第282話 15歳の誕生日②

 その日は、朝からずっと幸せだった。


「パパ、帰って来てたの!?」


 バァン、と扉を大きく開いて魔王の執務室に飛び込んだアリアネルは、全身で喜びを表している。

 制服を着込んで学園へ行く準備を整えているところから察するに、出がけにゼルカヴィアあたりが魔王の帰城を知らせたのだろう。


「おかえりなさい!」

「……相変わらず、騒がしい子供だ」


 朝から執務机に向かっている魔王は呆れたようにため息を吐くが、アリアネルは懲りていないようだ。

 竜胆の大きな瞳をまっすぐに父に向け、毎年の”おねだり”を繰り出す。


「パパ、あのね!今日はね、私の誕生日なんだよ!」

「そうか」

「あのね、あのね……私、パパに、『おめでとう』って言ってほしいな!」

「……くだらん」


 書類から目を離しもしない父の、いつも通りの塩対応に、アリアネルはむぅ、と唇を尖らせる。

 どうやら、今年も難攻不落な態度は変わらないようだ。


「アリアネル。そろそろ出発しないと間に合いませんよ」

「はぁい」


 入り口から声をかける執事姿に扮したゼルカヴィアに、アリアネルはやや不服そうに返事をしてから、机に向かったまま視線の一つも寄こさない彫刻のような美丈夫の首に、するりと細い腕を回した。


「……?」

「いってきます、パパ。――今日も、大好きだよ」


 ちゅっ

 

 軽いリップ音を立てて、いつものように父の美しい頬に軽やかに唇を落とす。

 すぃっと初めて、蒼い瞳が動いて少女を捉えた。


「えへへ。……今日はまだ始まったばかりだもん!帰ってきたら、またおねだりするからね!日付が変わらないうちに、今日こそ、『おめでとう』って、言ってね!」


 ばいばい、と手を振りながら、少女は元気よく魔王の執務室を出ていく。

 パタン……と小さな音を立てて扉が閉まると、先ほどまでの賑やかさが嘘のように、途端に部屋が静寂に包まれた。


 アリアネルが部屋を訪れた際には、一瞬で世界が眩しいほど色付き、華やかになったはずなのに、こうして少女が去った後は、どこを見ても空虚な白黒モノクロが広がるばかりだ。

 魔王の執務室に、耳が痛いほどの静寂と、あるべき何かが欠けてしまったかのような言葉にしがたい寂寥が染み渡っていく。


「フン……くだらん」


 もう一度呟いて、魔王は小さく鼻を鳴らすのだった。


 ◆◆◆


「忘れ物はありませんか?今日は誕生パーティーとやらがあるのでしょう?」

「うん、大丈夫。学園までは、ミヴァが従者のふりをしながら、ドレスとかが入った鞄を持って行ってくれることになったの」


 まるで親子のような会話をゼルカヴィアと交わしながら、城を出て馬車に向かうと、ミヴァが馬車の扉を開けて待っていた。アリアネルの言葉通り、教本などが入っている鞄とは別に、ドレス一式が入っているらしい少し大きな鞄も持っている。


「ドレス、ですか。昨日、ミュルソスと出かけて買ってきた物ですか?」

「うん!ちょっと前に、パパに、パーティー用のドレスが欲しいってお願いしたら、ミュルソスを連れて好きに買って来いって言ってくれたから。……本当は、パパと一緒にお買い物に行きたかったんだけど、無理だよね。あんなに格好いいんだもん。人間界をパパが歩いてたら、街中大騒ぎになっちゃう」

「貴女は本当に、時々とんでもない発想をしますね……」


 ひくり、とゼルカヴィアの頬が引き攣る。

 世界広しと言えど、魔王を人間界の買い物に付き合わせようなどと考えるのは、アリアネル以外にはいないだろう。しかも、それを踏みとどまる理由が『格好良くて大騒ぎになっちゃう』からだという。

 もっと他に気にすべきことがあるだろう、と言いたくなるのを堪えて、ゼルカヴィアは嘆息した。


 今日は、少女の記念すべき十五回目の誕生日だ。

 小言は控えめにしてやっても良いだろう。


「……アリィ」

「ぅん?――っ、ひゃぁ!?」


 珍しく愛称で呼ばれて、振り返ると同時、足が宙に浮いて間抜けな声を出す。

 ぐるりと視界が回転して、気づけばゼルカヴィアを真下から見上げるアングルだった。


「なっ――何何何何!?」

「今日は、誕生日ですからね。たまには、甘やかしてあげても良いのではと思ったのですよ。いつも、こうして抱き上げられる絵本の中の”お姫様”に憧れていたでしょう?」

「何年前の話!?」


 かぁっと頬を赤らめて叫ぶ。

 慇懃無礼な魔王の右腕は、ひょいっと軽々アリアネルの身体を横抱きにし、いわゆる”お姫様抱っこ”で持ち上げたのだ。


「さぁ、姫。束の間の距離ですが、私がこうして馬車までお連れいたしましょう」

「え゛……ゼル、何か変な物でも食べた……?」

「失礼な。落としますよ?」


 甘い笑みと声音で告げられた言葉に正直な感想を返すと、いつも通りの冷ややかな反応が返ってくる。

 役柄に徹しきれない親代わりの魔族の様子に、ぷっ……と思わず噴き出した。


「あははっ!やっぱり、ゼルはゼルだね!」


 天邪鬼で、慇懃無礼で――それでいて過保護な、世界で一番信頼できる、家族のようなゼルカヴィア。

 根底にあるその本質がいつまでも変わらないことを感じ取って、アリアネルは声を上げて笑ってから、素直にするりとゼルカヴィアの首に腕を回した。


「ゼルにお姫様抱っこしてもらうのは、初めてだね!」

「おや?私以外の誰かにされたことがあるかのような口ぶりは聞き逃せませんね?」

「ぅん?一回だけ、”お兄ちゃん”にしてもらったことがあるよ。二年くらい前かなぁ?」

「あぁ……そういえば、そんな日もありましたねぇ」


 ヴァイゼルの訃報が届けられた日の夜、少女の身体をベッドに運ぶとき、人間の筋力では子供の頃のように抱き上げることが出来なくて、こうして横抱きにしてやったことを思い出す。

 ゼルカヴィアの感覚では、少女の言う”お兄ちゃん”が別人であるという認識はないため、失念していた。


「ふふふっ……嬉しい。今度、パパにもお願いしてみようかな。パパ、いつも片手でひょいって持ち上げる、子供の頃みたいな抱っこしかしてくれないから」


 鈴の音を転がすような笑い声を響かせて、アリアネルは嬉しそうな顔をしている。

 少女がずっとこの魔王城で暮らし続けるのであれば、いつか、そんな日が来たかもしれない――そう思わせる笑顔だった。


 ――そんな日は永遠に来ないというのに。


「さぁ、着きましたよお姫様」


 ちょうど馬車に辿り着いたのを口実に、ゼルカヴィアはアリアネルの言葉に言及することなく身体を座面へと降ろす。


「ありがと、ゼル」

「えぇ。……さぁ、行きましょう」


 言いながら、座ったアリアネルの額に軽く唇を落とす。

 虚を突かれたように、アリアネルは竜胆の瞳を何度も瞬いた。


「ゼル……?」


 ゼルカヴィアは、表に出さないだけで、本質はとても過保護な男だ。アリアネルを本当の家族のように慈しんでくれていることを、少女は誰より良く知っている。

 だが――本人はそれを、絶対に認めない。

 『誰が家族ですか、誰が』と言って否定するくらい、いつだって表面上は冷たく突き放すようなそぶりを見せる。

 『アリィ』と愛称で呼んでくれることも、滅多にない。

 『大好き』を伝える証だと教えてくれたキスだって、アリアネルが眠りに落ちるギリギリの、意識が白濁してきたころに幻みたいにしてくれるのが殆どだった。


 それなのに、ミヴァも見ているこのような屋外で、朝一番から口付けを落としてくれるなど、天変地異の前触れかと疑ってしまう。


「一年に一回しかない、誕生日です。それも、学園の友人たちと仲良く過ごす、最後の大きなイベントでしょう?今日くらい、貴女にとって最高の思い出になるよう、存分に甘やかしてあげますよ」

「むぅ……今年だけ?」

「勿論です。今年だけですよ。来年の保証はありません。いつだって、脆弱な人間らしく、今を精一杯生きなさい」

「えぇ……何それ」


 急に、格言めいたことを言いだした、らしくない親代わりの青年の言葉に、アリアネルはクスクスと笑う。

 少女は、知らなかった。

 

 今日は、学園の授業が終われば、学生寮に友人たちと直行し、パーティーが始まる。

 そのまま、帰りは夜になるだろう。


 今夜は、新月。


 ――新月の夜は、彼女が知る”魔族ゼルカヴィア”に、会うことが出来ない。


(だからこれが、貴女が知る”ゼル”との、今生の別れですね。アリアネル)


 幼子をあやすようにポンポン、と冗談めかしてアイボリーの頭を優しく撫でて、心の中で苦笑する。

 今宵、本当の意味での別れを告げるときには、”お兄ちゃん”の姿で告げることになるだろう。


(天敵である天使の前に出るのに、脆弱な”影”の姿で向かわねばならないなど、最初はどうしたものかと悩みましたが――貴女が大好きな”家族”に最期に会わせてやれる、という意味では、これも良かったのかもしれません)


 さすがに、治天使も馬鹿ではない。先日、魔王に力ずくでねじ伏せられたのは記憶に新しいはずだ。

 引き渡しは、魔王も傍らに控え見届けてくれると言う。何があっても、治天使がこちらに攻撃を仕掛けて来るようなことはないだろう。


(記憶を封じる魔法は、この一年をかけて、厳重にかけ終わりました。治天使がこの子に唇を寄せれば、その瞬間、アリアネルの中から十五年の記憶は消えてなくなる――)


「動きます」


 御者台からミヴァの声がかかり、動き出す馬車の中、ご機嫌なアリアネルを視界の端に捕えながら、ゼルカヴィアは窓の外へと視線を遣る。


 明日から、この寒々しい魔界の景色は、全てのいろどりを無くすのだろう。

 

 魔王がかつて何万年も捕らわれていたと言う、白黒モノクロの世界というのがどんなものか、今ならゼルカヴィアにもわかるような気がしていた――

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