉じ方が特徴的なのを見るに、衣服で隠れた肌には、爬虫類系の何かが混ざっていそうだ。


「ちなみに、何の食材が駄目になったのでしょう。主菜に使う物ですか?副菜に使う物ですか?」

「副菜です。パンム茸というキノコの一種なのですが――」


 ゼルカヴィアは生真面目なひよっこ魔族の相談を聞きながら、意識の半分を繋いだ手の先へと注ぐ。

 正直なところ――早く切り上げたい。

 魔族は、そこにいるだけで瘴気の塊だ。まして、生み出されてから間もないロォヌともなれば、瘴気の分解効率も良くないだろう。

 部屋まであと少し――と頑張っていたアリアネルからすれば、急に濃密な瘴気を纏った存在が傍にやってきたことになる。

 限界が近いはずだ。


「わかりました。それでは、明日の献立分として用意していた食材からいくつか選び、補ってください。パンム茸というキノコは足が速い物だと、私も覚えておきましょう」

「かしこまりました。ありがとうございます」


 指示を下すと、ロォヌは恭しく礼をして廊下の奥へと消えていく。


(全く――いえ、駄目ですね。たかだか百年も生きられぬアリアネルの三年と、何千年も生きる魔族の三年では、価値が違います。人間換算すれば、今のロォヌはギャーギャーと泣くしかなかった出逢ったばかりのアリアネルと同じ……そう考えれば、ロォヌは言語も通じるし、トイレも一人で行けるし、夜中にこちらの睡眠時間を不当に削ってくることもありません。天才児とすら思えます。多くを望んではいけませんね)


 こめかみを抑えながら、過去に比べてだいぶ部下に寛容になった自分を実感して雑念を払っていると、ぎゅ……とズボンの裾が頼りなく引っ張られるのが分かった。


「ぜる……」


 見下ろすと、繋いでいなかった方の紅葉のような小さな手を必死で伸ばして、蚊の鳴くような声で縋るように服を掴む幼女がいた。

 顔は真っ青で、息は上がり切っている。


「すみませんでした、アリアネル。辛かったですね」

「っ……!」


 謝りながらすっと膝を折って視線を合わせようと屈むと、ぶんぶん、と小さな頭が横に振られた。


「ロォヌにも言っておきます。アリアネルが傍にいるときは不用意に話しかけぬようにと――」

「だ、だいじょうぶ……!アリィ、ロォヌのこと、好き……!」

「?」


 ぶんぶん、と蒼い顔のまま必死に主張するアリアネルの言葉に、疑問符を上げる。


「いつも、おいしいごはん、作ってくれる……アリィのために、アリィが食べやすいように、作ってくれる……!」

「あぁ――まぁ、そうですね。ロォヌも、彼女なりに試行錯誤しているようです」


 最初は、野菜ひとつ取っても、大人サイズに切られて美しく盛り付けられていたのだが、アリアネルが上手く食べられないでいると、次第にサイズが小さくなり、盛り付けも美しいものから可愛らしいものへと変化していった。


「アリィが、がんばるから……!いつか、ロォヌと、いっぱいおしゃべり、したいな……!」


 荒い息で、玉のような汗を浮かべながら、それでもにこっと笑顔を見せるアリアネルに、ゼルカヴィアは微かに目を眇める。

 どうしてこの子供は、これほど濃厚な”悪”の気で満たされた魔界の中で、眩しく輝いていられるのか。


「わかりました。……ですが、今日は諦めましょう。これ以上は限界です」

「ぇ?――ひゃっ!」


 ゼルカヴィアは、もう一歩も歩みを進められなくなったアリアネルの脇の下に両手を差し込み、ひょいっと持ち上げる。

 そのまま、慣れた手つきで抱っこの姿勢を取った。


「私も魔族ですので、楽にはならないかもしれませんが。――これならすぐに部屋に着きますので、我慢してください」

「ぜる……」


 しっかりと尻の下に片手を入れて安定させながら、回した手で軽く背中をさすってくれる魔族の整った顔は、いつも通り涼やかだ。

 

「ぇへへ……ぜるは、平気。一緒にいても、アリィきもちわるくならないよ」

「まぁ、あのひよっこ魔族と違って、無駄に長く生きていますからね。瘴気を不必要に纏ったり放出したりはしませんよ」


 安心したように身体を預けて、両手を首に回してくる幼女を抱いて、ゼルカヴィアは颯爽と廊下を歩きだす。


「ごめんね、ぜる……今日も、アリィ、お部屋まで行けなかった……」

「いいのです。また明日、頑張りましょう」


 ぽんぽん、と背中を叩いて、ぐったりしながら申し訳なさそうにする少女を励ます。

 少し前まで、気分が悪いときはこちらの服を汚すことも厭わず盛大に吐瀉物をぶちまけては、鼓膜が破れるほどに号泣していた赤子が、一丁前なことを言うようになったものだ。

 本当に――人間の成長速度には、驚かされる。


「今日のアリアネルは頑張っていましたから、特別です。……寝る前ではなく、部屋に帰ったらすぐに、絵本を一冊読んであげましょう」

「ほんと――!?」


 ぱぁっと喜んで顔を上げる。


「ありがと、ぜる!大好き!!!」

「はいはい」


 ぎゅぅううっと首を絞めるようにして全力で抱き着いてくる幼女をあやしながら、ゼルカヴィアは執務室の扉を開けたのだった。

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