第267話 【断章】抱っこ
パタン……と執務室の扉が閉まる音がすると、やっとアリアネルを抱きしめていた腕の力が緩められる。
「……?どうした。聖気が過剰生成されている」
「へっ!?そ、そそそそうかな!!?」
逞しい胸板から顔を上げるアリアネルの声は変わらず上ずっており、頬は熟れた果実のように真っ赤に染まっている。
不可解なものを見るように魔王は軽く首を傾げた。
(だって、パパにぎゅってされたんだよ……!?嬉しいに決まってるよ……!)
幼いころから、大好きで大好きでたまらない父。
ここ数年は、城を空けがちで、顔を合わせることも言葉を交わすことも少なかった。稀に城で遭遇し、言葉を交わせれば、それだけで天にも昇る嬉しさを感じていたくらいだ。
そんな魔王が、アリアネルを自ら引き寄せ、胸に抱きしめてくれたのだ。
聖気は、ポジティブな感情と共に生成される。
嬉しい、幸せ――そんな感情でいっぱいになった今のアリアネルからは、当然この部屋を一瞬で満たさんばかりの聖気が過剰に生成されていることだろう。
「ご、ごめん、パパは体調が悪いのに……ぇへへ……」
ふにゃりと頬がだらしなく緩むのを押さえられない。隠すように両手で頬を押さえて引き締めようと努力するが、効果はほとんどないようだ。
少女の締まりのない顔を見ていると、随分と気が抜ける。
「お前の過剰な聖気を摂取したせいか、何に苦しんでいたのかすら忘れた」
呆れたように鼻を鳴らす。いつの間にか、耐えがたい頭痛の波は完全に消え去っていた。
「ホント……?元気になったなら、良かったんだけど」
安堵の笑みをこぼす少女には、邪気が入り込む余地がない。
部屋に染みわたるように広がっていく心地よい聖気は、魔王の元天使としての身体を安らがせた。
「何がそんなに嬉しいのか、理解に苦しむ」
「えっ!?パパが、抱きしめてくれたんだよ!?嬉しくて堪らないのは、当然じゃない?」
心底驚いたように言う少女に、魔王は軽く眉を顰める。確実にピンと来ていない顔だ。
(理解は出来ないが……言われてみれば、俺が他者と触れ合うということ自体が、珍しいことかもしれん)
魔王が誰かに手を触れるなどというのは、基本的には固有魔法を行使するときにしか行わない。
はっきりと上下関係がある魔族相手では、言葉を交わすだけで相手を委縮させてしまうくらいだ。日常で、魔王が相手に手を触れる事態など起きない。
天界にいたころも、大して変わらなかった。
造物主の課した制約から、誰かを特別視していると誤解されぬよう、他者と慣れ合うことは避けていた。万が一にも造物主に目を付けられれば、すぐに相手の命を奪わなければなくなる。
故にこうして肌を触れさせ、誰かの温もりを感じることは、久しくなかったことのように思う。
(そう言えば、この子供の歩幅が極端に狭く体力がない時分は、移動効率を上げるために抱き上げてやっていたな。その時も、何が嬉しいのかは理解できないが、確かにやたらと喜んでいた)
初対面で、誰もが恐れる魔界の王を前に『抱っこ!』と無邪気な笑顔で両手を伸ばしてきた姿を思い出す。
戯れにひょい、と抱き上げてやった日――思えばあれは、数万年の記憶の中でも珍しい、他者との触れ合いだった。
腕の中にすっぽりと納まる幼女の小さく脆弱な身体は、羽が生えているのかと思うくらい軽くて、驚くくらいにぽかぽかと温かい体温を宿していた、と思い出す。
どんなタイミングで戯れに抱き上げても魔王城の瘴気を中和するのではと思うほど過剰に生成される聖気は、要求した『抱っこ』が叶えられて、幼女がこれ以上なく喜んでいることの裏返しだった。
「……ふむ」
「パパ?どうし――ひゃっ!!!?」
何かを考えていた魔王を覗きこんだ途端、アリアネルの口から素っ頓狂は悲鳴が上がる。
ひょいっ――
魔王は、まるで人形か何かを抱き上げでもするかのように、十四歳になったアリアネルを、幼女の頃と変わらない抱え方で『抱っこ』し、立ち上がって見せたのだ。
「パっ――ぱぱぱパパ!!!?」
「……身体の成長と共に、随分と重くなったようだ」
片腕で、成人に近い身体付きのアリアネルを軽々持ち上げながら放つ言葉ではないが、造られた存在である彼の筋力は、人間の常識で測るものではないのだろう。あるいは、重力軽減の魔法を、瞬き一つの間に無詠唱であっさり展開したのかもしれない。
幼女の頃であれば、逞しい胸板にこてん、と身体ごと頭を預けてバランスを取れただろうが、十四歳の今のアリアネルにそれは到底かなわない。
ぐらぐらと揺れる身体を慌てて支えるように、父の頭にぎゅっとしがみつく。長身の父に抱き抱えられては、天井が未だかつて体験したことないほど近くにあって、脳みそが混乱した。
「なっ、何何何!!?どうしたの!!?」
「何を驚いている?こうするとお前はよく喜んでいただろう」
「何年前の話!?」
思わずツッコミを入れながらしがみ付いた父の顔を見る。
軽く首を傾げ、不可解なものを見るように見上げる蒼い瞳に、うっ、と言葉に詰まった。
(そ、そっか……私にとっては十年も前のことだけど、パパにとってはついこの前、みたいな感覚なのかも……)
そう考えると、恥ずかしいと言う気持ちも抗議の言葉も引っ込んでしまう。
(でもなんで急に、こんな――)
戸惑いながら考えたとき、父が不意に口にした言葉を思い出す。
『こうするとお前はよく喜んでいただろう』
「ぁ……もしかして……」
「?」
涼やかな顔の父を見下げながら、ドキドキと胸が高鳴る。
(もしかして――『抱っこ』したら、私が喜ぶ、って……思ったから……?)
それはつまり――アリアネルを、喜ばせたい、と思ったということ。
――――あの、愛を知らぬ冷酷非道の存在と名高い、魔王が。
「っ……!」
感激のあまりぎゅっと胸が締め付けられるような感覚が押し寄せる。
魔王の感覚では、つい最近。幼女だったころのアリアネルが喜んでいたことを、今も同様にしてやったら、きっと少女は変わらず喜ぶだろうと思って、急にこんなことをしたのだとしたら――
「昔と同じく体温が高いな。聖気がいつにも増して多く生成されるのは同じか。……普段、誰かと皮膚接触を伴うことはない分、新鮮な感覚だ」
何やら感慨深く、娘を『抱っこ』している父親の感想とはかけ離れた感想を口にしている魔王に、アリアネルはぎゅっと唇を噛みしめる。
嬉しくて、涙が出そうだった。
誰かを『喜ばせたい』と思って、行動すること――
役割も、使命も関係ない。
ただ、相手のことだけを想って行動すること。
――これを、”愛”と言わずして、何と言うのか。
魔王にとっては、気まぐれに端を発した無意識の行動かもしれない。
もし今、ここで、アリアネルが『その行動こそが、”愛”の第一歩だ』と口にして伝えれば、即座に眉を顰め、アリアネルを床に下ろしてしまうだろう。
だからアリアネルはぎゅっと口を噤んで、大好きな父の頭を力いっぱい抱きしめた。
「?……どうした」
「っ、すごく――すっごく、嬉しくて……」
誰かを抱きしめること。
温もりを分かち合うこと。
他者に愛情を示す基本的な行為を、何万年も生きているくせに、殆ど経験したことがないという父が、己の意志でそれをしてくれた――それが、心の底から、嬉しくて。
「あのね、パパ――あのね、あのねっ……!」
気まぐれでも、錯覚でもいい。
アリアネルを『喜ばせたい』と、心の片隅で、一瞬だけでも、思ってくれたのは、きっと紛れもない事実だから。
「っ――大好きっ……大好き、だよ!」
いつもとは違う上から見下ろす形で、父の額に唇を落とす。
「……フン。成長しても、中身は変わらずか」
過剰に聖気を生成しながら、いつも通りの”愛”を惜しみなく与えるアリアネルに、魔王は呆れたように嘆息するが、言葉の素っ気なさとは裏腹に、アリアネルを下ろすことはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます