第226話 封天使⑤
まだ肌寒さの残る春先――それも一日のうちで最も冷え込む深夜帯だというのに、少女の顎先から、珠のような汗が滴り落ちる。
バチバチと音を立てている手元は、気を抜けばすぐに弾き返されてしまいそうで、全体重を掛けながら押し込んでいると言うのに、なかなか最後まで扉を押し開けない。
(早く――早くしないと、お兄ちゃんが――!)
一緒に来たのがゼルカヴィアだったとしたら、アリアネルがここまで焦ることはなかっただろう。
いつもの絶好調の皮肉を飛ばして天使を余裕綽々に追い詰める背中に隠れて、邪魔をしないように努めてさえいればよかった。
だが、今日一緒にいるのは、自分と同じくらい脆弱な”お兄ちゃん”だ。
アリアネルが幼いころから、彼は臆病だった。
まだ少女が魔王や城の魔族からの信頼を今ほど勝ち得ているとは言い難いほど幼い頃は、少しでもアリアネルの姿が見えないと、蒼い顔でその身を案じていた。少女が無事だとわかると、白い顔のまま心から安堵したように渾身の力で小柄な身体を抱きしめて、二度と心配を掛けないように、と何度も念を押したものだった。
そんな青年がいつも口酸っぱく言っていたのは、ただ一つ。
『”影”の私には、いつものゼルカヴィアと違って、貴女を外敵から守る力がありません。くれぐれも、危険に巻き込まれるような事態は避けなさい』
魔王城という、絶対安全と言える場所にいても、青年はいつも怯えて人目を避けるようにアリアネルを抱きしめた。彼は常に部屋の中から出ることはなく、己の存在を完全に秘匿していた。
魔族は、天使よりも序列を絶対視する。
実力と実績で、名実ともに魔王の右腕として認められているゼルカヴィアと違い、存在を秘匿されている”影”には実力も実績もない。
人間程度の力しかない”影”は、とてもゼルカヴィアのように古参魔族と渡り合うことなど出来ないだろう。
彼らの不興を買い、アリアネルが危害を加えられそうになった時、”影”は実力で守ってやることも、序列による権力を振りかざすことも出来ない。
だからいつも、蒼い顔で震えながらアリアネルを抱きしめる。
大好きな城の魔族らが、アリアネルを害すことなどあるはずがないと何度説明しても、「貴女はあくまで人間です。脆弱な存在で、この城での立場は確立されていないのです。魔族をあまり信用しすぎないでください」と逆に窘められるばかりだった。
過保護なゼルカヴィアに、輪をかけるようにして過保護な青年――それが、アリアネルが抱く”お兄ちゃん”のイメージだ。
そしてその過保護は、青年の、どこまでも低い自己肯定感から来ている。
自分は、ゼルカヴィアや城の魔族と違って、脆弱で採るに足らないちっぽけな存在。
本来、この城に存在していてはいけない、魔族とは一線を画す異端な存在。
何の役にも立たない、何も出来ない、お荷物のような存在。
そんな風に自己を卑下しては臆病な発言ばかり繰り返す癖に、いざというときは、身を挺してでもアリアネルのことを守ろうとする青年。
(お兄ちゃんは、臆病でも、役立たずでもない!私にとっては誰よりも勇敢で、頼りになる、誰より大事な『家族』だもん――!)
寂しくて底知れぬ孤独に怯えて泣いてしまった夜、優しく抱きしめてくれた。
何も怖いことはないと証明するように、力強い腕で抱き上げて、幼子の機嫌を取るようにゆすりながら、甘い声であやしてくれた。
寒くて凍える夜は少女を毛布で包んで膝にのせ、優しい声で絵本を読んで、温もりを分け与えるように同じ布団で寝てくれた。
――生まれて初めて、言葉に出して、自分はアリアネルの『家族』だと明言してくれた人。
(お兄ちゃんが、どうしてそんなに自分を卑下するのかはわからない。でも、私の言葉なんか届かないくらい、その根は深くて――だから、私は、何百回でも、証明するよ!)
己を脆弱と言い切り、危険に近寄らぬよう徹底的に部屋に引きこもってきた臆病な青年が、今、敵うはずのない高位天使に挑んでいる。
すべては、アリアネルを守るため。
少女を無事に魔界に還すために、青年は命を賭して危険に飛び込んだのだ。
そんな勇敢な青年を、役立たずなどと、一体誰が揶揄するだろうか。
「お兄ちゃんっ!」
ぽたぽたと流れ落ちる汗をそのままに、アリアネルは背後に向かって叫ぶ。
体力の限界が近づいていることを悟るが、封天使に青年がやられてしまうことなど、考えない。そんな最悪な未来は、想定しない。
少女が描くのはいつだって、飛び切り幸せな、最高の未来だけ。
大好きな”お兄ちゃん”と一緒に魔界に帰り、門の向こうで待っている父に「ただいま」と笑いかける未来だけだ。
「準備して!」
カラカラに乾いた喉で背後に叫んだあと、すぅっと少女は息を吸い込む。
大好きな家族と暮らすかけがえのない日常に戻るため――少女は静かに、覚悟を決めた。
「我、正義を司る天使に乞う。我は正義の代行者。天の導きに従い、悪しきをくじき、弱きを助ける」
それは、学園で習った教本に載っていた長々しい呪文。
正天使の加護を持つ者にしか扱うことが出来ないと言われている、勇者だけに許されたとっておきの切り札だった。
決して使うなと魔王に厳命されていたが、もしもの時を考えて、呪文だけは頭に叩き込んでいた。
これはきっと、今日、この時のためにあった呪文。
コォッ――と身体が微かに発光し、尽きかけていた力が四肢に漲る。
「この身は剣となり、敵を屠る。この身は盾となり、民を護る。今こそ正義の名のもとに、鬼神がごとき力をわが手に――
アリアネルが呪文を締めくくった途端、人間の能力の限界を超えて、少女の筋力が増強されるのがわかった。
◆◆◆
"影"の剣技と魔法を織り交ぜた多彩な猛攻を凌ぎながら、封天使は考える。
(女は、『扉を開けて魔界へ帰る』と言った。魔族の仲間か?しかし、目が眩むほどの聖気を放っている以上、人間と考えるのが妥当だ。正天使の恣意的な印象操作で、魔族は悪だと植え付けられているはずだが――)
世の中には、邪教と呼ばれる宗教があり、特定の魔族や魔王を神と崇めるものがあると言う。ル=ガルト神聖王国では淘汰されたそれも、世界を探せば確かに存在するはずだ。
国外で育ち、そうした宗教に染まった人間なのか――と考えても、違和感は拭えない。
邪教は基本的に、世界の破滅を願う教義ばかりだ。
聖気の光を意図的に隠すような封印越しでも、直視すれば網膜を焼かれるのではと思うほど眩しい光を放つ魂が、邪教の教えに共感するとは思えない。
(いや、もっと不可解なのは、この男だ。聖気どころか、瘴気も感じない。人間では、ない……?だがそれならば、王都に侵入できているのは何故だ。異常な戦闘センスといい、未知の存在であることは疑いようがない――)
扉と格闘している少女は、己の封印と真っ向勝負が出来ている以上、第二位階以上の天使が加護を付けた存在だろうと推察できる。魔界勢力との因果関係は謎だが、何らかの理由で魔族に協力している稀有な人間、と考えれば一応の説明はついた。
だが、目の前の青年については、どれほど思考を巡らそうとも、確からしい仮説すら出てこない。
「ふっ――!」
「氷盾!」
呼気と共に両手から魔力を封じる漆黒の鎖を生み出し、青年の身体を拘束せんとするが、読まれていたのだろう。青年を護るように展開した分厚い氷の盾が鎖をはじき返し、地に落ちる。
「
間髪入れずに唱えた青年の魔法が完成し、蒼い炎が無数の礫となって間近に迫る。
「っ、
視界を覆うほどの弾幕を防ごうと障壁を展開すると、灼熱の業火を突っ切るようにして切り込んできた青年が、視覚の隙をついて魔剣を振り抜いた。
「くっ!」
魔力を帯びた剣は、鋼で造られた剣とは段違いの強度と切れ味を誇る業物だ。
(扉の前の女から、距離を離されている――!聖気が薄い方へと誘導するつもりか!)
神殿は、世間の認識とは裏腹に、狂気に満ちた神官が天使の傀儡となっている魔窟だ。特に一般人が踏み入ることを許されない一画は、瘴気が濃く、聖気が薄い。
そこにいるだけで尋常ではない聖気を放つアリアネルが傍にいれば、封天使は際限なく魔法を使うことが出来るが、アリアネルから離され、瘴気の濃いエリアに近づけば近づくほど、戦況は”影”に有利になる。
咄嗟の判断にしては、見事と言わざるを得ない。
青年と切り結ぶ剣を奪われた封天使は、強力な物理障壁を展開できない時は、この狭い廊下では後方に距離を取らざるを得ないからだ。
相手の攻撃など無視して、廊下ごと破壊する強烈な攻撃魔法を放てば話は早いのだろうが、ここは地下だ。ここが崩れれば、地上にある神殿は崩壊し、罪のない神官たちに少なくない犠牲が出るだろう。
本来、天使たるもの、瘴気を生み出すような行いは許されないものだ。
命天使に造られた純正の天使であり、かつて命天使を信奉した者として、その矜持を忘れることはない。狂った正天使に、逆らえない眷属が命令されて盲目的に従うのとは訳が違う。
「はっ!」
「ぐ――!」
これ以上聖気の発生源から離されては、使用できる魔法に制限が出てしまう。なおも繰り出され続ける魔剣を、最高強度の障壁で何とか受け止め、封天使は足をとどめた。
一瞬生まれた膠着状態。青年の顔が、至近距離に迫る。
(この男の顔、どこかで――)
そう。
膨大な聖気を発する少女よりも、青年が気になる理由。
ずっと、泥のように不快に纏わりついてくる違和感の正体は、これだ。
この青年の顔は――どこか、見覚えが――
「お兄ちゃんっ!準備して!」
少女の掠れた高い声が、精一杯の声を張り上げた。
瞬間、青年の瞳がギラリと光る。
「
「何っ!?」
じゅわっ――
絶望的な音を立てたのは、封天使の足元だった。石造りの床が抜けるような感覚と共にガクン、と姿勢が崩れる。
天使が驚いて思わず視線を下げた瞬間、”影”は迷うことなく踵を返し、早口で呪文を唱えながら少女の元へと急いだ。
「待て!」
黒い霧に包まれるようにして石床が腐り落ちていく。床を蹴って飛び上がろうにも、現在進行形でぐずぐずに崩れていく不安定な足場では高い跳躍など不可能だ。
咄嗟に翼を広げて宙に浮かぼうとするが、封天使の逞しい体格に見合う大きな翼は、狭い廊下で十分に広げることが敵わず、焦りも伴い上手くいかない。
脱兎のごとく背を向けて一目散に逃げる金髪の青年に手を伸ばし――
――既視感が、過った。
(終始、魔族の魔法しか使わない不可解さ。明らかに戦闘慣れした戦い方。一緒に魔界に帰ると発言した少女。見覚えのある、顔の造形――)
点在していたすべての情報が、一瞬で線でつながっていく。
「貴様、もしや――ゼルカヴィアか!!!」
封天使が吼えるのと同時――
バァンッ!
ついに封印を打ち破り、巨大な扉が大きな音を立てて開かれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます