第74話 ミヴァ②
執務室から出ていく長身の背中を見送ってから、アリアネルはそっとゼルカヴィアを振り返った。
「ゼル……」
「……今の話は、貴女の胸に留めておきなさい。もしも口外してしまう不安があるなら、今、私が貴女の記憶を消して差し上げます」
カチャリと眼鏡を押し上げながら言う魔族に、ふるふる、とアリアネルは頭を振った。アイボリーの長い髪が頼りなげに揺れる。
「大丈夫。誰にも言わないよ」
「そうですか。それならば、良いです」
言ってからゼルカヴィアは、アリアネルが活けた花瓶に近づいて、そっと花の位置を直す。
そのまま、何ということはない調子で口を開いた。
「正天使が――恐ろしいですか?」
しん……と静寂が広い執務室に降りる。
たっぷり時間をかけた後、アリアネルは俯いて、正直な気持ちを吐露した。
「……うん。すごく、怖い」
「ほう。……それは、どうして?」
横顔で振り返って、ゼルカヴィアは先を促す。
アリアネルは、ぎゅっと自分の右手を左手で握り込み、震える吐息を吐き出してから言葉を紡いだ。
「パパから聞いた話――造物主の”愛”の話――私には、どうしても、理解が出来ないの」
「そうですか」
「正天使も同じ”愛”を、造物主に注いでるんだよね?でも――その狂った”愛”を囁くのと同じ唇で、『正義』を語る天使なんでしょう」
「……そうですね」
「ごめんなさい……私、どうしても、理解が出来ない。理解が出来なくて――怖い、の……」
長い睫毛が頬に静かに影を落とし、か細い吐息が震える。
「呪いみたいな、見返りを求める”愛”も、よくわからない。相手を縛って、相手を害しても己が欲しい”愛”を求める身勝手な行為は、もっとわからない。そうして――”愛”している相手が、過去に愛した人を殺したくなる気持ちは……もう……全く……」
「わからなくていいですよ。そんなもの、理解できなくて当然なのです」
ぎゅっと瞳を閉じたアリアネルの頭を、ぽんぽん、と撫でてやりながら優しく告げる。
アリアネルは、混乱する頭を振り払うように、ぶんぶんと首を振る。象牙色の髪がパッと虚空に散った。
「私だって、パパに『おめでとう』って言ってほしいよ。一度でいいから、パパの声で『アリアネル』って呼んでほしいってずぅっと思ってる。でも――それを決めるのはパパで、私じゃないもの。パパが嫌がってるのに、無理矢理に言ってほしいなんて、思わない」
「そうですね」
「パパは、誰も愛したことがないって言うけれど――もしも、過去に誰かを愛してたんだとしたら、私はその人のことも大好きになると思う。……だって、あのパパが好きになるくらいの人だよ?絶対に聖人君子みたいな、すごく性格のいい人で、賢くて、何でも出来ちゃう完璧超人みたいな人だもの。あと、絶対に美人だと思う」
「ふっ……なるほど?それは興味深い考察です」
ゼルカヴィアは堪え切れないように喉の奥で笑って目を細める。
「そんな人がいたら、私は一度、お話ししてみたいよ。どうやったらあの頑ななパパに好いてもらえたのか、聞いてみたい」
「そうですね。私もぜひ、それは聞いてみたいところです」
「正天使みたいに、危害を加えたいなんて絶対思わない。むしろ――ありがとう、って」
ぎゅっと右手を握り込んだ後、アリアネルは顔を上げる。
「”愛”は最も理解から遠い感情だ、って言ってたパパに、”愛”を教えてくれてありがとう、って――お礼を言いたい」
「ふむ……お礼、ですか。相変わらず、貴女の思考はユニークですね」
「だって……私は、一生かかっても、それが出来るかどうかわからないから。――だから、ありがとうって、伝えたい。私がしたかったことを、既にしてくれてたんなら、本当にありがとうって伝えたい」
苦笑するゼルカヴィアに、何度も真剣に訴える。
まっすぐに見上げてくる少女の視線を受け止めた後、ゼルカヴィアは一度瞳を閉じて、ゆっくりと笑みを造った。
「大丈夫ですよ。……心配しなくても、貴女は魔王様に”愛”を伝えられています」
「え――?」
「絶対に、ご自身ではお認めにならないと思いますが――というより、御自覚があるかどうかすら、怪しいところですが」
呆れたように言ってから、膝を折って少女と目線を合わせる。
幼いころから見慣れた竜胆の瞳を覗き込んで、黒ずくめの魔王の右腕は、穏やかな表情のまま言葉を続けた。
「魔王様が今、新しく創ろうとしている命――来月の貴女の誕生日までに作れるかどうかすら怪しい、と言うほどに難しい創造をしようとしているわけなのですが、どんな魔族だと思いますか?」
「えっ……?」
唐突な質問に、きょとん、と大きな目を瞬く。
困惑したように目を泳がせ、全く想像がついていない様子のアリアネルに、クスリ、とゼルカヴィアは笑った。
「なんと――『魔力を元に瘴気を無から発生させることが出来る』魔族らしいですよ」
「え――!?」
大きく眼を見開いて、アリアネルはゼルカヴィアを見返す。
「そ、そんな魔族、造れるの――!?」
「さぁ。やってみないとわかりませんが――ここ最近、執務の合間に何やら書類に書きつけて熟考していらっしゃる様子でしたので。きっと、魔王様の中では『出来る』と思えるだけの自信を持てたからこそ、地下に籠るとおっしゃったのだと思いますよ」
「す、すごい……そんな魔族が出来たら、無理して皆人間界に行かなくても――!」
「まぁ、普通なら、そう考えますよね。……ですが、魔王様は、魔族の食事事情に配慮してそれを造ろうとしたわけではないようですよ?」
クスクス、とゼルカヴィアはおかしそうに笑いながら言う。
「何のためだか、わかりますか?」
「え……う、うぅん……わかんない……」
困った顔でギブアップする少女に笑って、そっと頭を撫でてやる。
「貴女のためですよ、アリアネル」
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